第48話 最後の結界
北方古代結界網の最後の接続点を開く日は、雪解けから十日後に決まった。
セレナが王都から戻って、ほぼ半年が過ぎている。
その間に、王国側九箇所とノルトハイム側九箇所を一つずつ恒久修復した。石を入れ替え、銀線を引き直し、古い核の周囲だけは新しい線が通りすぎないよう抵抗を合わせた。
最後に残ったのは、国境の川にある中州だった。
半年前、二つの机を置いて初めてイルゼと話した場所である。
「机、まだありますね」
渡し舟から降りたセレナが言うと、イルゼは川原の上流を指した。
「三度流されかけました」
「撤去しなかったんですか」
「撤去すると、軍務府がまた会談場所を探し始めます」
「それは困りますね」
「だから石で脚を固定しました」
机の脚には、本当に大きな石が括りつけられていた。カイルが後ろから見ている。
「次は流されない?」
「川が増えれば流れます」
イルゼが答えた。
「では、その時にまた考えます」
セレナは笑った。今日ここへいるのは六人ではない。
王国側の術者が十一人。石工が八人。騎士が十二人。ノルトハイム側の技師と兵が二十人ほど。さらに川の両岸には、近隣二村から来た見張り役が配置されている。
全部を数えると五十人を超える。
川向こうでは、村の子どもが二人、旗を持って待っていた。学院へ入るにはまだ年齢が足りないが、角鹿の移動時期だけは大人よりよく知っている。
「朝、上流で二十六頭見た!」
一人が大声で知らせる。
「去年より早いですか」
セレナが聞く。
「三日くらい!」
「なぜ分かるの」
「去年、祭りの次の日だったから!」
記録帳だけでは出ない答えだった。マルタがすぐ時刻と頭数を書き込む。
「来年から、この欄も作ります」
「何の?」
「住民観測です。数字でなくても、毎年同じ人が見ている情報は残した方がいいので」
セレナは頷いた。
「お願いします」
自分なら、魔力値を測って終わっていたかもしれない。
魔獣がどこを通るかは、結界網だけで決まらない。雪の量、草の芽吹き、川の水位、人の動き。村にいる人間ほど早く知ることも多い。
中州で今日やることは、古代網を一つにつなぐことだけではなかった。つないだ後に、誰が異常を見つけるかまで含めて、ようやく保守になる。
以前のセレナなら、人数が多すぎると思っただろう。
今は、誰が何をするのか分かれているなら、多いことは問題ではなかった。
中州へ来るまでの半年は、同じ作業の繰り返しではなかった。
一箇所目では、新しい銀環の通りが良すぎて古い石が焼けた。二箇所目では、冬の凍結で据え直した基点が春になって沈んだ。三箇所目では王国側の記録とノルトハイム側の記録で基点番号が一つずれていた。
そのたびに、誰かがやり方を変えた。
イルゼ側では新しい部材へわざと抵抗を足す規格が作られ、辺境側では据え直した石を三日後と三十日後にもう一度見る手順が増えた。番号のずれは両国共通の照会表へ旧番号と新番号を併記することで直した。
どれも、最初の計画書には書いていなかった。
セレナが作ったのは工程の骨格だけで、半年後にはそこへ別の人間の判断が何十箇所も書き足されている。
今日使う図面も、その最終版だった。
「ここ、私の字ではありませんね」
セレナが北西の注記を指す。
「私です」
イルゼが答えた。
「こちらは」
「リースさん」
「これは」
「ハインツ殿です。読みにくいですが」
「読めます」
「慣れましたね」
半年かけて、図面そのものが共同作業になっていた。
「最終確認をします」
セレナは机に図面を広げた。
中州の古代基点は、王国側とノルトハイム側の線が最も近くなる場所にある。元々は国境などなかった時代の設備で、四方向の線が一つの円へ集まり、そこから南北へ分かれていた。
今日つなぐのは、その最後の二本である。
「西側はイルゼさん」
「はい」
「東側はハインツさんの班」
「俺が班長なのか」
老人が嫌そうに言った。
「石の据え方は一番詳しいので」
「術式は知らんぞ」
「術式は若い人に任せてください」
ハインツの隣には、講習から出た若い術者が二人いる。
半年の間に、彼らは村の結界石だけでなく、古代線の補修にも入るようになった。
「南の流量はリースさん。北はノルトハイム側の二名。マルタさんは全記録。異常値が出たら、私ではなく左右の担当へ先に伝えてください」
王都から来ている三人もいた。エドガーとリース、それにマルタである。
王都側の新制度を辺境側と照らすため、正式な共同作業員として一か月だけ北へ派遣されている。
「アシュフォード様は」
エドガーが尋ねた。
「全体を見るのですか」
「見ます。ただし、私が動かす線はありません」
「一つも?」
「はい」
イルゼが横から口を挟む。
「気になるでしょう」
「かなり」
「なら、ちょうどいい訓練ですね」
「最近、皆さん同じことを言います」
「効いているからでしょう」
反論できなかった。
前日の夕方、セレナは机で最終確認をした。
各担当が順に数値を持ってくる。読み上げ、こちらが書き取り、二人で照合する。それだけの作業に二刻かかった。
最後に来たのは、東側の石工だった。
「明日の朝、川床の土をもう一度測ります」
「理由は」
「夜のうちに冷えると締まります。朝の値が一段か二段下がる」
「では、開始を遅らせますか」
「いえ」
石工は首を振った。
「遅らせると日が高くなります。今度は乾いて逆へ動く」
セレナは筆を止めた。
その計算は、自分にはできない。土の乾湿と魔力の通りの関係は、どの記録にも残っていない。この人が三十年、石を据えてきた中で覚えたものである。
「では、正午のままで」
「はい。下がったら、その分だけこちらで上げます」
「上限は」
「二段までなら範囲の内側です」
言われた通りだった。範囲は昨日渡してある。
*
接続は正午から始めた。雪解け水で川はまだ多いが、午前より午後の方が水位が安定する。
最初に石工が古い基点の外殻を開く。新しい部材は使わない。半年かけて調整した王国側とノルトハイム側の銀環を、一枚ずつ既存の溝へ入れる。
「東、一枚目」
若い術者が読み上げる。
「西、受けました」
イルゼ側から返る。
「南、変化なし」
「北、変化なし」
セレナは中央の机に立ち、数字だけを聞いた。手は出さない。二枚目。三枚目。四枚目。
古代基点の脈動が少しずつ揃っていく。途中、川上から笛が鳴った。三回。
「移動群です!」
見張り役の声が飛ぶ。全員が一瞬だけ止まった。
川の向こうの林が揺れる。春先に南から北へ移る角鹿の群れだった。
魔獣ではあるが、人を積極的に襲う種ではない。ただし、数が多い。結界の魔力が急に変わると、それを避けようとして進路を曲げ、畑へ入ることがある。
去年なら、騎士が前へ出た。今日は村の見張り役が動いた。
「西の旗を下げろ!」
「川沿いは開けたまま!」
両岸に立てていた色旗が順番に下がる。赤は人のいる方向。白は通してよい方向。
角鹿は旗そのものを見るわけではない。村人が旗の位置に合わせて低い音の鳴る板を叩き、結界灯の出力を変える。
群れの先頭が川沿いへ曲がった。騎士は剣を抜かない。
「続けてください」
セレナが言う。接続作業は止めなかった。魔獣群が来ても、現場全体が一つの事件へ飲まれない。
それぞれの担当が、それぞれの問題を処理する。
接続が半分まで進んだところで、下流から王国側の騎士が一人戻ってきた。
「第二村、畑側の誘導板を一枚外しました」
「理由は」
カイルが尋ねる。
「昨日の雨で杭が緩んでいます。倒れる方が危険だと村長が判断しました」
「代わりは」
「荷車を二台置いて通路を狭めています」
セレナは地図を見る。計画書では誘導板四枚を使う。現場では三枚になった。
「そのままで」
セレナが言う。
「新しい板を今持っていく必要はありません。群れが来ても、荷車で幅が取れているなら足ります」
「承知しました」
騎士が戻っていく。カイルが横目で見る。
「確認しに行かない?」
「行きません」
「即答だな」
「村長が判断して、騎士が見て、報告が来ました。三人分あります」
「君なら四人目になれる」
「要りません」
「そうだな」
会話はそれで終わった。半年の間に、こういうやり取りも短くなった。
「東、五枚目」
「西、受けました」
角鹿の群れが遠ざかる。最後尾が林へ消える前に、基点の脈動が四拍、間、一拍へ揃った。
*
問題が出たのは、最後の銀環を入れた直後だった。
「西、上がります」
イルゼの声。
「七割六。七割九」
「東は六割三」
若い術者が答える。左右が揃っていない。原因はすぐ分かった。
西側の古い溝だけ、予想より抵抗が低い。
「外してやり直しますか」
エドガーが尋ねる。セレナの足が一歩動きかけた。
自分なら、銀環の位置を半指ずらせば調整できる。見なくても大体分かる。
半年間、何度も似た場所を直した。セレナは止まった。
「西側をお願いします」
イルゼを見る。
「分かりました」
「東はそのまま維持。遮断はハインツさんの班へ任せます」
「おい、急に振るな」
「できますよね」
「できる」
老人はすぐ若い術者へ指示した。
「二番杭だけ落とせ。全部切るな」
「はい!」
東側が五割九まで下がる。西ではイルゼが銀環を一度浮かせた。
「半指、北へ」
セレナが言いかける。イルゼが先に、
「南へ半指」
と言った。セレナは口を閉じた。南へ。
自分の予想と逆だった。銀環が動く。西、七割四。七割。六割七。東、六割。
「合っています」
セレナは言った。
「北側の溝が去年より削れていました」
イルゼが答える。
「こちらの記録では、冬の凍結で一度浮いています」
「その記録、見ていませんでした」
「昨日届いたので」
「では、私が入っていたら間違えましたね」
「一度は」
イルゼが笑う。
「その後、直したでしょう」
「たぶん」
「でも今日は一度で済みました」
数字が揃う。六割四。六割三。六割四。脈動も乱れない。
「遮断、戻すぞ」
ハインツが言う。
「お願いします」
若い術者が二番杭を戻す。東側の流量がゆっくり上がった。セレナは中央から動かなかった。
*
午後三時、最後の接続が完了した。
王国側から北へ流した試験魔力が、ノルトハイム側の九箇所を通って戻ってくる。
逆方向も同じだった。途中で大きく失われる場所はない。
接続後の試験は、王国側から流すだけでは終わらなかった。
イルゼがノルトハイム側へ合図を送り、四つ離れた基点で意図的に出力を一割下げる。
「北西、下がりました」
「王国側は?」
「五秒遅れて反応」
リースが読み上げる。
「許容内です」
今度は王国側の南東を上げる。ノルトハイム側の二地点が、それぞれ半割ずつ受ける。
「戻せます」
「戻してください」
出力が元へ戻る。事故を起こさないための試験ではない。
誰かが事故を起こした時、隣が受けられるかを確かめる試験だった。
「一箇所だけで耐える形にはしない」
イルゼが記録を見ながら言う。
「王都で学びましたか」
「痛いほど」
「こちらも同じです。十九年やって、私しか知らない弁が三つありました」
「今は?」
「七人知っています」
「多いですね」
「あなたに言われたくありません」
また同じことを言われた。
「全線、七割一」
リースが読み上げる。
「北、七割」
「南、七割二」
「誤差内です」
マルタが記録する。誰も歓声を上げなかった。半年続けた仕事が、数字三つで終わったからである。
「終わった?」
カイルがセレナの横へ来た。
「まだです」
「何が」
「三十分待ちます」
「そう言うと思った」
三十分待った。その間に石工は外殻を閉じ、村人は旗を畳み、騎士は角鹿が戻ってこないか確認した。
イルゼは二つの机の片方で報告書を書いている。
ハインツは若い術者へ、杭の戻し方が雑だったと説教していた。
セレナは何もしなかった。する必要がなかった。
三十分後。
「全線、七割一」
数字は変わらなかった。
「今度こそ?」
カイルが聞く。
「はい」
セレナは図面の最後の空欄へ日付を書いた。
『北方古代結界網 全線接続確認』
その下へ、もう一行足す。
『恒久修復完了。以後は定期確認へ移行』
署名欄は一つではない。王国側。ノルトハイム側。現地保守。記録担当。四つある。
セレナは王国側技術監修の欄へ名前を書いた。隣にイルゼが署名する。
ハインツは文字を書くのを嫌がり、若い術者に読ませながら自分で何とか書いた。
「これで終わりか」
老人が聞く。
「修復は」
「じゃあ次は保守だな」
「はい」
「終わってないじゃねえか」
「結界は、そういうものです」
ハインツは鼻を鳴らした。カイルが机の横に立っている。
「帰る?」
「帰ります」
「明日は」
「休みます」
全員がセレナを見た。
「何ですか」
エドガーが最初に笑った。
「いえ。何でもありません」
「明後日は仕事をします」
「それなら安心しました」
セレナは図面を巻いた。中州の二つの机は、そのまま残すことになった。
半年後にも、一年後にも、ここで数字を比べる必要がある。
川は流れ、結界も変わる。その時に、今日とは別の人がここへ座ってもいい。
帰り支度の途中、若い術者がセレナのところへ来た。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「次に同じ流量差が出たら、イルゼさんがいなくても南へずらしていいですか」
セレナは答える前に、今日の記録を見る。西側の凍結履歴。南側の抵抗。判断理由も書いてある。
「同じ条件なら」
「はい」
「違う条件なら、今日の答えを使わないでください」
「分かりました」
「判断した理由を残してもらえれば、あとで検証できます」
「間違っていたら」
「直します」
若い術者は頷いた。
「では、次は自分でやります」
「お願いします」
それを聞いても、寂しくはなかった。
寂しいかどうかを、渡し舟を待つ間に少し考えた。考えて、違うと分かった。寂しさは、自分の場所がなくなった時のものである。今日はその逆で、場所が増えた。
次にここへ来た時、自分へ来る質問が一つ減っている。それを、少し楽しみに思った。
セレナは渡し舟へ乗った。対岸では、角鹿を見送った村人たちが先に帰り始めていた。
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