第47話 君が守るなら、俺が戦う
ヴァレンシュタイン城が見えたのは、五日目の午後だった。
切り立った岩山の上に、黒灰色の塊がのっている。半年前に初めて見た時、セレナはそれを岩の続きだと思った。輪郭を目で追って、ようやく人の積んだ石だと分かった。
今日は、追う必要がなかった。
どこが城壁で、どこが塔で、どの窓が資料室かまで分かる。旧兵舎は北側で、ここからは見えない。
「変わっていませんね」
「五か月だぞ」
「五か月あれば、村は変わります」
「城は変わらん」
馬車が城下へ入ると、道の両側に人が出ていた。王都と違って、触れは出ていない。それでも、辺境伯と顧問が同じ日に戻ることは、三日前から城下に知れ渡っていたらしい。
「アシュフォード様!」
声が飛んだ。半年前、この城下でセレナを名前で呼ぶ人間は一人もいなかった。
馬車の窓から手を振っている子どもがいた。ミナだった。隣に、羊を連れた少年もいる。
「石!」
ミナが叫んだ。
セレナは鞄から河原の石を二つ取り出し、窓から見せた。少女が満足そうに頷く。半年前、持っていけば向こうでも音が分かる、というのが本人の理屈だった。
城門をくぐると、ローデリックが立っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
言ってから、セレナは自分の言葉を聞いた。ただいま。
半年前、この城へ初めて来た時は「お世話になります」と言った。それ以外の言い方があるとは思っていなかった。
「報告は明日で結構です」
ローデリックが書類を抱えたまま言った。
「今日は、荷を解いてください」
「三束あります」
「明日で結構です」
「工程表は急ぎです」
「明日で結構です」
三度言われたので、諦めた。
半年前なら、荷を解く前に工程表を開いていたと思う。開いても、明日まで誰も読まない。それは王都で九十日かけて覚えたことだった。
夕食は、いつもの食堂だった。
長机が三本。上座には誰も座っていない。騎士が大声を上げ、厨房の女性が皿を回収している。木の匙が器に当たる音が、あちこちで不揃いに鳴っていた。
半年前、この騒がしさが落ち着かなかった。今日は、席へ着いた瞬間に肩の力が抜けた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
リナが皿を置く。
「ただいま」
「痩せましたね」
「そうでしょうか」
「三か月分、食事の管理をする人間がいませんでしたから」
「向こうにもいました。エドガーさんという方が」
「男性ですか」
「はい」
「では役に立っていません」
その断定に、セレナは笑った。エドガーは局の中で最も食事を抜く人間の一人である。反論できなかった。
向かいでカイルが豆の煮込みを食べている。仕事の話はしなかった。宿場で言われた「城へ着いたら」の件も、出さない。
セレナも聞かなかった。聞けば、こちらが急かしたことになる。
食事が終わり、皿が下げられた。
カイルが立ち上がる。
「城壁へ来い」
「はい」
*
城壁の上は、風があった。
九月の終わりで、北の空はもう暗い。城下の結界灯が一つずつ点いていく。奥の通りから順に、点いた場所だけ夜が遅れていくように見えた。
半年前と同じ景色である。あの時、セレナはここで「ここにいていいんでしょうか」と聞いた。
「寒くないか」
カイルが言った。
「少し」
「正直だな」
「正直に答えた方が信用されると学びました」
「知ってる」
二人で城下を見た。しばらく、どちらも話さない。
セレナは待った。自分から切り出す気はない。切り出せば、それは自分が急かしたことになる。
「王都で」
やがて、カイルが言った。
「はい」
「君は局長を断った」
「断りました」
「理由を三つ言ったと聞いた」
ローデリックが報告書を読んだのだろう。あるいは、ラングレーからの手紙かもしれない。
「三つ目は」
「ここに帰りたくない、と申し上げました」
「そうか」
カイルは城壁へ肘を預けた。
「一つ聞く」
「はい」
「君は、辺境で仕事ができなくなったらどうする」
質問の意味を測りかねて、セレナは相手を見た。仕事の話ではない。仕事なら、この人は数字を先に出す。
「できなくなる、というのは」
「怪我でもいい。病気でもいい。年を取ってもいい」
カイルは城下を見たまま言った。
「結界が張れなくなったら、君はどうする」
セレナは、すぐには答えられなかった。考えたことがない。正確には、考えないようにしてきた。
「……分かりません」
「分からないか」
「はい」
答えてから、少し続けた。
「たぶん、記録を書きます。教えることもできます。手が動かなくても、見ることはできますから」
「それもできなくなったら」
「……」
答えがなかった。
カイルはこちらを見た。
「そこだ」
「そこ、とは」
「君は、何かができる自分しか勘定に入れてない」
風が城壁を抜けた。
橋の上で、この人は同じ場所を突いた。自分だけを勘定から外すな、と。あの時は数の話だと思っていた。今日は、そうではないらしい。
「前に、俺は言った」
カイルが続けた。
「君が守るなら、俺が戦う」
「覚えています」
「あれは、役割の話だった」
「はい」
「君が結界を張れて、俺が斬れる。だから組める。そういう話だ」
セレナは頷いた。あの時は戦術の確認として受け取ったし、実際その通りだった。ただ、主語が「結界師」と「騎士」ではなく「君」と「俺」だったことだけが、胸の奥に残っている。
「今日、続きを言う」
カイルは城壁から肘を離し、向き直った。
「君が守るなら、俺が戦う」
一度目と同じ言葉である。
「君が戦えない時は、俺が守る」
二つ目。
「君が守れなくなった時も、俺が守る」
三つ目で、セレナの息が止まった。
「結界が張れなくなっても。記録が書けなくなっても。何もできなくなっても、俺は困らない」
カイルは一度、言葉を切った。
「困るのは、君がいない時だ」
セレナは何も言えなかった。言葉の意味は分かる。難しい言い方ではない。それなのに、受け取り方が分からなかった。
十年間、自分は役に立つから必要とされてきた。王宮でも、辺境でも、それは同じである。役に立つことを条件にしない扱われ方を、知らない。
「……それは」
声が掠れた。
「それは、私が何もしなくてもいいという意味ですか」
「そうだ」
「困るでしょう」
「困らない」
「領地が」
「領地は回る」
カイルは即答した。
「君が九十日いなくても回った。十一箇所も、君が入らずに動いた。学校も、君が寝てる間に三回開いた」
「はい」
「だから、君が働くかどうかは、俺がここにいてほしい理由じゃない」
その言い方は、九十日前に王都で聞いた言葉と正反対だった。あちらは、王国の資産だと言った。技術が要るから戻れ、と。
同じ「必要だ」でも、指しているものが違う。
セレナは城下の灯りを見た。半年前、この場所で「ここにいたいです」と言い、カイルは「なら、いろ」と答えた。それで十分だと思っていた。
今日、言われているのはそれより先である。
「一つ、確かめてもいいですか」
「言え」
「カイル様は、私に守られることを受け入れられますか」
カイルの動きが止まった。
「雪山で、あなたは一人で走りました」
セレナは続けた。
「計算した上で走ったと仰いました。私も同じことをします。だから怒れませんでした」
「そうだな」
「今の話は、私が何もできなくても構わないという話です。では、逆は」
セレナは相手を見た。
「あなたが何もできなくなった時、私はここにいていいんですか」
風が止まった。カイルはしばらく黙っている。この人が言葉を探すのを見るのは二度目だった。一度目は、雪山で血を止めていた時である。
「……ずるいな」
「よく言われますか」
「君にしか言われない」
カイルは短く息を吐いた。
「いていい」
「即答ではありませんでした」
「即答できるほど、慣れてない」
正直な答えだった。
「俺は、守る側で三十年やってきた。守られる側に入るのは、まだ上手くない」
「では、練習してください」
「練習」
「はい」
思ったより素直に出た。半年前なら、相手の弱みを指摘したと思って謝っていた。
セレナは自分でも意外なほど、はっきり言えた。
「私も練習します。何もできない自分を勘定に入れるのは、たぶん時間がかかります。お互い、まだ下手です」
カイルが笑った。声を出して笑うのを、セレナは初めて見たかもしれない。
「そうだな」
「はい」
「じゃあ、一緒に下手なままでいい」
カイルは、そこで一度姿勢を正した。剣を抜く時とも、書類を読む時とも違う立ち方だった。
「セレナ・アシュフォード」
名前を、姓まで呼ばれた。
「はい」
「俺と結婚してほしい」
風が城壁を抜けていく。城下の灯りは、もう全部点いていた。奥の通りから順に点いて、最後に城門前が明るくなる。半年前と同じ順番だった。
カイルは、それだけでは終わらせなかった。
「君が守るなら、俺が戦う。君が戦えない時は、俺が守る。俺が戦えない時は、君に頼る」
三段目が、さっきと違っていた。
「二人とも何もできない日があってもいい。だから、俺の隣にいてくれ」
セレナは灯りを見ていた。
条件が付いていない。役に立つなら、必要だから、仕事があるから。そういうものが一つもない。
十年欲しかったものだった。欲しかった時には来なくて、要らなくなってから届いた——三か月前、王都でそう思った。
あれは、間違いだった。要らなくなったのではない。別の形で受け取れるようになっただけである。
「一つだけ、条件があります」
「言え」
「条件を付けているのは、私です」
「聞いてる」
「私が何もできなくなっても、あなたは私を数に入れてください」
カイルが頷いた。
「入れる」
迷いがなかった。この人は、決めたことを確かめ直さない。
「それと」
「まだあるのか」
「あなたが何もできなくなっても、私を追い出さないでください」
カイルはしばらく黙り、それから答えた。
「追い出さない」
「では」
セレナは息を吸った。
「お受けします」
声は震えなかった。断る理由を探す必要も、受けるための条件を並べる必要もなかった。ただ、自分がそうしたいから受けた。
「私も、あなたの隣にいたいです」
言ってから、まだ足りないと思った。
契約なら、これで十分である。役割も、期間も、条件も揃っている。書面にできる。
今日は違う。
「カイル様」
「何だ」
「私は、あなたを愛しています」
声に出したのは初めてだった。
雪山で血を押さえていた時、口には出さずに終わらせた。あの時は、言えば自分が困ると思った。今日は困らない。困る理由が、一つも残っていなかった。
カイルはすぐには答えなかった。
それから、片手をセレナの頬へ当てた。手袋を外した手で、指先が冷たい。
「俺もだ」
短い返事だった。半年間ずっと、この人の返事は短い。
顔が近づく。
セレナは目を閉じた。
城壁の上で、風の音だけがしていた。
*
離れた後、二人ともしばらく動かなかった。城壁の上は風があり、九月の終わりの北は冷える。セレナは外套の前を握った。
「寒いか」
「寒いです」
「戻るか」
「もう少し」
その返事に、カイルが少し驚いた顔をした。
「珍しいな」
「そうでしょうか」
「君は、寒いと言ったら中へ入る」
「今日は入りません」
セレナは城下を見たまま答えた。
「もう少し、ここにいてください」
その言い方を、以前にも一度使った。王都の客室で、額に三針縫って、理由が見つからないまま口に出した。
今日は、理由がある。
カイルは何も聞かなかった。
「ああ」
それだけ答えて、城壁へ肘を戻した。
*
城壁を下りたのは、灯りが半分消えた頃だった。廊下でリナと行き会う。手に毛布を抱えていた。城壁へ届けに行くところだったらしい。
「遅かったですね」
「はい」
「風邪をひきます」
「そうですね」
セレナが素直に頷いたので、リナは逆に足を止めた。
「……何かありましたか」
「ありました」
「伺っても」
「明日で構いませんか」
「今日でも構いません」
「明日にしてください」
セレナはそう言って、自分の部屋の方へ歩き出した。
三歩進んだところで、リナが言った。
「お嬢様」
「はい」
「おめでとうございます」
セレナは足を止めた。
「まだ何も言っていません」
「顔で分かります」
最近、それを言う人間が三人になった。
半年前、顔で分かると言ったのはカイルだけだった。増えたぶんだけ、隠せることが減っている。
それでも、悪い気はしなかった。
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