第46話 帰る場所
王都を発ったのは、任期が明けた翌朝だった。
九十日目の夕方、セレナは最終報告書を提出した。地下核の状態、六十八箇所の新しい配分、両国同時修復の工程表、それに引き継ぎの一覧である。
一覧は、四十七項目になった。
辺境を出る時は二十二項目だった。倍以上に増えたのは、王都の方が大きいからではない。
空白が三十七箇所あったからである。
「多いですな」
ラングレー子爵が頁をめくった。四十七項目のうち、二十九が新設の担当である。三か月前には存在しなかった仕事だった。
「多いです。ただ、名前は全部入っています」
「空欄なし、ですか」
「はい」
最後の頁に、七番塔と北側補助線の接続部がある。どちらの班の記録にも載らなかった場所だった。十年間、セレナが「ついで」に見ていた箇所である。
担当欄には、エドガーの名前が書いてあった。
*
見送りは、思ったより多かった。
結界局から十九人。局長は北翼の班長として来ていた。三日前に副局長へ退き、改革が終わるまでの引き継ぎ役に回っている。営繕府の次官が三人連れてきた石工も、なぜか混じっている。
資材管理の男は、少し離れた場所に立っていた。帳簿を抱えたままである。
「お世話になりました」
セレナが声をかけると、男は帳簿を抱えたまま頭を下げた。
「こちらこそ」
「あの夜のことですが」
「隣の隣の話ですか」
「はい」
「あれは、帳簿を見ていれば分かります」
男はそう言った。
「同じ数字が続けて動く時は、隣だけ見ても足りません。二十年、そればかりやってきました」
「では、次からは最初からそう書きます」
「書いてくださると助かります。私が休んだ日に、誰かが同じことをしなければなりませんから」
その理由の立て方を、セレナはどこかで聞いた覚えがあった。
誰から聞いたかを思い出す前に、答えが出た。自分が言っていたことである。
セレナは頷いた。その言い方を、自分が教えた覚えはない。
ミレイユは、門の外まで来た。
「手紙を書きます」
「お待ちしています」
「返事は要りません。忙しいでしょうから」
「書きます」
セレナが答えると、ミレイユは少し笑った。
「では、遅れても怒りません」
彼女は今、王宮の光魔法班の取りまとめをしている。防衛戦の後に正式な役職になった。十三人の名簿には、伯爵令嬢も宮廷楽師も王宮侍女も並んでいた。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「あの十三人に、『もっと出来ます』と言う方が何人かいらしたと」
「四人です」
「今は」
「六人に増えました」
ミレイユは名簿を胸へ抱えた。
「全員に、同じことを言っています。させません、と」
セレナは笑った。
「大変ですね」
「あなたに言われたくありません」
言い返す言葉がなかった。ミレイユは名簿を抱えたまま、少しだけ笑っている。半年前、報告書の『物損軽微』がどの店のことか分からないと言った人と同じ顔だった。
馬車は三台になった。
一台は荷、一台にセレナとカイル、もう一台に医師と護衛が乗る。医師は三人から一人へ減っている。
「もう要らないだろ」
カイルは出発前にそう言ったが、ローデリックからの手紙で一人だけ残された。手紙には、医師を減らす判断は現地の医師が下すこと、とだけ書いてあった。
街道を北へ。半年前と同じ道である。
あの時は五日かけて南へ下った。今度は北へ上る。同じ距離で、同じ宿場を通ることになる。
「気分が違いますね」
二日目の朝、セレナが言った。
「どう違う」
「行きは、王都で何をするかを考えていました。今日は、辺境で何をするかを考えています」
「同じじゃないのか」
「違います」
セレナは膝の上の記録帳を開いた。
「九箇所の同時修復と、両国の工程調整と、講習の再編と、それからミナの席の話です」
「席」
「聴講席が二つでは足りなくなっているそうです。ハインツさんからの手紙に書いてありました」
カイルは窓の外を見た。
「増やせばいい」
「増やします。ただ、増やし方はハインツさんが決めます」
カイルは何も言わなかった。以前なら、そこで「それでいい」と言ったと思う。言わなくなったのは、たぶん言う必要がなくなったからだった。
*
二日目の夕方、宿場で辺境からの便が届いた。
半月前に出された手紙が三通、宿場の詰所で預かられていた。王都から北へ向かう者に託されたものである。
一通目はローデリック。予算報告と、講習の出席記録。二通目はハインツ。三通目は、ノルトハイムのイルゼからだった。
「順番はどうします」
リナが尋ねる。
「金額の話から」
ローデリックの手紙は、二枚あった。
講習は週二回のまま続いている。生徒は十一人から十四人へ増え、机が四つ足された。教員手当の対象がハインツと石工二人から四人へ増えたので、来期は予算を組み直したいとある。
増えた一人は、若い術者だった。半年前、雪谷でセレナの背後で縄を握っていた男である。
二枚目の末尾に、こう書いてあった。
『増員はこちらで決めました。ご不在でしたので』
セレナは、その一行を二度読んだ。
不在だから決めた、という書き方である。判断を待たなかったことを、わざわざ報告している。
ハインツの手紙は、一枚だけだった。字は相変わらず歪んでいる。
『石は逃げん。子どもの席が足らん。増やした。文句は帰ってから聞く』
「文句、ありますか」
リナが横から覗いて言った。
「ありません」
「では、そう返事を」
「返事は、帰ってから直接言います」
三通目を開いた。
イルゼの手紙は、五枚あった。共同調査の進行状況と、ノルトハイム側の四基点の測定値、それに軍務府との調整記録。
最後に、一行だけ違うことが書いてある。
『中州の机は、まだ置いてあります』
セレナはその一行を見た。
半年前、谷底の川原に置いた二つの机である。撤去していないと、あの時も書いてあった。
置いてある限り、あの谷では矢を射にくくなる。
*
三日目の午後、街道が塞がっていた。
荷馬車が二台、道の真ん中で止まっている。護衛が先に確かめに行き、すぐ戻ってきた。
「牛が動きません」
「怪我ですか」
「いえ。何かを怖がっているようです」
セレナは馬車を降りた。カイルも降りる。
街道の左は林、右は畑だった。半年前、北へ向かう時にも通った場所で、あの時は何もなかった。
牛は二頭とも耳を伏せ、林の方を見ている。荷主が手綱を引いても動かない。鞭を出そうとしたので、護衛が止めていた。
「ガルトが言っていたやつだな」
カイルが言う。
「森が静かすぎる時ですか」
「今のは逆だ。牛が見てる方に何かいる」
セレナは測定石を出した。魔力の偏りを見る。
林の奥。距離は五十歩ほど。
「一つだけです」
「大きさは」
「値からすると、灰狼くらい。ただ、動きが遅い」
「怪我してるか」
「かもしれません」
半年前なら、ここで林へ入っていたと思う。距離五十歩なら、確かめた方が早い。
セレナは林の縁へ近づき、地面を見た。足跡がある。一頭分で、歩幅が不揃いだった。右前脚の跡だけが浅い。
「脚を痛めています」
「じゃあ、追い払えば済むな」
カイルが剣に手をかけた。
「待ってください」
セレナが止めた。
「怪我をした獣は、追われると逃げません。行き場がないと分かると、向かってきます」
「知ってる」
「では、なぜ」
「君が止めるかと思って」
セレナは口を開き、それから閉じた。試された、というわけでもないらしい。ただ、確かめられた。
「……止めました」
「止めたな」
カイルは手を離した。
「じゃあ、どうする」
「道を作ります」
やり方は簡単だった。
銀杭を四本、街道と林の間に打つ。薄い膜を斜めに張り、林から街道へ出る経路を塞いだ。ただし、林の奥へ抜ける方向は開けておく。
「押し返さないのか」
「押し返すと、逃げ場がなくなります。行きたい方向を一つだけ残します」
膜が立った。しばらくして、林の奥で枝が動く。灰狼が一頭、姿を見せた。右前脚を庇っている。腹が痩せていた。
狼は膜へ近づき、鼻先を触れて止まる。それから向きを変え、林の奥へゆっくり歩いていった。
「行きましたね」
「腹が減ってるぞ」
「はい」
セレナは杭を抜いた。
「たぶん、群れから外れています。あの脚では狩れません」
「じゃあ、いずれ死ぬ」
「そうです」
カイルは何も言わなかった。セレナも、それ以上は言わなかった。
助ける方法はある。捕らえて、脚を診て、餌を与えれば生き延びる。
ただ、それをやる資格が自分にあるとは思わなかった。狼は魔獣で、来月には別の村を襲うかもしれない。
できることと、やるべきことは違う。その区別も、この半年で覚えたものだった。
「記録します」
セレナは記録帳を開いた。
「何を」
「この街道の三日目地点で、脚を痛めた灰狼一頭。単独。九月の第二週」
「それを書いてどうする」
「次に誰かが通った時、同じものを見るかもしれません」
カイルは頷いた。
書き終えて顔を上げると、牛が動き始めていた。荷馬車が進み出す。荷主が何度か頭を下げてきたが、名乗らなかったので、こちらも名乗らなかった。
半年前、同じ道で灰狼の群れに会った。
あの時、セレナは結界を張り、カイルが斬った。二十四頭を止めるのに、二人と護衛四人が必要だった。
今日は、一頭を通しただけである。
誰も斬っていないし、誰も怪我をしていない。記録帳に三行増えただけだった。
「つまらないな」
馬車が動き出してから、カイルが言った。
「何がです」
「今のだ。剣を抜いてない」
「不満ですか」
「不満じゃない」
カイルは窓の外を見ている。
「ただ、半年前なら二十四頭だった」
「今日は一頭でした」
「そうだな」
セレナは記録帳を閉じた。半年前の二十四頭は、粉を撒かれて森から押し出された群れだった。今日の一頭は、脚を痛めて群れから外れただけである。
どちらも同じ道で起きたことだが、種類が違う。
「カイル様」
「何だ」
「今のような日の方が、たぶん多いです」
「知ってる」
「では、なぜつまらないと」
カイルは少し黙った。
「言葉の綾だ」
「そうですか」
「そういうことにしてくれ」
セレナは窓の外を見た。林はもう後ろへ流れている。あの狼が生き延びるかどうかは分からない。記録帳の三行だけが残った。
*
四日目の夜、宿場で夕食を取った。
辺境まであと一日である。北へ来るにつれて空気が変わり、この宿から先は森が近くなる。
食事の終わり際、カイルが言った。
「城へ着いたら、話がある」
セレナは匙を止めた。
文脈がない。仕事の話なら、道中で済ませている。九箇所の修復も、講習の再編も、ノルトハイムとの調整も、この四日で全部話した。
残っている話が何かを、考えるまでもなかった。
「……はい」
「今じゃない」
「はい」
「城でだ」
「分かりました」
それだけだった。
カイルは匙を置き、水を飲み、それから宿の主人に明日の出発時刻を伝えに行った。
セレナは、しばらく席に座っていた。
部屋へ戻ってから、鞄の中を確かめた。
確かめる必要はない。ただ、手を動かしていたかった。
衣類、灰色の手袋、測定石。王都から持ち帰る工程表が三束と、イルゼへの報告の写し。それに、河原の石が二つ。
ミナからもらったものである。半年、鞄の隅に入れたままだった。
二つを取り出して、机の上で叩いてみた。乾いた音と、少し低い音。差は、王都へ行く前と同じである。石は変わっていない。
セレナは石を鞄へ戻した。
城へ着いたら、話がある。
あの言い方をするなら、仕事ではない。仕事なら「明日、時間を取れ」と言う。この半年で何十回も聞いた言い方である。
窓を開けると、北の空気が入ってきた。
夏が終わりかけている。半年前、この道を南へ下った時は、まだ暑かった。
明日、城へ着く。
セレナは窓を閉め、灯りを消した。眠るまでに、少し時間がかかった。
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




