第42話 封じられていたもの
王宮地下へ二度目に入ったのは、三日後だった。前回と同じ六人である。セレナ、カイル、ミレイユ、エドガー、リース、マルタ。違うのは、持っている物と、見る場所が決まっていることだった。
灯りは三つ。ミレイユの光に加え、腰へ固定できる灯石が二つ。測定石は六個へ増やし、銀線は使わない。今日は補修をしないと最初から決めている。
三日間、地下へは誰も入らなかった。代わりに、核の真上にあたる王宮の三室へ測定石を置き、二刻ごとに数字を取った。厨房裏、西塔地下、旧貯水庫。三地点の数字は同じように上下したが、夜明け前だけ揃って落ちる。
最も低い日は五割二分だった。セレナは三日分の紙を横へ並べた。リースが取った数値、マルタが記録した時刻、王宮の灯具使用量。人が眠って魔力消費が減る時間なのに、地下だけは逆に多く使っている。
「何かが夜に動く?」
エドガーが尋ねる。
「可能性はあります。ただ、動物と決めないでください」
「はい」
「設備そのものが周期的に負荷を変えている可能性もあります」
カイルは壁際の椅子に座り、測定表を眺めていた。
長い会議ではまだ傷が痛むため、医師に背もたれのある椅子を使えと言われている。
「どっちにしても、夜に下りない方がいいな」
「はい。最も値が高い午前中に入ります」
「戻る時間も決める?」
「決めます」
地下へ入ってから二刻半。何も起きなくても、その時点で戻る。
前回は測定値だけで撤退を決めた。今回は時間も条件へ足した。危険を見つけてから戻るのではなく、見つからなくても帰るためだった。
厨房裏の扉には、前回書いた白墨がまだ残っていた。測定値が五割を切る。退路に崩落が出る。未知の反応が二つ以上同時に出る。
「今日も同じです」
セレナが言う。
「ただし、一つ加えます」
四つ目を書いた。『核の脈動が二拍以上乱れたら撤退』
「二拍?」
リースが聞いた。
「昨日まで三日間、地上から測りました。平常は四拍、間、一拍。多少ずれても一拍までです。二拍続けて外れたら、地下で何かが変わっています」
「何か、でいいんですか」
「分からないので」
マルタが記録帳へそのまま書いた。分からないものを、分からないと書く。
前回決めた通りだった。
「カイル様」
「今日は最後尾だろ」
「はい。それと」
「戦うな?」
「必要になるまで」
「少し緩くなったな」
「必要にならないことを期待しています」
カイルは剣の柄を軽く叩いただけだった。
*
巨大な結界核までは、前回の半分ほどの時間で着いた。エドガーの目印が残り、鉄格子の開け方も分かっている。途中の測定値も前回とほぼ同じだった。
八割一分。六割八分。六割二分。核の部屋へ入る直前だけ、五割一分まで落ちる。
「前より一分高いです」
リースが言う。
「誤差かもしれません」
セレナは即断しなかった。核の亀裂は三日前と変わって見えない。人の腕が入るほど開いた隙間から、淡い青い光が漏れている。
今日は、その亀裂へ近づかない。先に倒れた石板を調べた。
四方向から中央へ集まる線。中央から下へ伸びる一本。その横に、前回は泥で読めなかった刻みがある。
マルタが油布で表面だけを拭った。
「文字です」
「読めますか」
「古語ですね。私は無理です」
ミレイユがしゃがみ込む。
「王宮の古い祭祀文書と似ています。全部は分かりませんが……『鎮める』と、『門』」
「門?」
「たぶん。こちらは『内』です」
エドガーが図を覗いた。
「内側の門を鎮める?」
「語順が違うかもしれません」
「断定しないでおきましょう」
セレナは三語だけ記録させた。鎮める。門。内。
それだけでも十分だった。核の下へ続く線は、王都外周へ魔力を送る線ではない。
別の目的がある。
「入口を探します」
セレナは核の周囲を歩いた。壁には四本組の主線がある。床には、その線から分かれた細い溝が十二本。どれも核へ向かっているように見える。
一つだけ、逆だった。
「ここ」
エドガーが先に気づいた。北東の床。細い溝が、核から外へ向かっている。
「前回の石板と同じです」
セレナは膝をついた。溝は壁際で消えている。石壁の継ぎ目を指で追うと、一枚だけ縦の線が不自然だった。
「扉ですね」
ミレイユが言う。
「たぶん」
「開けますか」
セレナは答える前にリースを見る。
「値は」
「五割一分。変化なし」
「脈動」
マルタが耳を澄ます。
「四、間、一。正常です」
「退路」
カイルが後ろを見る。
「問題ない」
条件はまだ何も満たしていない。
「開けます」
壁の継ぎ目へ魔力を通す場所はなかった。代わりに、床の溝の末端に小さな石片が嵌まっている。ミレイユの光を近づけると、石片の表面に手の形が浮いた。
「押すだけ?」
エドガーが言う。
「そう見えます」
「罠は」
「分かりません」
「じゃあ」
「私が押します」
「セレナ」
後ろから声が飛ぶ。言ってから、自分でも気づいた。
「……違いますね」
セレナは手を引いた。
「エドガーさん。長い棒はありますか」
「あります」
測定用の木竿を伸ばし、全員が壁から十歩下がる。エドガーが石片を押した。
何も起きなかった。一拍遅れて、壁の奥で石が擦れる。細い隙間が開いた。そこから、冷たい空気が流れ出した。
*
通路は下へ傾いていた。前回見つけた古代線が、壁の左右を走っている。向きは明確だった。核からこの先へ魔力を送っている。
五割。
「五割ちょうど」
リースが言う。
「まだ切っていません」
「はい」
十歩進む。四割九分。
「撤退条件です」
リースが即座に言った。セレナは足を止めた。
目の前には、通路の先が見えている。あと二十歩ほどで広い空間へ出る。ミレイユの光が、その入口の床だけを白く照らしていた。
行けば見える。何があるか。セレナは息を吸った。
「戻ります」
「待って」
ミレイユが言った。全員が彼女を見る。
「光を飛ばせます」
「飛ばす?」
「私自身はここから動きません」
ミレイユは掌を前へ向けた。
「光だけなら、二十歩先まで送れます。戻る条件は人が進まないことでしょう?」
セレナはリースを見る。
「測定値は」
「四割九分のままです」
「脈動」
「正常」
撤退条件は成立している。ここから先へ人は進まない。
「光だけ、一度」
セレナは決めた。
「三呼吸で戻してください」
「分かりました」
ミレイユの掌から、白い光が一つ離れた。
小さな球になり、通路の先へ滑っていく。
一呼吸。光が広い空間へ出た。二呼吸。最初に見えたのは、石だった。
床いっぱいに並んだ黒い塊。岩のように見える。三呼吸。
「戻して!」
光が引き返す。その一瞬だけ、黒い塊の一つが動いた。岩ではない。大きな爪だった。
「撤退!」
カイルが言う。今度はセレナより早かった。
全員が向きを変える。通路の奥で、低い音がした。四回。間。次の一拍が来ない。
「脈動、一拍欠落!」
マルタが叫ぶ。さらに一拍。逆向きの震え。
「二拍乱れました!」
二つ目の撤退条件も成立した。誰も振り返らなかった。
*
核の部屋まで戻ったところで、床が揺れた。細かな砂が天井から落ちる。
「崩落なし!」
カイルが確認する。
「値、四割七分!」
リースの声が続く。核の亀裂の青い光が、さっきより強くなっていた。
セレナは走りながら見た。光が外へ漏れているのではない。内側へ吸い込まれている。核から、下へ。通路の奥へ。
「檻です」
言葉が出た。
「何?」
エドガーが聞き返す。
「この結界は、王都を守るために外へ張られているだけじゃありません」
走りながら、頭の中で線が繋がる。四方向から核へ魔力を集める。核で整える。その一部を地下へ送り続ける。鎮める。門。内。
「地下の何かを、ずっと押さえています」
ミレイユが息を呑む。
「では、さっきの爪は」
「魔獣です」
「大きさは」
「分かりません」
光が照らしたのは爪一本だけだった。けれど、その爪は人の腕より太かった。
古代結界核よりさらに下。三百年前の図面にも載っていない空間で、何かが眠っている。
戻る途中、マルタが一度だけ足を止めた。
「さっきの光、爪の後ろにも何かありました」
「見えましたか」
「輪郭だけです。床じゃありませんでした。もっと上です」
「高さは」
「私の背より上」
セレナは記録させた。見えたものだけ。
黒い爪。人の腕より太い。六本脚かどうかは不明。爪の後方に、少なくとも人の背丈を超える輪郭。
「名前を付けませんか」
エドガーが聞く。
「まだです」
「古代魔獣、では」
「それは分類ではなく年代です。何か分からないものに名前を付けると、その名前に合うものだけ見るようになります」
白竜を初めて見た時も、ガルトが亜種かもしれないと言うまで、セレナは竜と決めなかった。今回も同じだった。
ただ、生きている。それだけは、もう記録してよかった。長い間。少なくとも、この設備が作られてからずっと。
「覚めかけてる?」
カイルの問いに、セレナはすぐ答えなかった。核の脈動を聞く。四拍。間。一拍。戻っている。ただ、最後の一拍が弱い。
「まだ完全には」
「まだ?」
「はい」
それだけは分かる。完全に起きているなら、核はこの程度では済まない。
亀裂も、もっと広がる。
「でも、近いです」
北部の九箇所が傷つき、王都の核へ負荷が集まった。核が割れ、抑える力が落ちた。
ヴィンター商会が狙っていたものは資源だった。その結果、檻まで弱くした。意図していなくても。
「あとどれくらい」
エドガーが尋ねる。
「分かりません」
セレナは答えた。
「一日かもしれません。ひと月かもしれない。今の記録では出せません」
「なら、ここで核を補強すれば」
「駄目です」
即答した。
「ここだけ直せば、また下へ流れが増えます。何を抑えるのに、どのくらい必要か分からないまま流量を変えられません」
自分が残れば、できることはある。
亀裂へ銀線を巻く。脈動を直接読み、崩れるたびに補正する。数時間なら持たせられるかもしれない。
頭の中で、その手順はもう組めていた。だからこそ、やらなかった。
「地上へ戻ります」
「核は?」
エドガーが言う。
「今は触りません」
「でも、もし今夜」
「その可能性はあります」
怖かった。王都の真下に、覚醒寸前の古代魔獣がいる。
自分が離れている間に起きるかもしれない。
それでも、ここに一人で残ることはしない。
「準備します」
セレナは言った。
「地上の結界網を使える形にして、避難経路を作って、騎士を配置します。地下へ入る班も分けます」
「間に合わなかったら?」
「その時は、その準備で戦います」
カイルがこちらを見た。何も言わなかった。言わなくても分かった。今の判断を、止めないという顔だった。
地上へ戻ったのは昼を過ぎていた。厨房裏の扉が閉まる。営繕府の書記官が、今日の記録用紙を持って待っていた。
「危険度は」
尋ねられて、セレナは止まった。
十二年前なら、「危険なし」と書かれたところである。
「高いです」
今度は答えられた。
「ただし、発生時期は不明。地下深部に大型魔獣と推定される生体反応。古代結界は、その封鎖設備である可能性が高い。核は破損、抑制能力低下」
書記官の筆が止まらない。
「対応は」
「本日中に王都全域の避難計画を仮発動できる状態へ。結界局は外周線と地下線を分けて測定。騎士団は地下入口三箇所と市場、南門へ配置」
「修理は」
「しません」
セレナははっきり言った。
「中身が分からないうちは、触りません」
書記官が最後まで書き終える。報告を受けた局長は、その場で王宮内務府と騎士団へ人を走らせた。
「市民へ公表しますか」
ラングレーが尋ねる。
「今すぐ『古代魔獣がいる』と触れれば、避難そのものが事故になります」
セレナは地図を開いた。
「まず、逃がす場所を決めます。王宮へ集めないでください。古代線は王宮地下へ集中しています」
「では三方向へ分けます」
ミレイユが北市場の地図を横へ置いた。
「西は競技場。南は旧演兵場。東は河岸の倉庫広場なら、夜でも人を入れられます。北市場は、前回の避難経路をそのまま使えます」
「商人組合に話せますか」
「今日中に」
カイルは騎士団の配置図を取った。
「地下入口は三つだったな」
「確認できているものは」
「各入口へ十。市街地には残りを分ける。魔獣が地上へ出る場所が分からないなら、狭い道を塞ぐ方が早い」
「お願いします」
エドガーが地図の余白へ書き込む。
「結界局は?」
セレナは少し考えた。
「現場班を三つ。北、東、南。大きな結界は張らないでください。まず既存線がどこまで動くか確認します」
「アシュフォード様は」
「局に残ります」
答えた後、自分でも確かめるようにもう一度言った。
「私は、全体の数字を見ます」
核に最も近い人間が、自分である必要はない。
王都で十年間、ずっと逆のことをしていた。異常があれば自分で行き、直し、次へ回る。その方が早かった。
今回は、起きた時に自分がどこへ行くかではなく、誰がどこにいるかを先に決めた。
「今夜は?」
カイルが聞く。
「何もしません。測定だけ続けます」
「核が下がっても?」
「四割五分を切ったら警報。四割を切ったら避難計画を仮発動します。地下へは入りません」
「セレナが?」
「入りません」
「二回言ったな」
「確認です」
カイルが少し笑った。笑えるうちに決めておく。それも準備の一つだった。
その夜の測定は三交代にした。リースだけを残さず、北翼と南翼から二人ずつ入り、同じ用紙へ数字を書く。誰か一人の耳や手の感覚に頼らないためだった。
セレナも最初の一刻だけ立ち会い、その後は宿舎へ戻った。眠れるとは思わなかったが、机の横で朝まで数字を待つことはしなかった。翌朝受け取った表には、夜中の二刻だけ四割七分まで落ちた記録がある。
その時間に何が起きたかは、まだ分からない。分からないままでも、一晩ぶんの記録は残った。誰が見ても同じ数字から始められるなら、それでいい。
地下へ残る代わりに、地上で準備を増やす。
昨日までなら逃げたように感じたかもしれない判断が、今は仕事の一部として置けた。
その紙には、分からないことがいくつも残った。魔獣の種類も、大きさも、覚醒までの時間も、まだ書けない。
倒し方。空欄ではない。全部、「不明」と書かれていた。
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