第41話 王都地下
王宮地下へ入る扉は、厨房の裏にあった。装飾も紋章もない、鉄板を貼った古い扉である。普段は乾物庫の壁に見えるよう棚が置かれ、その棚を動かすと鍵穴が出てくる。
「こんなところに」
エドガーが呟いた。
「知りませんでしたか」
「王宮に地下通路があることは知っていました。でも、入口は西塔だと」
「そちらは新しい方です」
答えたのはミレイユだった。彼女は今日、動きやすい濃紺の服を着ている。ドレスではない。裾を膝下まで短くし、革靴を履いていた。
「子どもの頃、厨房の侍女に叱られました。ここへ隠れると見つからないので」
セレナは扉を見る。
「入ったことがあるんですか」
「三歩だけ。四歩目で連れ戻されました」
「十分です」
「何がですか」
「鍵があると知っていたので」
ミレイユが持ってきたのは、王宮内務庫に保管されていた古い鍵束だった。記録上は「厨房地下旧扉」。用途欄は空白のまま三十年以上更新されていない。
昨日、営繕府から一枚だけ記録が出てきている。十二年前、水路点検の際にこの下へ入った者がいた。書かれていたのは三行だけである。
水路健在。旧設備は未確認。危険なし。
「未確認で危険なし、ですか」
セレナがそう言った時、営繕府の書記官は答えられなかった。
責める話ではない。水路の点検に来た人間が、用途の分からない設備まで確認する義務はない。ただ、確認していないものを危険だと書けば、その先に調査費用が発生する。書式としては、こう書く方が通る。
そして、誰も確認しないまま十二年が過ぎた。
若手術者はエドガーと、北翼のリース、南翼のマルタ。全員、昨日決めた審査班とは別に、現場測定を任されている者だった。カイルもいる。
「本当に入るんですか」
セレナは左脇腹を見る。
「医師の許可は」
「階段はゆっくりならいい」
「剣は」
「持っていい」
「戦っていいとは」
「聞いてない」
「聞いてください」
「戻ったら」
この人は、そういうところだけ以前と変わらない。セレナは溜息をつき、エドガーへ向いた。
「先頭は私ではありません。リースさん、測定。マルタさん、記録。エドガーさんは分岐ごとに目印を。カイル様は最後尾」
「最後?」
カイルが不満そうに言う。
「前に出ない約束です」
「まだ何も出てない」
「だからです」
ミレイユが小さく笑った。
「辺境伯閣下にも、止める方がいらっしゃるんですね」
「いる」
「大変ですね」
「かなり」
「聞こえています」
扉を開ける前に、セレナは持ち物を確認した。測定石は四つ。予備の銀線が二巻。白墨、油布、短い杭。治療用の布はカイルではなくマルタが持っている。
「なぜ俺じゃない」
「怪我人に救急袋を持たせる理由がないからです」
「もう怪我人じゃない」
「医師が聞いたら喜びますね」
エドガーが笑いを堪えている。
「それと、戻る基準を決めます」
セレナは扉の横の壁へ白墨で三つ書いた。測定値が五割を切る。退路に崩落が出る。未知の反応が二つ以上同時に出る。
「一つでも満たしたら戻ります」
「誰が決める?」
カイルが尋ねた。
「測定値はリースさん。崩落はカイル様。未知反応は私。自分の担当で該当したら、相談せず撤退を宣言してください」
「君が反対しても?」
「反対しません」
「研究したくても?」
「……反対しません」
間が空いた。
「今の間、記録しておきます?」
ミレイユが尋ねる。
「要りません」
今度は全員が笑った。鉄の扉が開いた。冷たい空気が、厨房の匂いの下から流れてきた。
*
階段は四十七段あった。途中から石の色が変わる。上の二十段は王宮改修時に積み直したものだが、下はもっと古い。
「ここから測ります」
リースが膝をついた。測定石を床へ置く。薄い青が灯り、数字を読み上げる。
「平常値の八割二分」
「高いですか、低いですか」
ミレイユが尋ねる。
「低いです」
セレナが答える。
「地上の外周線は九割前後あります。ここで八割二分なら、どこかで流れが失われています」
「下へ?」
「あるいは、何かに取られています」
白竜を思い出した。ただ、吸われ方が違う。白竜の時は流れそのものが強く引かれた。今は、薄く長く漏れている。通路は人二人が並べる幅だった。最初の曲がり角には、鉄格子が下りていた。錆びていて、鍵穴は見当たらない。
「図面には?」
セレナが聞く。
「ありません」
エドガーが古い写しを広げる。ミレイユは格子の横の壁を見た。
「ここ、灯りを置く窪みがあります」
「それが?」
「王宮の古い非常扉は、灯具の台座が解除具になっているものがあります。西塔にも同じ形がありました」
セレナが窪みへ銀線を当てる。微弱な反応が返った。
「魔力式です」
「動きますか」
「やってみます」
少量だけ流す。壁の中で何かが鳴り、鉄格子が指一本分だけ持ち上がった。そのまま止まる。
「重いな」
カイルが前へ出る。
「待ってください」
「戦うなとは言われた。持ち上げるなとは言われてない」
剣を抜かず、両手を格子へかけた。
「傷が」
「痛んだらやめる」
「本当に?」
「一人で決めない」
雪山の後に交わした言葉が、こんな場所で返ってきた。セレナは格子の反応を測る。
「あと半尺だけ。そこから木を噛ませます」
カイルが持ち上げ、エドガーとマルタが持ってきた角材を差し込む。一人なら、ここで時間を使った。六人なら、三分で通れた。壁に古い魔力溝が走っている。現行の王宮結界とは形が違うが、北の古代網と同じ四本組だった。
「同じですね」
エドガーも気づいた。
「北で見たものと」
「はい」
王都の地下に、国境の古代結界と同系統の線がある。予想はしていた。実物を見ると、意味が変わる。
「王都まで繋がっていたんだ」
マルタが記録帳へ線を写す。
「たぶん、王都が中心です」
セレナは溝の向きを見た。
「北へ伸びているのではなく、ここから北へ出ています」
ミレイユが壁を見上げた。
「二百年前には、国境そのものが今と違ったんですよね」
「はい」
「では、これは王国の結界ではなかった」
「そうかもしれません」
まだ断定はしない。通路の先に、最初の分岐があった。エドガーが壁へ白い紐を結ぶ。
「右が現行図面にある貯水庫。左は……ありません」
「左へ行きます」
セレナが言うと、カイルが後ろから声を出した。
「即決だな」
「数字が下がっているのは左です」
「そういう意味じゃない」
「研究欲ではありません」
「本当に?」
「半分くらいです」
「正直になったな」
否定できなかった。
*
左の通路は、五十歩ほどで狭くなった。天井が低い。ところどころ崩れた石が床へ落ち、古い木材が腐っている。
「足元」
カイルが言う。セレナが止まる。床の一部が黒く濡れていた。水ではない。薄く魔力を含んだ液体が石の隙間から染み出している。
「触らないでください」
リースが測定石を近づける。
「六割九分」
「下がった」
エドガーが言う。
「急ですね」
セレナは壁の溝を見る。四本のうち一本が、途中で切れている。切断ではない。石そのものが割れ、溝が途切れていた。
「ここです」
マルタが記録する。
「補修しますか」
「しません」
セレナは即答した。
「今ここだけ繋ぐと、流れが先へ集中します」
旧料金所で学んだことだった。新しい線ほど通りが良くなる。
「先を見ます」
「危なくない?」
ミレイユが尋ねる。
「危ないです」
「では」
「だから全員で来ました」
言ってから、自分でその言葉を聞いた。以前なら、危険だから自分だけ先に行く、と考えた。今日は違う。
「ただし、ここから役割を変えます」
セレナは全員を見る。
「リースさんは常時測定。七割を切ったら十歩ごとに値を読み上げてください。マルタさんは亀裂位置だけ記録。細かい寸法は帰りに取ります。エドガーさんは退路の目印。ミレイユ様は、王宮側の扉や部屋名が分かるものがあれば教えてください」
「分かりました」
「カイル様」
「前?」
「最後尾です」
「まだか」
「まだです」
少しだけ笑いが起きた。緊張が抜ける。それから進んだ。六割七分。六割四分。六割一分。途中、小さな横穴が二つあった。一つは潰れている。もう一つには、古い木札が落ちていた。文字は半分消えている。
ミレイユが拾わず、しゃがんで読む。
「『第二……保管』までは読めます」
「触らないでください」
「分かっています」
彼女は顔だけ近づけた。
「その下に、王家の古い保管印があります。今の印ではありません」
マルタが位置を記録し、エドガーが紐を追加する。セレナは何もしなかった。自分以外の人間が見つけ、読み、記録し、帰路を残している。そのことが、調査の速度以上に心強かった。
「セレナ」
最後尾から呼ばれる。
「何ですか」
「楽しそうだな」
「そう見えます?」
「かなり」
「研究ですから」
「知ってる」
少し前なら、危険な遺構で楽しそうだと言われたことを否定したと思う。今日は否定しなかった。
数字が下がる。通路の奥から、低い音が聞こえ始めた。
「水?」
マルタが言う。
「違います」
セレナは足を止めた。規則的ではない。
四回、少し間が空き、一回だけ長い。北の古代網で何度も聞いた脈動に似ている。
「結界の音です」
「結界が音を出すんですか」
「普段は聞こえません。負荷が大きい時だけ、石が鳴ることがあります」
カイルの声が後ろから来る。
「近い?」
「近いです」
今度は誰も冗談を言わなかった。
*
通路の終わりに、丸い部屋があった。直径は三十歩ほど。
中央に、巨大な石柱が立っている。人の背丈の四倍はある。床から天井まで貫き、表面には古代の溝が何重にも刻まれている。北で見た基点より、桁違いに大きい。
「これが」
エドガーが息を呑む。
「核です」
セレナは答えた。断定できた。
四本組の線が、部屋の四方から全部ここへ集まっている。王都地下の古代結界核。
そして、壊れていた。石柱の下部に、縦の亀裂が走っている。
細いものではない。人の腕が入るほど開き、内部から淡い青い光が漏れている。
「測定」
リースが石を置く。数字を見た瞬間、顔色が変わった。
「四割八分」
部屋の入口には、古い石板が倒れていた。文字ではなく、線だけが刻まれている。四方向から中央へ集まり、中央の円からさらに下へ一本伸びていた。
「下にも続いています」
エドガーが言う。
「核の下に、もう一層あります」
セレナは図を写した。
「今日は下へ行きません」
「まだ入口も見つけてませんよ」
マルタが言う。
「見つけても行きません」
カイルが横から覗く。
「珍しいな」
「戻る基準を決めましたから」
「まだ五割切ってない」
「四割八分です」
「切ってたな」
リースが測定石を持ち上げた。
「撤退条件、成立です」
「はい。戻ります」
誰も反対しなかった。そのことに、セレナは少しだけ驚いた。
以前の自分なら、ここまで来たのだからあと一つだけ、と言ったはずだった。今日は、先へ行く理由より戻る理由を先に置けた。
「そんなに」
「外へ出ている値です」
セレナはしゃがみ込んだ。亀裂の縁を直接触らず、銀線を一尺だけ近づける。線が震える。
引かれている。
「漏れているだけではありません」
「吸われてる?」
エドガーが尋ねる。
「分かりません。でも、内側へ流れています」
「内側?」
セレナは石柱を見る。結界核から外へ魔力が出るはずなのに、亀裂から逆に中へ落ちている。
「この石柱、中が空洞です」
ミレイユが顔を上げた。
「石なのに?」
「外殻です。中に別の構造があります」
その時、石柱の青い光が一度だけ暗くなった。床が、足の裏へ響くほど低く震える。
「下がって」
セレナが言うより先に、カイルが前へ出た。最後尾から全員を抜き、剣へ手をかける。
「約束」
「今は出る場面だろ」
否定できなかった。
亀裂の奥から、風のようなものが吹いた。
地下なのに、空気が動いている。
リースの測定石が四割六分を示した。
「下がっています!」
「撤退します」
今度は迷わなかった。
セレナは全員を見る。
「マルタさん、亀裂は目測値だけ。エドガーさん、帰路の印を確認。ミレイユ様、地上へ戻ったら、この部屋に対応する王宮の旧区画を調べてください」
「分かりました」
「カイル様」
「先頭?」
「はい。退路の安全確認を。ただし戦わないでください」
「やっと役が変わった」
全員が動き始める。
部屋を出る直前、もう一度だけ床が震えた。
セレナは振り返った。
巨大な核の亀裂から、青い光が細く漏れている。
小手先の補修では持たない。
そして、王都地下の古代線は、この核で終わっていない。
倒れていた石板の線は、核の下へ続いていた。
帰路では、来た時と順番を変えた。
カイルが先頭で床と天井を見て、その後ろをエドガーが目印を確認しながら進む。リースは最後まで測定石を切らず、マルタが値だけを記録した。
セレナは中央だった。
前にも後ろにも人がいる位置で歩くのは、妙な感じがした。地下調査ではいつも、自分が先頭か、少なくとも異常へ一番近い場所にいた。
最初の分岐まで戻ったところで、リースが「五割二分」と読み上げた。核から離れるにつれて数字が戻っている。
「やはり中心はあの部屋ですね」
エドガーが言う。
セレナは頷いた。
原因を見つけた時の癖で、頭の中ではもう次の測定箇所を並べ始めていた。核の下。東西の支線。亀裂の深さ。現行外周線との接続。
今日はそこまで考えて止めた。
地上へ持ち帰る数字は十分にある。続きを決めるのは、全員が同じ記録を見てからでいい。
鉄格子まで戻ると、カイルが角材を外す前にセレナを見た。
「持つぞ」
「はい。痛んだら言ってください」
「言う」
短い返事だった。
以前なら信用できなかったと思う。今は、少なくとも白竜の後に交わした約束を、この人も守ろうとしていることを知っていた。
六人で格子を越え、最後にエドガーが白い紐を回収する。地下へ残したのは、石に付けた白墨の印だけだった。
厨房裏の扉を閉じた時、地上の音が戻ってきた。鍋の鳴る音、使用人の足音、夕食の支度を知らせる声。
その真下に、王都の図面へ載っていない巨大な結界核がある。
セレナは扉へ鍵が掛かるのを見届けた。
「明日は、入る人数を増やしません」
「減らす?」
ミレイユが尋ねる。
「いいえ。同じ六人で記録を整理します。次に降りるなら、何を見るか決めてからです」
エドガーが頷いた。
「今日みたいに」
「はい」
扉の前で、営繕府の書記官が記録用紙を出した。今日の分を書く欄である。
「その……どう書けばよろしいでしょう」
十二年前の三行を書いたのは、この人の前任者だった。
「見たものを全部書いてください」
セレナは記録帳を開いた。
「分からないものも、分からないと書いてください。危険なし、とは書かないでください」
「危険かどうかは、判断しないのですか」
「今日の時点では、判断できません」
書記官はしばらく考え、それから頷いた。
「では、そう書きます」
その一行が残れば、次に降りる人間は三行から始めなくて済む。
調査は終わっていない。
けれど、続け方はもう一人で決めなくてよかった。
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