第40話 三日で分かること
三日で分かることは、思っていたより多かった。
監査という語を、セレナは使わなかった。書式上は「技術監理官による初期状況把握」である。ただし局員は誰も、それを別の名で呼ばなかった。
初日は記録を読んだ。過去五年分の点検記録、資材調達書、工事申請とその処理経過。二日目は現場を回った。七番塔、北側補助線、外周結界の東半分。三日目は人に会った。
三日目が、いちばん長くかかった。紙は読めば済むが、人は同じ質問を十七回しなければ形が見えない。
「一日に何箇所回りますか」
北翼の観測班で、セレナは同じ質問を繰り返した。
「五箇所です」
「以前は」
「四箇所でした。二人一組にしてから、一人あたりの担当は増えました」
「回りきれますか」
「回りきります。ただ、測るだけです」
答えたのは三十過ぎの術者だった。バルドの下で六年になるという。
「測るだけ、というのは」
「異常があれば記録して、上へ上げます。直すのは別の班です」
「直す班が来るまでの日数は」
「早くて三日。混んでいると十日」
セレナは記録帳へ書いた。三日から十日。
三日から十日。北部の村なら、担当が翌日には見に行く。人数はこちらの方が多いのに、届くまでの日数は倍以上かかっていた。
「その間に悪化した例は」
「あります。去年の秋、南門の杭が一本倒れました。記録は上げていました」
「誰の責任になりましたか」
術者が少し黙った。
「……誰にもなりませんでした」
「なぜです」
「観測班は記録を上げました。修繕班は順番通りに処理しました。どちらも規定通りです」
セレナは筆を止めた。同じ形を、辺境で聞いたことがある。営繕方が異音を報告し、結界局が数値を見て、両方とも正しく処理して、それでも城門が抜けかけた。
あの時は、両方を見る人間が一人もいなかったのが原因だった。ここでは、両方を見る役職が存在しない。
「規定は、いつ決まりましたか」
「僕が入る前です」
「では、誰が決めたかは」
「分かりません」
規定を書いた人間が誰かを、誰も知らない。それでも規定は守られている。守られている限り、誰も責任を負わずに済む。
南翼の資材管理では、別のことが分かった。
担当は五十過ぎの男で、術者ではない。資材の型番と在庫だけを二十年見てきたという人物である。地下の記録庫で、セレナの綴りを最初に借りた人でもあった。
「型番を逆から引く、というのを伺いました」
「引きました」
男は帳簿を開いた。
「アシュフォード様の記録には、どの塔の何を直したかと、使った部材の型番が両方書いてあります。うちの調達書には型番と数量しかない。突き合わせると、どの資材がどこへ行ったか分かります」
「何か出ましたか」
「出ました」
男は付箋の付いた頁を示した。
「用途不明の旧施設資材、という項目です。過去五年で十一件」
セレナは頁を覗き込んだ。
購入記録がある。納入記録もある。ただし、どの現場で使われたかの欄が空白だった。
「これは」
「照会は出ています。ただ、照会先が毎回違います」
男は別の綴りを持ってきた。
「三件は営繕府へ。四件は評議会の土地管理へ。二件はうちで処理。残り二件は、王太子府経由の外部照会です」
「外部」
「商会です」
セレナの手が止まった。
「どこの」
「ヴィンター商会」
男は帳簿の欄を指でなぞった。二十年同じ帳簿を見てきた指の動かし方だった。行を追うのではなく、位置で覚えている。
「うちが照会したのではありません。向こうから『廃坑および旧魔導施設の残存資源調査』の名目で問い合わせが来て、それに答えた形です」
「答えた内容は」
「旧施設の所在と、現存する設備の種類です。危険物ではないので、開示に問題はありません」
問題はない。その通りだった。廃棄された設備の所在を尋ねられて答える。それだけなら、どこの部署でも毎日やっている。断る方がむしろ理由を求められる。
「この照会は、局長までは上がりましたか」
「上がりません。開示可能な情報なので、担当決裁です」
「では、十一件が同じ商会からの照会だと気づいた人は」
男は帳簿を閉じた。
「私が、先週気づきました」
先週。セレナが渡した綴りが、記録庫の棚に並んでからのことである。型番を逆から引く方法を思いついた人間が、五年ぶんの照会を並べ直した。
*
その日の夜、セレナは局長室で報告した。
局長は五十代の女性で、三年前に就任している。セレナが王宮を出る前の年だった。当時は北翼の班長で、直接話したことは数えるほどしかない。すれ違えば会釈をする程度の相手だった。
「十一件です」
セレナは書き出した一覧を机へ置いた。
「五年間で、ヴィンター商会から旧施設に関する照会が十一件。三件は営繕府、四件は評議会、二件はこの局、二件は王太子府経由。全部、開示可能な情報でした」
局長は一覧を読み、しばらく黙っていた。読み終えてから、もう一度上から目を通す。数えているのが分かった。
「共謀ではありませんね」
「違います」
セレナは即答した。
「どの部署も規定通りに処理しています。むしろ、丁寧です。照会には全部返答していますし、記録も残っています」
「では、何が問題ですか」
「十一件を一つの案件として見た人が、五年間いなかったことです」
局長は一覧を机へ置いた。
「そうなりますね」
「一件ずつなら、判断は正しいです。廃棄設備の所在を聞かれて答える。危険物ではない。開示できる。全部正しい」
セレナは自分の記録帳を開いた。
「ただ、十一件並べると、北部の古代基点がほぼ全部含まれています。裂け谷、薬草谷、旧監視塔、丘の中継点、北の砦。私が半年かけて調べた場所と、ほとんど一致します」
局長の指が机の上で止まった。
「相手は、王都の役所から場所を教わって、北部を回っていた」
「そうなります」
「……止められましたか」
「一件ずつを見ている限り、止められません」
セレナは正直に答えた。
「止めるには、十一件を並べる誰かが必要です。ただ、この局には、部署をまたいで照会記録を並べる仕事が存在しません」
「作るべきだと」
「はい」
仕事を一つ増やす話である。局長がまず考えるのは、それを誰にやらせるかだった。
「人がいません」
局長はそう言い、それから言い直した。
「……いません、で終わらせるのが、これまでのやり方でしたね」
*
翌日から、セレナは違う種類の作業を始めた。
部署ごとの担当範囲を、紙の上へ全部書き出す。誰が何を決められるか、どこから先は上へ上げるか、上げた先で誰が受けるか。書けるところから埋めていくと、すぐに空白が出た。
空白は三種類あった。
一つ目は、誰も担当していない領域である。部署をまたぐ照会や、複数の設備に関わる異常がここに入る。二つ目は、二つの部署が両方とも「自分の担当ではない」と考えている領域。
三つ目は、逆に両方が担当しているつもりで、実際には片方しか動いていない領域だった。
「三つ目が一番危ないです」
セレナが言うと、エドガーが顔を上げた。
「なぜです」
「誰も気づかないからです。片方が動いているので、記録は残ります」
二人は東翼の作業場を使っていた。机の上に、局の見取り図と担当表を並べている。
「これ、僕の担当のところも空いてますね」
エドガーが自分の名前の横を指した。
「北側補助線の観測は僕ですが、七番塔との接続部だけ、誰の担当か書けません」
「去年までは」
「アシュフォード様が見ておられました」
セレナは筆を止めた。覚えがある。七番塔と補助線の接続部は、どちらの班の記録にも載らない場所だった。だから自分が見ていた。誰かに頼むより、ついでに見た方が早かったからである。
ついで、という判断を五年続ければ、それは誰かの仕事ではなくなる。
「そこも空白です」
自分で書いた。
紙の上の空白が、また一つ増えた。
「アシュフォード様」
「はい」
「僕が入った頃、この局は回っていました」
エドガーは見取り図を見たまま言った。
「回っていたと思っていました。異常はありましたが、大事にはならなかった。それは、僕らが上手くやっていたからだと思っていたんです」
「上手くやっていました」
「でも、そうじゃなかったんですよね」
セレナは答えを探した。ここで否定するのは簡単である。局員は怠けていない。人が足りない中で、できることをやっていた。それは事実だった。
ただ、事実の全部ではない。
「私が埋めていました」
言葉にすると、それは思っていたよりはっきりしていた。
「部署の間に落ちたものを、私が拾っていました。頼まれたわけではありません。気づいた人間が見た方が早いので、そうしました」
「助かっていました」
「助かっていたと思います。ただ、そのぶん、穴の大きさが見えなくなりました」
必要なのは、担当と担当の間にできる空白を、誰か一人の善意ではなく手順で渡すことだった。
セレナは紙の空白を指した。
「今この紙に空白が三十七箇所あります。半年前なら、これは二十箇所くらいに見えたはずです。残りの十七は、私が埋めていたので空いていないように見えていました」
エドガーが何か言いかけ、やめた。
「僕は、アシュフォード様のせいだとは思いません」
「私もそう思っています」
セレナは筆を置いた。
「私一人が抱えなければ、この空白は五年前に見えていました。それは私の側の問題です。ただ、抱える人がいなければ回らない仕組みを五年間放置したのは、私の問題ではありません」
その線を引くのに、半年かかった。辺境で誰かに教わったわけではない。自分が同じことを何度も繰り返し、そのたびにカイルやローデリックへ指摘された結果である。
空白を埋める作業には、局の外の人間が必要だった。
部署をまたぐ照会を誰が見るか、という話になると、局内では決まらない。営繕府と評議会と王太子府が絡む。局長の決裁権を超えていた。
「そこは、私が動きます」
そう言ったのは、ミレイユだった。
結界局の会議室に伯爵令嬢が座っているのは、たぶん局の歴史で初めてである。エドガーが椅子を運んできた時、他の局員が何人か廊下から覗いていた。覗いた者のうち二人は、北市場の夜に現場へ出ていた衛兵と顔見知りらしかった。
「ベルローズ様」
「ミレイユで構いません。ここでは肩書きが要りません」
「では、ミレイユ様」
セレナは書類を回した。
「三つの部署に、同じ様式の照会記録を作っていただきたいのです。誰が、いつ、何を聞かれて、何を答えたか。それだけです」
「増えるのは仕事ですね」
「増えます」
「営繕府は嫌がります」
「嫌がると思います」
「では、嫌がらない理由を作ります」
ミレイユは書類を膝の上へ置いた。
「営繕府の次官は、去年の南門の件で叱責を受けています。あれは修繕の順番が原因ということになっていますが、本人は納得していません」
「順番は規定通りでした」
「そう言っています。ただ、証拠がありません。記録が部署ごとに散っているので、誰が何を判断したかを示せない」
ミレイユは顔を上げた。
「この様式があれば、示せます」
セレナは、その角度を考えていなかった。記録を揃えるのは、異常を早く見つけるためである。責任の所在をはっきりさせるため、という言い方は、こちらからは出てこない。
「そう説明されるのですか」
「両方説明します」
ミレイユは少し笑った。
「私は結界のことは分かりません。ただ、誰がどの話に頷くかは分かります」
二週間後、若手術者への担当移管が始まった。
最初の三人が決まった。エドガー、北翼のリース、南翼のマルタ。三人とも二十代で、担当を持ったことがない。
やり方は辺境と同じにした。まず範囲を決め、次に、その範囲で自分が判断してよいことと上げるべきことを紙に書く。最後に、判断を間違えた時に誰が引き受けるかを決める。
三つ目でつまずいた。
「間違えたら、私の責任です」
エドガーが言った。
「違います」
セレナは首を振った。
「あなたが判断を間違えた場合、責任はあなたです。ただし、その判断をあなたへ渡すと決めたのは局長です。渡し方が悪ければ、局長の責任です」
「分けるんですか」
「分けます。分けないと、誰も判断を受け取らなくなります」
セレナは紙へ二本の線を引いた。
「私が王都にいた十年間、この分け方がありませんでした。だから私は、判断も責任も全部自分で持ちました。楽でした」
「楽、ですか」
「楽です。誰とも交渉しなくて済みます」
エドガーは紙を見た。
「……時間はかかりますね」
「かかります。三か月では終わりません」
セレナは即答した。
「三か月でできるのは、空白の一覧と、最初の十件くらいの移管です。残りは、私がいない間に続けてもらいます」
「続けられるでしょうか」
「続けられる形にします。それが、私がここへ来た理由です」
エドガーは何も言わずに紙を引き寄せ、二本の線の下へ自分の名前を書いた。範囲の欄と、上げる先の欄。責任の欄だけ、まだ空いていた。
*
その夜、宿舎の机で、セレナは辺境への手紙を書いた。
三か月のうち、二十日が過ぎている。
報告は簡単に済んだ。局の状況、空白の一覧、担当移管の進み具合。ヴィンター商会の照会記録十一件については、ローデリックが押収した契約書と突き合わせる必要があるので、写しを送ることにした。
最後に、一行だけ違うことを書いた。
『こちらの空白は三十七箇所でした。辺境は二十二項目で足りました』
書いてから、少し笑った。辺境の引き継ぎ一覧が二十二項目で済んだのは、領地が小さいからではない。半年かけて、空白を一つずつ埋めたからである。
王都で十年やって、それをしなかった。
筆を置き、窓の外を見た。
王都の夜は、辺境より明るい。結界灯が通りごとに並び、消えている場所がない。三十七箇所の空白があっても、外から見れば何も起きていないように見えた。
半年前まで、自分もそう見ていた。
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