第39話 元婚約者
会談の場所は、王宮の小会議室だった。
大広間ではない。二十人が座れる程度の部屋で、正式な謁見ではなく協議として扱われている。技術監理官と王太子との会談という形式である。
卓の一方に王太子アルベルトと侍従、それにラングレー子爵。もう一方にセレナと、ヴァレンシュタイン辺境伯。
席次を決めたのは王太子府である。技術監理官を上座へ置く形にはならなかったが、下座にもならなかった。卓の長辺で向かい合う配置は、協議の形式だった。
カイルは席についた時から一言も発していない。左脇腹をまだ庇っているので、背もたれへ体を預けていた。
「まず、北部の件から伺いたい」
アルベルトが口を開いた。
半年ぶりに見る顔である。少し痩せたように見えた。声の調子は変わっていない。大夜会の夜、天井裏から下りてすぐに聞いたのと同じ声だった。
「ヴィンター商会の件は、報告書で読んだ。実際に見た者の話を聞きたい」
「はい」
セレナは資料を開いた。
裂け谷の古代基点から始めた。切断された銀線、産地の異なる三つの固定環、削られた管理番号。ノルトハイムとの共同調査で分かったのは、古代網が国境をまたいで一つに繋がっていたこと。それに、三年前の東部廃坑で死者が二名出ていたこと。
押収した契約書の日付は、その死亡事故の三か月後だった。
説明は半刻かかった。アルベルトは途中で二度質問した。どちらも数字についてで、感想は挟まない。話を遮らずに最後まで聞くのは、この人の悪いところではなかった。
「つまり、国家転覆の意図はなかったと」
「ありません。採掘費用を抑えるために、魔獣を使って古代施設の外殻を壊させていました」
「危険は認識していたのか」
「三年前の死亡事故の後、痕跡を隠す方法だけを変えています。認識した上で続けたと考えます」
アルベルトは資料の一枚を手に取った。
「これで、北部の結界は元に戻るのか」
「戻りません」
即答すると、王太子の目が上がった。
「なぜだ」
「傷ついた基点が九箇所あります。しかも、古代網は国境をまたいで繋がっています。一箇所ずつ直すと、直した場所へ負荷が寄ります」
「同時に直せば」
「同時に直しても、直した箇所が周囲より通りが良くなります。新しい銀線は、二百年前の溝より抵抗が小さいので」
セレナは資料の図を回した。
「修復すればするほど、直していない部分へ集中します。それが、先月私が肩を外した理由です」
アルベルトの視線が、一瞬だけセレナの肩へ動いた。今は吊り布もなく、外からは分からない。
「……怪我をしたのか」
「三箇所同時の試験中に、逆流で床が抜けました」
「聞いていない」
「報告する義務がありません」
言ってから、少し言い過ぎたかと思った。
ただ、事実である。辺境伯領での事故を王太子府へ報告する経路は存在しない。
アルベルトは何も言わなかった。侍従が茶を注ぎ足す音だけがした。
*
技術的な議題が終わったのは、会談が始まって一刻半後だった。
侍従が茶を下げ、部屋の人数が減った。残ったのは、卓の両側に四人だけである。
「セレナ」
アルベルトが名を呼んだ。
半年ぶりだった。書状ではアシュフォード公爵令嬢と書かれていたので、口頭では初めてになる。
「アシュフォードとお呼びください」
セレナが言うと、王太子の動きが止まった。
「……なぜだ」
「今日は技術監理官として参りました」
「分かった」
アルベルトは言い直した。
「アシュフォード。もう一つ話がある」
「伺います」
「婚約の再締結について、公爵から聞いているか」
「聞いております」
「では話が早い」
王太子は姿勢を正した。
「先般の婚約解消は、王家として拙速であった。あの判断は、王国の防衛体制に対する認識を欠いていた。その点は認める」
「はい」
王家として、という言い方をしている。個人としてではない。それは十年前から変わっていなかった。
「その上で、改めて申し入れたい。国のために、もう一度――」
「お断りします」
言い終える前に、セレナは答えた。
部屋が静かになった。
アルベルトは口を開けたまま、数秒動かなかった。それから、ゆっくり閉じる。断られることを想定していなかったのだろう。公爵が話を通したと聞いていれば、なおさらである。
「……理由を聞かせてもらえるか」
「三つあります」
セレナは指を折らなかった。折る必要がなかった。三つとも、五日の道中で何度も並べ直したものである。
「一つ。私は辺境伯領と契約しています。三か月後に戻ります」
書類上の話である。これだけなら、王家が手を回せば覆せる。だから最初に置いた。
「契約は解除できる」
「解除しません」
「二つ目は」
「殿下が今、国のためと仰いました」
セレナは王太子を見た。
「十年前も同じでした。私が王宮の結界を直していたのは、国のためです。婚約者だったからではありません。辞令も俸給もありませんでしたが、必要だと言われれば行きました」
「それは……感謝している」
「感謝を求めていません」
自分の声が、思ったより静かだった。怒鳴る場面ではない。数を並べる時と同じ調子で足りる。
「私が申し上げたいのは、殿下が私に求めておられるものが、十年前と同じだということです。あの時も国のためでした。今も国のためです。変わったのは、私の技術が役に立つと分かったことだけです」
「それの何が問題だ」
アルベルトが言った。
責める調子ではない。本当に分からない、という顔だった。この人は、評価を改めることが誠意だと思っている。実際、王家としてはそれで足りるのだろう。
「役に立つと分かった。だから正当に評価する。それが不当か」
「不当ではありません」
「では」
「順番が違います」
セレナは卓の上で手を組んだ。
「役に立つと分かったから評価する、という順番なら、役に立たないと判断されれば、また同じことが起きます。私は一度それを経験しました」
「同じことはしない」
「なぜそう言えるのですか」
アルベルトが黙った。答えられないからではなく、答えを探しているのが分かる黙り方だった。
「大夜会の日、殿下は私に仰いました。結界術は優秀だが、攻撃魔法は使えない。王家の象徴となる者には、分かりやすい力も必要だ、と」
「……覚えている」
「あの言葉は、間違っていません」
セレナは続けた。
「私は攻撃魔法を使えません。今も使えません。半年前と、能力は何一つ変わっていません」
部屋の空気が変わった。ラングレーが書類挟みの角へ手を置き、そのまま動かなくなる。
「変わったのは、私の周りの評価だけです。北部で結界を直したから、竜が出た話が伝わったから、報告書に名前が載ったから。全部、外側の話です」
セレナは一度、息を継いだ。
「殿下がもう一度私を必要とされるのは、外側が変わったからです。私自身は変わっていません」
アルベルトは何も言わなかった。
「三つ目です」
セレナは言った。
「私は、あなたにされたことを、不当だったと思っています」
言葉が出た瞬間、自分でも少し驚いた。
用意していた台詞ではない。三つ目には、辺境の仕事が残っていることを言うつもりだった。契約と、技術移転と、九箇所の基点。全部、仕事の話である。
それでも、口から出たのはこちらだった。
「不当」
アルベルトが繰り返す。
「はい」
「王家の判断が、か」
「判断ではありません」
セレナは首を振った。
「王太子妃に別の資質を求めるのは、判断です。それは正当です。私はあの日、反論しませんでした」
「では何が」
「あの日まで、十年間、辞令も俸給もなく私に王宮の結界を直させていたことです」
セレナは卓の資料を指した。
「その十年について、殿下は一度も言及されていません。今日も、書状にもです。書状に書いてあったのは『貢献に対する認識が不十分であった』という一行だけでした」
「認めている」
「認識が不十分だった、という書き方は、気づかなかったという意味です」
セレナは相手を見た。
「気づかなかったのではありません。私が直していることを、殿下はご存じでした。灯具が点かない時、私を探しに侍従を寄越されました。何度もです」
アルベルトの手が、卓の上で止まった。
「使っておられました。知った上で、使っておられました。それが不当だと申し上げています」
部屋が完全に静かになった。
ラングレー子爵は書類挟みへ視線を落としたままである。侍従は動かない。壁の高い窓から午後の光が入り、卓の端を細く照らしていた。
カイルは、こちらを見ていなかった。卓の一点を見たまま、腕を組んで座っている。
口を出す気配は、一度もなかった。同席はするが口は出さないと、昨日そう言われている。守られていた。
*
アルベルトが口を開くまでに、長い時間がかかった。
「……そうだな」
最初に出たのは、それだけだった。
「認識が不十分だった、という文面は、私が承認した」
「はい」
「あれは、私が書いたのではない。王太子府が原案を作り、私が文言を直した」
「そうだと思いました」
「直した箇所は、二つある」
アルベルトは自分の指を見た。
「一つは、貴殿という語を残すか外すかだ。もう一つは、謝罪という語を使うかどうかだった」
セレナは何も言わなかった。
「使わないことにした」
「なぜです」
「王家が個人へ謝罪した前例が、直近の百年にない」
「そうですか」
「今は、それが理由になっていないことが分かる」
アルベルトは顔を上げた。
「アシュフォード。私は、お前が北で何をしていたかを、報告書でしか知らない」
「はい」
「報告書には、お前が何をしたかは書いてある。何を我慢していたかは書いていない」
セレナは初めて、この人が言葉を探しているのを見た。十年、王太子として育てられた人間である。言葉に詰まる場面を作らないよう訓練されているはずだった。
「十年間、私はお前を便利だと思っていた。それは事実だ。便利だと思うことと、価値を認めることは違う。今日、その違いが分かった」
「はい」
「遅い」
「はい」
その一言を言うのに、この人は十年かかった。こちらも、それを言われるまでに半年かかっている。どちらが遅いという話でもなかった。
否定しなかった。遅い、というのは事実である。
アルベルトは短く笑った。笑ったというより、息が漏れただけに見えた。
「否定しないのか」
「事実ですので」
「……そうか」
アルベルトは卓の上で手を組み、それから一つだけ尋ねた。
「最後に確認したい」
「どうぞ」
「辺境伯との関係が、なかったとしても同じか」
問いの意味は分かった。
半年前に婚約を解消された娘が、北で辺境伯に拾われ、その男を選んだ。王都から見れば、そういう筋書きの方が理解しやすい。婚約を断る理由が別の男なら、話は単純である。
セレナは少し間を置いた。置いたのは、迷ったからではない。確かめたからだった。
「同じです」
カイルと出会っていなくても。北へ行かなかったとしても。
半年前へ戻れるとしても、あの婚約には戻らない。
「殿下が私を必要とされる理由は、辺境伯がいてもいなくても変わりません。私が断る理由も同じです」
アルベルトは長く息を吐いた。
それから、卓の上の資料を揃えた。端を二度叩いて厚みを整える。子どもの頃から変わらない癖である。
「婚約の件は取り下げる」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
「そうですね」
その返事に、アルベルトがもう一度顔を上げた。
セレナは資料を鞄へ入れながら続けた。
「殿下。私は三か月、技術監理官として働きます。その間に、局の若手へ手順を渡します。三か月後、私がいなくても王都の結界が回る形にします」
「その後は」
「辺境へ帰ります」
帰る、という語を、この部屋で使った。
アルベルトが、その語を聞き取ったのが分かった。王都で生まれ、王都で育ち、王都から出たことのない人である。別の場所を帰る先と呼ぶ人間を、たぶん初めて見た。
「……そうか」
「はい」
「一つ、聞いていいか」
「どうぞ」
「北は、そんなにいいところか」
質問としては、あまりに素朴だった。会談の締めに使う言葉としても、およそ形式を外れている。
セレナは少し考えた。
「寒いです。夏でも山に雪が残ります。街道は舗装されていません。魔獣が出ます。予算はいつも足りません」
「……褒めていないな」
「褒めていません」
セレナは鞄の紐を締めた。
「ただ、あそこでは、私が何かを言うと、それが私の言葉として扱われます」
*
会議室を出たのは、日が傾いてからだった。
王宮の長い廊下を、二人で歩く。前を行く侍従が扉を開け、その先で下がっていった。
この廊下も、十年通った場所である。灯具の位置を全部覚えている。西側の四基だけが、今も他より少し暗かった。
カイルは何も言わない。
外へ出て、馬車へ乗るところまで無言だった。
「怒っていますか」
座席へ座ってから、セレナが尋ねた。
「なぜ」
「一言も話されなかったので」
「話す場面がなかった」
「一度もですか」
カイルは腕を組んだまま答えた。
「二回ある」
「どこです」
「便利だと思っていた、と言われた時」
セレナは膝の上の鞄を見た。中には今日の資料と、灰色の手袋が入っている。
「もう一回は」
「遅い、と君が言った時」
「あれは、私が言いました」
「そうだ」
カイルは窓の外へ視線を向けた。
「だから、俺が言う必要がなかった」
馬車が動き出す。王宮の門を抜け、王都の通りへ出た。
セレナは窓の外を見た。夕方の通りには人が多い。誰もこちらを見ていない。三日前、南門から入った時とは違っていた。触れが出ていたのは到着の日だけで、あとは誰も気にしない。それでよかった。
「一つ、分かったことがあります」
「言え」
「私は、殿下に謝ってほしかったわけではありませんでした」
セレナは自分の手を見た。
「今日、謝罪という語は一度も出ていません。それでも、話が終わりました」
「何が要ったんだ」
「知っていたと認めることです」
言葉にすると、単純だった。
「気づかなかった、では終われませんでした。知っていて使っていた、と言われて初めて、置くことができました」
カイルは頷いた。それ以上、何も聞かなかった。
馬車は結界局の方角へ向かっている。局へ戻れば、まだ今日の分の仕事が残っていた。
三か月のうち、三日が終わったところだった。
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