第38話 王都へ
王都の南門が見えた時、セレナは馬車の窓を少し開けた。
五日ぶりの街道の終わりである。半年前に北へ出た時と同じ門で、同じ位置に衛兵が立っていた。石畳の継ぎ目まで覚えている。
違っていたのは、門の内側だった。
「止まっていますね」
馬車の速度が落ちる。
門をくぐった先の通りに、人が並んでいた。並んでいるというより、道の両側へ寄って待っている。荷を持った者もいれば、店の前掛けのまま出てきた者もいた。
「何かあったんでしょうか」
「見物です」
先導のラングレー子爵が、馬を寄せて答えた。
「三日前から、辺境伯閣下とアシュフォード公爵令嬢が王都へ入ると触れが出ております」
「触れを出したのは」
「王太子府です」
セレナは窓を閉めようとして、やめた。
馬車が進む。人の顔が窓の外を流れていく。誰も歓声は上げない。ただ、見ている。歓迎でも敵意でもなく、確かめに来た目つきだった。
半年前、この通りを北へ向かった時、見送りに出たのは公爵家の使用人が三人だけだった。婚約解消の翌日で、王都中がその話を知っていた。誰も道端へは出てこなかった。
同じ通りである。石畳も、両側の店も、ほとんど変わっていない。変わったのは、道の両側に人がいるかどうかだけだった。
「気分が悪いか」
向かいでカイルが言った。
「いいえ。ただ、落ち着きません」
「なら閉めろ」
「閉めると、余計に見られます」
その通りだったので、カイルは何も言わなかった。
通りの中ほどで、馬車が一度大きく揺れた。石畳の補修が途中で止まっている場所だった。継ぎ目の間に、まだ新しい木の板が渡してある。
その脇に立っていた男が、こちらを見て何か言った。
窓を開けていたので、聞こえた。
「北の結界の令嬢だ」
馬車はそのまま通り過ぎた。
北の結界。半年前、この王都で自分に付いていた呼び名は、王太子の元婚約者だった。呼び名が仕事の方へ移るのに、半年かかったことになる。
*
王宮への到着報告は形式通りに済んだ。
その足で、セレナは結界局へ回ることになっていた。任期は到着日から九十日である。着いた日から数えるので、一日でも早く始めた方がいい。
局の建物は、記憶より小さく見えた。
三階建ての石造りで、正面の階段が十四段。十年通った場所である。段の数まで覚えているのは、夜に上ることが多かったからだった。暗い中を数えて上れば、灯りを借りずに済む。
階段の上に、人が立っていた。
「アシュフォード様」
エドガーだった。半年前より少し痩せている。
「お待ちしておりました」
「局長は」
「中でお待ちです。ただ、その前に一つ」
彼は階段を二段下りてきた。
「僕が案内するよう言われました。局内の全部署を、順に」
「全部署ですか」
「はい。技術監理官の立入権は全部署に及ぶので、最初に一度全部見ていただくようにと」
セレナは階段を見上げた。
十年間、この建物で自分が入れた部屋は三つだった。測定資料室と、東翼の作業場と、廊下の端の物置である。局員ではなかったので、それ以外は毎回誰かの許可が要った。許可を取る時間の方が、測定より長い日もあった。
「エドガーさん」
「はい」
「案内は、あなたが決めたことですか」
彼は少し言い淀んだ。
「……僕が提案しました。局長が承認しました」
「なぜ」
「その方が早いからです」
エドガーは階段の上を指した。
「三か月しかありません。どこに何があるか探すところから始めると、それだけで十日かかります」
セレナは頷いた。
「では、お願いします」
全部署を回るのに、その日は使い切った。
北翼の観測班、南翼の資材管理、地下の記録庫、東翼の作業場、それに二階の調整室。どこも人が足りていないのは変わっていない。書類の山も、廊下に置かれた予備の測定板も、記憶の通りだった。
ただ、変わっているところもあった。
観測班の壁に、担当表が貼ってある。
二人一組で、名前が二つずつ書かれていた。空欄はない。
「これは」
「半年前に組み直しました」
エドガーが答える。
「バルドさんが決めました。担当二名以上、単独確認を常態化させないこと」
「効率は落ちましたか」
「落ちました。最初の二か月は特に」
「今は」
「今は、誰かが休んでも止まりません」
セレナは担当表をしばらく見た。名前が二つ並ぶだけの紙である。書式としては、村の水位杭の見張り表とほとんど変わらない。
自分がいた頃、この壁には何も貼っていなかった。誰が何を見ているかは、局長の頭の中にあった。
地下の記録庫では、別のものを見た。
棚の一つに、見覚えのある綴りが並んでいる。厚さ指三本分。自分が十日かけて写し、ラングレーへ渡したものだった。
その隣に、同じ厚さの綴りがもう三冊ある。
「写しですか」
「はい。四部作りました。北翼と、南翼と、この記録庫と、あと一冊は貸出用です」
「貸出」
「持ち出せます。ただし記録帳へ名前を書きます」
セレナは貸出簿を開いた。
名前が並んでいた。二週間で十九件。同じ名前が三度出ているものもある。
「読まれていますね」
「読まれています」
エドガーは棚へ手をかけた。
「最初は、僕とバルドさんだけでした。三日目に、南翼の資材係が借りていきました。あの人は術者ではありません。資材の型番だけ見に来たそうです」
「型番」
「アシュフォード様の記録には、使った部材の型番が全部書いてあります。局の調達書には型番しか残らないので、何にどう使われたかは分からない。逆から引けると気づいたのは、あの人です」
セレナは貸出簿の名前を見た。二週間で十九件、書かれた名前は十一人。そのうち半分以上を、セレナは知らなかった。
十年通って、顔も知らない人間が半分いる建物である。局員ではなかったのだから当然だが、当然だと思っていたこと自体が、今は少し違って見えた。
*
公爵邸へ行ったのは、王都へ着いて三日目の夕方だった。
訪問の日取りは、こちらから指定した。任期が始まっているので、局の予定を優先させてもらった形である。父からの手紙には「いつでも構わない」と書かれていた。
門をくぐると、庭の造りが変わっていた。東側の生垣が刈り込まれ、その奥に新しい花壇ができている。半年で庭を作り直す余裕があったらしい。
半年前、この庭を最後に見たのは夜明け前だった。荷を積んだ馬車の窓からで、生垣の形までは覚えていない。
玄関で迎えたのは執事だった。
「お帰りなさいませ、セレナ様」
その言い方に、セレナは一瞬止まった。
帰る、という語を、この家に対して使われている。二日前に自分が別の場所へ向けて使った語だった。
「今日は客として参りました」
「……はい」
執事が礼をして下がる。
応接室で待っていた父は、半年前より少し老けて見えた。アシュフォード公爵。王国評議会の議席を持ち、王太子の教育係を長く務めた人物である。
「よく戻った」
「三か月です」
「聞いている。技術監理官だそうだな」
「はい」
「悪い話ではない」
父は椅子を勧めた。セレナは座り、鞄を膝の横へ置いた。
「体調はどうだ」
「問題ありません」
「北は寒かろう」
「今は夏です」
「そうか」
会話が途切れた。
半年ぶりの父娘の会話として、これが自然なのかどうか、セレナには判断がつかなかった。もともと、この家では月に数度しか顔を合わせていない。話すことがあるとすれば、王宮の予定か、公爵家の行事のどちらかだった。
「セレナ」
「はい」
「三か月のうちに、片づけておくべきことがある」
父は膝の上で手を組んだ。
「殿下との件だ」
セレナは父の顔を見た。
謝罪の言葉は、まだ一つも出ていない。
「陛下と評議会の一部では、あの婚約解消は拙速だったという見方が強まっている。北部の一件で、お前の評価が変わったからだ」
「評価が変わったのは、私が何かをしたからではありません」
「同じことだ」
父は続けた。
「殿下も、あれから思うところがあったと聞く。今なら、双方の面目を保ったまま元へ戻せる」
「元へ、というのは」
「婚約の再締結だ」
セレナは、しばらく何も言わなかった。
驚いてはいなかった。この話が出ることは、王都へ入る前から予想していた。ラングレーが持ってきた書状に「認識が不十分であった」と書いてあった時点で、次に来るものは決まっている。
予想していなかったのは、順番だった。
「お父様」
「何だ」
「半年前、私がこの家を出た日のことを覚えておられますか」
父の眉が動いた。
「覚えている」
「あの日、お父様は私に何と仰いましたか」
「……北で頭を冷やしてこい、と言った」
「はい」
セレナは膝の上の手を見た。
「私は、頭を冷やしに行ったのではありません。仕事をしに行きました」
「分かっている」
「今、分かっていると仰いましたね」
父が口を閉じた。
「では、あの日は分かっておられなかったということです」
応接室が静かになった。時計の音がする。この部屋の時計は、十年前から同じものだった。振り子の音が半拍だけ遅れる癖まで、変わっていない。
「私が知りたいのは、婚約のことではありません」
セレナは顔を上げた。
「あの日、お父様が私を送り出した理由です。娘が不当な扱いを受けたと思っておられたのか、それとも、家の面目のために一度遠ざけた方がよいと判断されたのか」
「セレナ」
「どちらでも構いません。ただ、それを聞く前に婚約の話をされるのは、順番が違います」
父はしばらく答えなかった。
やがて、低い声で言った。
「両方だ」
「両方」
「不当だと思った。同時に、あの場で王家と争えば、公爵家全体が傾くとも思った。だから、お前を北へ出した」
セレナは息を吐いた。その答えは、予想の中にあった。予想の中にあって、それでも聞くまでは確かめられなかった。
半年間、確かめずに済ませることもできた。確かめなければ、父を悪く思わずにいられる。そのやり方を、この家では長く使ってきた。
「分かりました」
「怒っているか」
「怒っています」
即答した。
「ただ、お父様が間違ったとは思いません。あの時、公爵家が争えば、私はもっと大きなものを背負うことになりました。判断としては正しいと思います」
「では」
「正しいことと、私が怒らないことは別です」
父が目を上げた。
「それは、誰の言い方だ」
セレナは一瞬、返事に迷った。
「……北で覚えました」
婚約の話に戻ったのは、その後だった。
「復縁は、お受けしません」
セレナははっきり言った。
「理由を聞かせてくれ」
「一つは、私が辺境伯領と契約しているからです。任期は三か月で、その後は戻ります」
「契約なら解除できる」
「解除しません」
「二つ目は」
セレナは少し考えた。
言い方は、いくつもある。父を納得させるだけなら、契約の話で十分だった。
それでも、口に出したのは別のことだった。
「私は、殿下に必要とされたくありません」
父の眉が寄る。
「必要とされることは、悪いことではない」
「悪くありません。ただ、殿下が私を必要とされるのは、私が結界を直せるからです。それは十年前も同じでした。変わったのは、それが役に立つと分かったことだけです」
「十分ではないか」
「十分です。仕事としては」
セレナは鞄の紐へ手を置いた。
「私は今、王宮結界局の技術監理官です。三か月、そのために働きます。殿下が私の技術を必要とされるなら、その形で足ります。婚約は要りません」
父は長く黙っていた。
「……お前は変わったな」
「そうでしょうか」
「半年前なら、家のためだと言えば頷いていた」
「頷いていたと思います」
セレナは認めた。
「今は頷きません。頷かない理由を、自分で説明できるようになりました」
*
公爵邸を出たのは、日が落ちてからだった。
門の外の馬車には、カイルが乗っていた。同席は断られたので、外で待っていたことになる。
「終わったか」
「終わりました」
「どうだった」
セレナは座席へ座り、しばらく考えた。
「怒りました」
「そうか」
「初めてです。父に対して」
「なぜ今日だ」
「順番が違うと思ったので」
カイルは何も聞き返さなかった。
馬車が動き出す。公爵邸の門が後ろへ流れていく。半年前、この門から出た時は、二度と戻らないと思っていた。実際には三か月で戻ってきて、客として応接室に座り、父と一時間話した。
それだけのことだった。
「一つ、伺ってもいいですか」
「言え」
「なぜ、同席を断られたんですか」
カイルは窓の外を見たまま答えた。
「俺が横にいたら、君の父親は俺に話す」
セレナは膝の上の鞄を見た。
その通りだったと思う。父は、娘より辺境伯の方が話が早いと判断しただろう。婚約の話も、直接こちらへは来なかったかもしれない。
「明日は殿下との会談です」
「聞いてる」
「そちらは同席されますか」
「する」
「では」
「同席はする。口は出さない」
カイルは窓から視線を外し、こちらを見た。
「言い方を変える。俺が口を出したくなる場面が、明日は来ると思う」
「来るでしょうね」
「その時に出さないために、隣にいる」
セレナは少し笑った。
「難しいことをされますね」
「知ってる」
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