第37話 行ってこい
三日経っても、返事は決まらなかった。
ラングレー子爵は急かさなかった。五日は待つと最初に言い、実際に何も言ってこない。城下の宿へ移り、二度ほど旧兵舎を見学したという話だけがローデリックから届いた。
見学の二度目には帳面を持ってきて、講習の進め方を書き写していったという。王都の書記官が村の老人の授業を写している図は、少し想像しにくかった。
四日目の午後、セレナはカイルの部屋へ行った。
包帯は薄くなっている。まだ寝台の上だが、上半身は自分で起こせるようになっていた。医師の許可が出るのは、あと十日ほど先である。
「決まったか」
「決まりません」
「そうか」
それだけ言って、カイルは机の上の書類へ視線を戻した。ローデリックが持ってきた領内の報告らしい。読まない代わりに、要点を書き出したものだった。
セレナは椅子へ座った。
「カイル様」
「何だ」
「行けと言ってください」
カイルの手が止まった。
「なぜ」
「決められないからです」
「そうか」
「言っていただければ、決まります」
言ってから、セレナは自分の言葉を聞いた。
これまで何度も使ってきた形だった。誰かが決めれば、自分はそれに従う。従うだけなら、迷わなくて済む。
カイルは書類を置いた。読みかけの頁へ指を挟んだまま、こちらを見る。
「言わない」
「なぜです」
「言えば、君が決めたことにならない」
「では、行くなと言ってください」
「それも言わない」
「どちらでもいいんです。どちらか言ってくだされば」
自分の声が、少し高くなっていた。
カイルは黙ってこちらを見ている。怒っている顔ではない。かといって、困っている顔でもなかった。ただ、こちらが言い終わるのを待っている。城壁でも、謁見の間でも、同じ待ち方をされた覚えがある。
「君は前に、王家の所有物じゃないと言った」
「言いました」
「あれは、俺の所有物でもないという意味だ」
セレナは何も言えなかった。
「三か月行くかどうかを、俺が決めたら、君は俺の判断で動くことになる。王都の命令で動くのと、どこが違う」
「違います」
「どこが」
答えられなかった。
命令する側が変わるだけである。従う側は同じだった。王都の書状か、辺境伯の一言か。差があるとすれば、こちらが従いたい方を選べるという点だけで、それは選んだことにならない。
「……ずるいです」
「よく言われる」
「初めて言いました」
「雪山でも言ってた」
覚えられていた。
セレナは膝の上で手を組み、しばらく黙った。
「怖いんです」
やがて、そう言った。言ってから、これも半年前には出てこなかった言葉だと気づく。
「何が」
「行くと決めて、それが間違いだった時に、自分のせいになります」
「なるな」
「はい」
「今までは」
「必要とされたから、と言えました」
セレナは自分の指を見た。灰色の手袋は外してある。
「呼ばれたから行った。頼まれたから直した。誰かが決めたことに従っただけです。だから、失敗しても、それは私が選んだ結果ではありませんでした」
「便利だな」
「便利でした」
正直に答えた。便利だと認めてしまうと、十年ぶんがまとめて軽くなる気もしたが、軽くなった方が正しいのだろう。
「十年間、一度も自分のせいになりませんでした。その代わり、一度も自分の手柄にもなりませんでしたが」
カイルは何も言わない。
しばらくして、短く言った。
「じゃあ、今回は自分のせいにしろ」
「……はい」
「それだけだ」
カイルは書類へ視線を戻した。話は終わった、という合図である。
部屋を出てから、セレナは廊下でしばらく立っていた。突き放されたようにも聞こえるが、そうではない。決めていいと言われている。決めた結果を引き受けろ、というのは、決める権利があるという意味だった。
*
その夜、セレナは旧兵舎へ行った。
講習のない日である。誰もいない部屋に、机が六つと椅子が十一並んでいた。窓から入る夜気が、床の新しい板の匂いを運んでくる。
壁には結界石の断面図、その横にハインツが描いた石の底の絵。字は歪んでいるが、線は正確だった。三か月前、この部屋には埃と隙間風しかなかった。
後ろの二つの椅子は、規則通り帳面を置かない席である。
セレナは教壇の前に立ち、部屋を見た。
三か月なら、この部屋は続く。週二回のうち一回は自分の担当だが、それはハインツへ渡せる。教材の写しはある。予算は付いた。測定器は各村へ貸与済みで、来月にはもう二つ届く。
止まらない。
確かめてから、セレナは少し笑った。
自分がいなくても続く形にしたのは、自分である。作った当人が、今それを理由にして出ていこうとしている。都合がよすぎる気もするが、都合がよくなるように作ったのだから、当然でもあった。
窓の外で、足音がした。
「まだ起きてるのか」
振り返ると、カイルが立っていた。外套を羽織り、右手で戸口の枠を掴んでいる。
「歩いて来たんですか」
「歩いた」
「医師が」
「知ってる」
言い返しても仕方がないので、セレナは椅子を一つ引いた。カイルは座らずに、机へ手をついた。
「決まったか」
「決まりました」
自分でも、口に出すまで気づかなかった。
「行きます」
「そうか」
「三か月だけです。技術を渡しに行きます。局の若手に手順を移して、迂回線の申請を通します」
「戻るのか」
「戻ります」
カイルは頷いた。それ以上、何も聞かない。行くと言えば行かせ、戻ると言えば戻るものとして扱う。確かめ直さないことが、この人の信じ方だった。
セレナは続けた。
「必要とされているから行くのではありません」
「違うのか」
「必要とされているのは、事実です。でも、それだけなら行きません。断る練習は、もう二回しました」
カイルが少し笑った。
「じゃあ何だ」
「北市場の果物屋の方が、板を三度打ち直しています」
セレナは机の木目へ指を置いた。
「私はその方を知りません。名前も、顔も。ただ、報告書の『物損軽微』の四文字が、あの棚のことだと知っています。知っている人間が王都で他にいません」
「今はいるだろ。エドガーとかいう若いのが」
「います。でも、彼には権限がありません」
セレナは顔を上げた。
「今度は、私に権限が付いています。四年通らなかった申請が三か月で通ります。それをやれるのは、今のところ私だけです」
言いながら、セレナは自分の言い方を確かめた。四日前なら、ここで止まっていた。必要とされている、で終わっていた。
「必要とされてるって話じゃないのか」
「違います」
セレナは首を振った。
「必要とされているのは、私の技術です。行きたいのは、私です」
その二つを分けて言うのに、四日かかった。分けてしまえば、答えは一行で済む話だった。
カイルは、しばらく何も言わなかった。
やがて机から手を離し、部屋の後ろの二つの椅子を見た。
「あれは」
「十二歳未満の聴講席です」
「増やすのか」
「増やしません。二つで足ります。増やすなら、ハインツさんが決めます」
「そうか」
カイルは戸口の方へ歩き、そこで止まった。
「一つ聞く」
「はい」
「帰ってくるか」
声の調子は、いつもと変わらなかった。
仕事の予定を確かめる時と同じである。何人要る、期間は、いつ戻る。この半年で何十回も交わした形だった。
セレナは、その形で聞かれたことに気づいた。
この人は、そう聞くしかない。引き留めないと決めた以上、それ以上の言い方はできない。
「帰ってきます」
答えた。
「三か月後にです。延長はしません」
「分かった」
「もし向こうが延ばせと言ったら、断ります」
「聞いた」
「本当に断ります」
「二回言った」
セレナは口を閉じ、それから続けた。
「カイル様」
「何だ」
「帰る、と言いました」
「言ったな」
「今、初めて言いました」
カイルが振り返る。
「王都から北へ来た時、私はここへ『向かった』と言いました。城で契約した時も、『残る』と言いました。返書にも『この地におります』と書きました」
セレナは机の上の指を、一度だけ動かした。
「帰る、とは書いていません。今まで一度も」
部屋が静かになった。
窓の外で風が鳴り、壁に留めた紙が一枚めくれる。ハインツの描いた石の底の絵だった。留め直そうとして、セレナは手を止めた。今それをすると、話が終わってしまう。
「そうか」
カイルはそれだけ言った。
それ以上、何も言わなかった。言えば、たぶんセレナの言葉ではなくなる。この半年で何度も見てきた黙り方だった。
ただ、戸口の枠を掴んでいた手が、一度だけ強くなった。
*
翌朝、東の村から知らせが来た。
結界石の一つが、夜のうちに傾いたという。雨で根元の土が流れたらしい。
セレナは報告を聞いた瞬間、外套へ手を伸ばしていた。
「お嬢様」
リナが先に言う。
「まだ何も言っていません」
「顔で分かります」
最近、それを言う人間が二人に増えた。
セレナは外套から手を離し、代わりに講習の名簿を開いた。東の村の保守担当は、二回目から欠かさず来ている男である。石工の一人も、その村の出身だった。
「知らせは、誰に届いていますか」
「城と、隣村の担当へ同時に出したそうです」
同時に。順番ではなく。
それは、講習の三回目で教えたことだった。城へだけ知らせると、術者が着くまで誰も動けない。隣村へも同時に出せば、近い方が先に見に行ける。
「では、待ちます」
言ってから、自分の言葉を確かめた。半日前なら、待つと言いながら支度をしていたと思う。
昼過ぎに、二度目の知らせが来た。
東の村の担当と隣村の担当が現地で合流し、傾きを測った。石は割れていない。据わりが悪いだけで、雨の後なので今日は掘らない。三日晴れてから据え直す。それまでは村の巡回を二倍にする。
報告書は歪んだ字で書かれていた。項目は四つ。日付、状態、判断、次の予定。
セレナは二度読み、それから記録帳へ写した。
自分が行けば、今日のうちに据え直せた。三日待つ必要はなかった。
ただ、雨の後に掘るなというのは、自分が教えたことではない。ハインツが授業で足したものである。
「これでいいですね」
誰へ言うでもなく、そう言った。
リナが名簿を閉じながら答えた。
「よろしいのでは。三日で直るなら、三日で直ります」
その翌朝、セレナは返書を書いた。
『技術監理官の職を、任期三か月の条件で受諾いたします』
条件は三つ付けた。
一つ、任期は延長しない。二つ、ヴァレンシュタイン辺境伯領との契約は継続とし、王都滞在中も同領の顧問職を保持する。三つ、三か月の間に局内で手順を引き継ぐ相手を指定し、その者の名を最終報告書へ記載する。
三つ目を書いてから、セレナは少し考えた。
自分がいなくても回る形にする、というのは、辺境で覚えたやり方である。それを王都へ持っていくことになる。半年前は逆だった。王都のやり方を辺境へ持ち込むつもりで来て、道具の数が足りないことすら知らなかった。
封をして、ラングレー子爵へ渡した。
子爵は三つの条件を読み、二つ目のところで指を止めた。
「辺境伯領の顧問を兼ねたまま、と」
「はい」
「王宮の職と、一領主の職を兼ねる例は少のうございます」
「前例がなければ、作っていただけますか」
ラングレーはしばらく黙り、それから書類挟みへ封書を入れた。
「……作ります」
「よろしいのですか」
「令嬢。この三通を持ってくるまでに、王都では四十日かかりました」
子爵は書類挟みの角を揃えた。
「四十日のうち三十日は、あなたを呼び戻す方法を探すのに使いました。残り十日で、呼び戻すのをやめる方法を探しました」
「どういう意味です」
「戻らない人間に、どうすれば手伝ってもらえるか、という話です」
セレナは書類挟みを見た。三十日と十日。どちらも同じ人数が、同じ部屋で使った時間である。後の十日を使うと決めた誰かが、王都のどこかにいる。
ラングレーは荷を騎士へ渡した。
「三か月で戻られるなら、それは呼び戻したことにはなりません。手伝っていただいた、ということになります。財務府へは、そう説明します」
出立は五日後と決まった。
その五日で、セレナは引き継ぎの一覧を作った。九箇所の古代基点、各村の保守担当、講習の日程、測定器の貸与記録、それにイルゼとの共同調査の進行状況。全部で二十二項目になる。
ノルトハイムへは別に手紙を書いた。三か月不在にすること、共同調査は継続すること、こちらの窓口は辺境伯が直接務めること。イルゼからの返事は間に合わないだろうが、書いておかなければ、五日後に消えたことになる。
最後の頁に、担当者の名前を書き込む。
ローデリック。ハインツ。石工の二人。若い術者。それから、ノルトハイム側との連絡はカイルが直接行う。
空欄はなかった。二十二項目のどれにも、名前が入っている。
ただ、一つだけ書き足す必要があった。
カイルが同行する。
決めたのはローデリックである。ヴィンター商会の件で、辺境伯領は被害を受けた側の当事者だった。北の砦の切断も、雪谷の宿舎も、証言できるのは現地を見た人間しかいない。ノルトハイムとの共同調査についても、王都側は書面でしか把握していない。
「傷はどうするんです」
セレナが尋ねると、当人が答えた。
「馬車なら乗れる」
「医師が」
「同行する。三人つく」
「三人」
「ローデリックが決めた」
その言い方からして、本人の希望ではないらしかった。ローデリックは名簿の余白へ、医師と護衛の人数を書き込みながら言った。
「閣下が単騎で先に着かれるより、こちらの方が安うつきます」
「そういう理由ですか」
「それも理由の一つですな」
セレナはその一覧を閉じ、机の端へ置いた。
半年前、王都を出る時には、こういう紙を作らなかった。作れなかった。誰に何を渡せばいいのか、自分でも分かっていなかったからである。
だから局の人たちは、今も自分の私的な覚書を読んでいる。
同じことを繰り返さないために、この二十二項目がある。
窓の外では、旧兵舎の方角に明かりがついていた。今夜はハインツの担当日だった。
*
出立の朝は、風がなかった。
城門の前に馬車が二台。一台は荷、もう一台にセレナとカイルと医師が乗る。護衛の騎士が六人、それにラングレー子爵の一行が先導につく。
見送りに出たのは、思っていたより多かった。ローデリック、リナ、石工、講習の生徒が何人か。ハインツは来ていない。今日は東の村で石を据え直す日だった。
馬車へ乗る前、セレナは旧兵舎の方角をもう一度見た。
「三日晴れましたね」
「晴れました」
リナが答える。
「据わったでしょうか」
「据わっていなければ、また知らせが来ます」
「そうですね」
それだけ確かめて、セレナは馬車へ手をかけた。
カイルは先に乗っている。左脇腹を庇う姿勢のまま、窓の外を見ていた。
「三か月だ」
「はい」
「長いな」
「一緒に行くのに、ですか」
「向こうにいる間の話だ」
セレナは座席へ座り、膝の上で鞄を抱えた。
中身は決まっている。衣類、灰色の手袋、測定石、王都へ渡す工程表、イルゼとの共同調査記録の写し。それに、白竜の鱗が一枚。
鞄の隅には、河原の石が二つ入っていた。出発の前日、ミナが押しつけてきたものである。詰まっている方と、詰まっていない方。持っていけば向こうでも音が分かる、というのが本人の理屈だった。
馬車が動き出す。
城門をくぐり、街道へ出た。半年前、この道を北へ上ってきた。今日は南へ下る。
「カイル様」
「何だ」
「一つだけ、言い忘れました」
「言え」
セレナは窓の外を見たまま答えた。
「三か月後、私はここへ帰ります」
昨夜も言ったことである。二度言う必要はなかった。
それでも、城門が見えなくなる前に、もう一度言っておきたかった。
カイルはしばらく黙っていた。
「じゃあ、行ってこい」
「一緒に行くんですが」
「今のは、そういう意味じゃない」
セレナは何か言い返そうとして、やめた。
馬車は街道の曲がりへ差しかかっている。振り返れば、まだ城の塔が見えた。
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




