第36話 帰還要請
王都からの書状が届いたのは、カイルが寝台から起き上がれるようになった六日目だった。
運んできたのはラングレー子爵本人である。前回のような二台の馬車ではなく、荷は一台と護衛四人だけだった。街道の岩猪はもう出ないと分かっているのか、それとも急いだのか、どちらとも取れる編成である。
到着した時、彼はまず医務室の方角を尋ねた。
「閣下のご容態は」
「肋骨が二本と、脇腹の裂傷です。命に別状はありません」
セレナが答えると、子爵は短く息を吐いた。
「白竜だと聞きました。討伐記録に残っているのは百年以上前です」
「亜種でした。それでも大きかったです」
「王都では、竜が出たと聞いても、まず作り話を疑います」
ラングレーは荷から革の書類挟みを出した。前回より薄い。
「令嬢。本日は命令ではありません」
城門をくぐった時、彼は真っ先にそう言ったという。前回は「撤回を求めて参りました」と言った同じ人物である。同じ語を、今度は否定形で先に置いた。
前回は帰還命令を伝えに来て、街道で岩猪に足止めされ、報告書を書き直して帰った男である。あれから四十日ほどしか経っていない。
「拝見します」
「その前に、一つだけ申し上げます」
子爵は書類挟みを胸の前で持ったまま、姿勢を正した。
「前回、私はあなたへ王家の命令だと申し上げました。あの言い方は誤りでした」
セレナは相手を見た。
この人が謝罪する必要はない。使者は言われたことを伝えるのが務めである。それは前回、本人が言った通りだった。
「書状に、そう書いてあるのですか」
「書いてあります。ただ、今のは私の言葉です」
「では、受け取ります」
ラングレーは書類挟みを差し出した。渡す時に、一度だけ角度を直した。前回、綴りを受け取った時と同じ持ち方だった。
書状は三通あった。
一通目は王太子アルベルトの名で、二通目は王宮結界局長、三通目は財務府の副長官である。三つの印がそれぞれ押されていた。
三つの部署が同じ件で同じ日に印を押している。王都にいた頃、これを一度も見たことがなかった。申請はいつも一つの部署を通り、次の部署で止まる。三つ揃った書類が北まで届くには、それだけの調整があったということだった。
セレナは一通目から読んだ。
『先般の帰還命令について、貴殿の職務上の立場および過去の貢献に対する認識が不十分であったことを認め、これを撤回する』
三行目で手が止まった。
撤回、という語が使われている。前回、子爵が「撤回を求めて参りました」と言ったのと同じ語だった。今度は王都の側がそれを使っている。
『王宮結界局は、本年より組織再編を行う。ついては、貴殿へ以下の職務を提示する』
読み進める。
王宮結界局・技術監理官。期間は到着日から九十日。延長は本人の同意がなければ行わない。俸給は結界局長の八割。滞在費、移動費、補助員、必要資材。
権限の欄が、前回の特別顧問案より長かった。
「ラングレー子爵」
「はい」
「結界局内の記録を、所属部署に関係なく閲覧できるのですか」
「できます」
「危険と判断した工事を、一時停止する権限は」
「あります。最終承認を待つ必要はありません。ただし四十八時間以内に理由書を提出していただきます」
セレナは頁をめくった。
「人員配置は」
「局長との共同決裁です。ただし若手術者の担当割り振りについては、令嬢単独で仮配置まで可能です」
「予算」
「一定額までは令嬢の裁量です。それを超える場合も、評議会へ直接上げられます」
「王太子府を通さずに、ですか」
「通しません」
セレナは書状を膝へ置いた。
前回、この人が答えられなかったところが全部埋まっている。あの時の問いは一つだけだった。その職位に、工事の申請を通す権限がありますか。
「前回、私は職位を用意したことを条件だと思っておりました」
ラングレーが言った。
「令嬢が尋ねておられたのは、仕事をするための権限でした。今回は、そこを先に決めています」
謝罪の言葉ではない。ただ、何を間違えたかは分かっているらしかった。
「ローデリック様」
「はい」
「これは、通ると読んでよろしいですか」
ローデリックが三通を並べ直した。
「一時停止権と、評議会への直接提案権。この二つがあれば、通らない申請を通す必要すらありません。危ないものを止めて、必要なものを自分で出せます」
「四年通らなかったものが」
「三か月で通りますな。もっとも、そう作ったのは向こうです。こちらが交渉したわけではありません。つまり、それだけ困っておられる」
セレナは三通目を手に取った。
迂回線工事の予算枠が、番号付きで既に確保されている。金額まで書かれていた。四年前に自分が見積もった額より、二割ほど多い。物価が上がったぶんを、誰かが計算し直したらしかった。
*
その日の夕方、セレナはカイルの部屋へ書状を持っていった。
寝台の背を起こし、上半身だけを支えて座っている。左脇腹には厚く包帯が巻かれ、動かすと痛むらしく、右手だけで水を飲んでいた。
「読むぞ」
「はい」
カイルは三通を順に読み、時間をかけた。書類を読まない人だが、読むと決めた時は最後まで読む。読み終えてからも、しばらく紙を見ていた。
「破格だな」
「そう思います」
「三か月だけか」
「任期は三か月です。延長の条項はありません」
「向こうが延ばしたがった時は」
「その時に、また断ればいいです」
断り方は、この半年で二度練習している。書面で一度、面と向かって一度。三度目は前より短く済むだろう。
カイルは書状を膝へ置いた。
「行きたいか」
その聞き方だった。
前回と同じである。城壁の上で、王都へ行きたいかと聞かれた。あの時は答えられなかった。
「……分かりません」
「前もそう言った」
「今度は、意味が違います」
セレナは椅子を引いた。座ってから、少し考える。
「前は、行くべきかどうかで迷っていました。必要とされているなら行くべきだ、と思っていて、でも辺境の仕事も途中で、どちらが正しいか決められませんでした」
「今は」
「今は、必要とされているのは分かっています。この条件なら、行けば四年分の仕事が三か月で片づきます」
セレナは書状の三通目を指した。
「迂回線が通れば、王都北部の外周結界は安定します。市場に魔獣が入らなくなります。あの果物屋の方が、四度目の板を打たなくて済みます」
「じゃあ、何が分からない」
「行きたいかどうかが分かりません」
言葉にすると、それは思っていたより単純だった。単純なのに、四日経っても答えが出ていない。
「必要とされているかどうかは、書状に全部書いてあります。俸給も、権限も、期限も。読めば分かります」
「行きたいかは書いてないな」
「書いていません」
カイルは何も言わなかった。
セレナは膝の上で手を組んだ。
「私は、十年間それを考えたことがありませんでした」
自分の声が、思ったより低く聞こえる。
「必要とされていれば行く。呼ばれれば行く。行くべきだと思えば行く。そうやって決めてきました。行きたいかどうかを先に考えたことは、一度もありません」
「ここへ来た時は」
「あれは違います」
セレナは即答し、それから訂正した。
「……いえ、あれも違いません。あの時も、調査したいから来ました。行きたかったからではありません」
「同じじゃないのか」
「違います」
どう違うのか、説明できなかった。
調査したいというのは、仕事の話である。行きたいというのは、そうではない。境目がどこにあるのかは、自分でもまだ掴めていなかった。少なくとも、書状の三通には書いていない。
「一つ聞く」
カイルが言った。
「三か月で王都の結界が直ったとして、君はそのあとどうする」
「戻ります」
「即答だな」
「はい」
セレナは自分の返事に驚いた。
行きたいかどうかは分からないのに、戻るかどうかは即答している。
「……変ですね」
「変じゃない」
「変です。行くかどうかも決められないのに、帰る先だけ決まっています」
カイルは水の椀を置いた。
「順番が逆なだけだろ」
「逆」
「帰る場所が先に決まってて、どこへ出かけるかを後で決める。普通はそっちだ」
セレナは口を開き、何も言えずに閉じた。
帰る場所が先に決まっている、という言い方を、この人はごく普通の口調で使った。自分が半年かけて掴みかけているものを、たぶん最初から前提にして話している。
*
その夜、旧兵舎の窓に明かりがついていた。
週二回の講習は、セレナが雪山へ行っている間も続いていた。今夜はハインツが担当の日である。中を覗くと、十一人のうち九人が座っていた。後ろの椅子には、ミナと少年が並んでいる。
「入るか」
後ろから声がした。ローデリックだった。
「今日は聞くだけにします」
「同じことを、ハインツも言っておりましたな。あなたが来ると生徒が固くなるからと」
「そんなに固くなりますか」
「なります」
率直に言われた。
窓の外から見ていると、ハインツが黒板代わりの板へ何か描いている。石の底の話らしい。少年が手を挙げ、何か質問した。ハインツが答え、生徒が笑う。
中の声はここまで届かない。それでも、誰が誰に何を聞いているかは、動きだけで分かった。
自分がいなくても、あの部屋は回る。
三か月なら、なおさら回るだろう。二回のうち一回は自分の担当だが、その一回をハインツに任せれば済む。教材はもう写しがある。
「行った方がいい、ということですね」
自分へ向けた言葉だった。
「そうは申しておりません」
ローデリックが答える。
「私は数字の話しかできません。三か月であなたが抜けた場合の影響を試算しました。古代網の同時修復は止まります。九箇所の調査は続けられますが、決定は待つことになる」
「止まりますか」
「止まります。ただし、壊れるわけではありません」
ローデリックは帳面を閉じた。
「止まるのと壊れるのは違います。前者は待てばよい。後者は取り返せません」
セレナはその区別を、しばらく考えた。止まると壊れるを分けて数える。ローデリックはいつも、その手の線を先に引く。
王都の外周結界は、今のところ壊れる側にある。四年待った申請が、三か月で通る。待てば取り返せなくなるのは、あちらだった。
「もう一つだけ、私見を申し上げても」
「どうぞ」
「あなたは今、行かない理由を探しておられます」
セレナは顔を上げた。
「違います」
「そうですかな」
「私は、行きたいかどうかが分からないと言っています」
「はい。それは伺いました」
ローデリックは窓の中を見た。ハインツが石を叩き、生徒が音を聞いている。
「ただ、分からないと言い続ける間は、決めなくて済みます」
*
翌朝、セレナは自室の机に三通の書状を並べた。
その横へ、自分の記録帳を置く。北部の古代基点九箇所の一覧、修復の順序案、必要な人員と期間の見積もり。三か月抜ければ、この表の日付は全部後ろへずれる。
紙を一枚出し、二列に線を引いた。
左に王都、右に辺境。
書き始めて、すぐに手が止まった。
左の列は書ける。迂回線が通る。北部の外周結界が安定する。市街地の被害が減る。局の若手が権限を持つ。四年分が三か月で片づく。
右の列も書ける。同時修復が進む。教室が続く。九箇所の記録が揃う。
どちらも正しい。どちらも、必要かどうかの話だった。
セレナは筆を置いた。
二つの列を比べるやり方で、十年間ずっと決めてきた。数えて、多い方を選ぶ。橋の上でも、雪山でも、同じことをした。
その数え方では、今回は答えが出ない。
紙をもう一枚出す。今度は線を引かず、一行だけ書いた。
『三か月後、私はどこにいたいか』
その問いには、昨日カイルへ即答している。
答えは出ていた。出ていたのに、行くかどうかが決まらない。
筆を持ったまま、セレナは長く座っていた。
やがて、書状の一通目をもう一度読み返した。撤回、認識が不十分であった、貢献に対する認識。並んでいるのは全部、こちらを評価し直す言葉である。
十年前に欲しかったものだった。
欲しかった時には来なくて、要らなくなってから届いた。
そう思ってから、セレナは自分の考えを訂正した。
要らなくなったわけではない。あの果物屋の板は、今も四度目を待っている。書状に書かれた権限があれば、それを止められる。
必要なのは、確かだった。
ただ、必要だから行く、という理由だけで動くのを、この半年でやめたはずだった。やめると決めて、返書を書いて、使者を二度断った。
同じ理由で今度は行くのなら、あれは何だったのか。
窓の外が明るくなっていく。城下の屋根がひとつずつ形を持ち始め、旧兵舎の輪郭も見えてきた。
答えは出なかった。ただ、問いの形だけは、はっきりした。
必要とされることと、帰りたいことは違う。
その二つを、初めて別々に置いた。
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