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第35話 もう一度、雪山へ

 白竜へもう一度挑むと決めたのは、負傷者を麓へ下ろした翌日の夕方だった。決めた、といっても、最初に言い出したのはカイルではない。


「西側の古い石を使います」


 山小屋の机へ地図を広げ、セレナが言った。午前中、ガルトと石工二人に調べてもらった結果、雪の下から古い基点が六つ見つかっている。三つは割れていたが、残り三つにはまだ魔力溝が残っていた。


「全部直すのか」


「直しません」


 カイルが顔を上げる。


「今の私たちに、二百年前の設備を完全に戻す時間はありません。それに、戻した結果が分かりません」


「じゃあ何に使う」


「杭の代わりです」


 セレナは地図へ三本の線を引いた。


「昨日、私の膜はあれに食べられました。持たなかったのは膜そのものより、手で打った銀杭が供給に追いつかなかったからです。吸われる速さに、こちらの補充が負けました」


 ローデリックが顔を上げる。


「では、張るだけ相手を強くするのでは」


「そうです。だから杭を使いません」


 セレナは地図の三点を指した。


「古い基点なら、二百年ぶんの魔力が入っています。食べられても、しばらくは減りません。あれが吸っている間、こちらは膜を維持できます」


 ローデリックが図を覗き込む。


「囲うのですかな」


「三方向だけです。完全に閉じると、竜が暴れた時にこちらも逃げられません」


 西側の古代線を背にし、北と南へ斜めの膜を伸ばす。上にも一枚。白竜が飛び上がろうとすれば、膜に沿って東側へ流される。


「東を開けておく?」


「はい。そこから入れて、入った後に狭めます」


「入れるのは誰だ」


 聞かれることは分かっていた。セレナは地図の中央へ指を置く。


「白竜は昨日、カイル様を最も長く追いました」


「だろうな」


「左前脚を傷つけた相手を覚えています。もう一度姿を見せれば、追う可能性が高いです」


「俺が囮か」


「はい」


 カイルは即答した。


「分かった」


「まだ条件があります」


「言え」


「中へ入りすぎないでください。三つ目の石を越えたら反転して、東へ戻る。竜が中央へ入った時点で北と南を閉じます」


「それだと俺も中だ」


「東は開けます」


「竜も出る」


「出ようとすれば、騎士が翼の付け根を狙います。ただし追わない。目的は一度地面へ落とすことです」


 昨日は竜を倒すために剣を当てようとした。今回は先に飛べなくする。そして、膜は守るためではなく、食べさせて足止めするために張る。


「白竜は翼だけで飛んでいるわけではありません。翼を打つ直前、周囲の魔力が上へ引かれています。結界面を上へ置けば、その流れが崩れます」


「落ちる?」


「飛びにくくなります。落とせるとは言いません」


「十分だ」


 カイルは地図を回した。


「騎士はどこだ」


「北に六、南に六。東に八。基点ごとに術者と測定役を二人ずつ。私は中央ではなく、南東の岩場に立ちます」


 カイルの指が止まった。


「中央じゃない?」


「三つの測定値は旗で送ってもらいます」


「一拍の差は」


「今回は読みません。三か所とも担当を決めています。旗の数字で十分です」


 言ってから、少しだけ言い過ぎた気がした。カイルは何もからかわなかった。


「それでいい」


 ローデリックが人数表へ線を引く。


「昨日の負傷者五名は麓へ下ろしました。骨折二、凍傷二、打撲一ですな。動ける者だけで二十七。砦から増援が八名、今夜着く予定です」


「三十五で足ります」


「足りる?」


 カイルが聞く。


「足りるように組みます」


 今度は、彼が少し笑った。


     *


 翌朝、古い基点を掘り出した。雪の下から現れた石は、人の腰ほどの高さしかない。表面は削れ、紋様も半分消えている。それでも銀線を当てると、内部で鈍い光が返った。


「生きてるな」


 ガルトが言う。


「眠っているだけです」


「石も寝るのか」


「言い方の問題です」


「じゃあ起こすな。寝起きは機嫌悪いぞ」


 セレナは返事をせず、一本目の基点へ新しい銀線を巻いた。完全な修復はしない。古い溝へ直接魔力を流さず、外側に固定環だけを作る。古代基点を巨大な杭として借りるだけだ。


 北側ではハインツの教室へ通っている若い術者が、測定石を据えていた。セレナが近づくと、彼は先に言う。


「触ってません。数値だけ取りました」


「聞いていませんよ」


「言われると思ったので」


「正しいです」


 石工が笑う。


 昼前までに三基の準備が終わった。試験で薄い膜を張る。普段なら十歩ほどで魔力が散る出力でも、基点へ固定すると五十歩先まで面が伸びた。厚みはない。ただ、昨日の風圧を上へ逃がすには十分だった。


「持続は」


 カイルが尋ねる。


「最大出力で一分。三基ぶんの魔力を食べ尽くされるまでの時間です。冷気を受ければ半分以下になります」


「一分で殺せってことか」


「一分で飛べなくしてください」


「そっちの方が難しい」


「では四十秒で」


「短くするな」


 セレナは測定板へ目を戻した。冗談を言っている場合ではない。それでも昨日より騎士たちの動きは軽かった。失敗した理由が分かり、次に何をするかが全員へ渡っているからだろう。


 午後、白竜の姿が尾根に現れた。昨日傷つけた左前脚を庇っている。血は止まっていたが、雪へつく足跡の幅が左右で違った。


「来ます」


 全員が配置につく。セレナは南東の岩場へ上がった。ここからなら三つの旗と、罠の中央が見える。カイルだけが雪原へ出る。


「カイル様」


 呼ぶと振り向いた。


「三つ目までです」


「聞いた」


「越えないでください」


「聞いた」


「本当に」


「セレナ」


 止められる。


「何ですか」


「君も岩から出るな」


「出ません」


「本当に?」


 言い返せなかった。


「……出ません」


「じゃあ俺も越えない」


 それで話は終わった。カイルが雪原を進む。白竜が頭を上げた。一度、翼を広げる。昨日より慎重だった。すぐには降りてこない。上空を一周し、騎士の配置を探している。


 カイルは隠れなかった。剣を抜き、雪へ先端を当てる。白竜が鳴いた。左前脚の傷をつけた剣を覚えていたのかもしれない。急降下した。


「まだ!」


 セレナは旗を上げない。カイルが横へ跳ぶ。爪が雪面を抉り、白い粉が上がった。竜は着地した。カイルが一つ目の石を越える。白竜が追う。二つ目。


 三つ目の手前でカイルが振り返り、剣を一度当てた。傷には届かなかったが、竜の頭がそちらへ向く。


「今!」


 旗を上げる。北と南の基点が光った。二枚の膜が雪原を斜めに切る。白竜が驚いて翼を広げた。


「上!」


 三つ目が動く。頭上へ薄い面が張られた。竜が羽ばたく。体は浮いた。だが、二度目の羽ばたきで傾いた。翼の周囲へ集まる魔力が、上の膜へぶつかって横へ逃げている。


「効いてます!」


 測定役が叫ぶ。


「東班、前へ!」


 騎士八人が盾を並べる。


 白竜は東へ走った。飛べないと分かると、地面を蹴って開いた出口へ向かう。騎士たちは正面で止めない。左右から槍を入れ、傷ついた左脚へ重ねる。一本が鱗の隙間へ刺さった。白竜が体を振る。


 槍を持っていた騎士が手を放し、転がった。カイルが入る。剣が翼の付け根を深く切った。血が雪へ落ちる。


「四十秒!」


 北側の術者が叫んだ。上の膜が白く抜け始めている。食べられているのだ。竜が首を反らした。


「冷気!」


 セレナは南側の膜だけを切った。竜の冷気が空いた方向へ抜ける。南班はあらかじめ岩陰へ下がっている。北側の膜は残す。


「南、張り直し!」


「はい!」


 若い術者が基点へ魔力を通す。セレナは手を出さない。数値を見る。少し遅い。


「一段だけ上げて!」


 返事が飛ぶ。膜が戻った。白竜が中央へ押し戻される。カイルは竜の左側にいた。


「二十秒!」


 上の膜に亀裂が入る。


「翼を!」


 騎士たちが槍を投げる。三本のうち一本が右の翼膜を貫いた。白竜が暴れた。尾が雪原を薙ぐ。騎士が二人飛ばされる。


「下がって!」


 セレナが叫ぶ。白竜は今までと違う動きをした。カイルではなく、北側の基点へ向かった。膜を作っている場所を覚えた。


「北班、離れて!」


 術者と測定役が走る。だが、基点の銀線を切る作業が遅れた。線を残したまま逃げれば、竜が石ごと引き抜いた時に魔力が逆流する。若い術者が固定環へ手を伸ばしている。


「切らなくていい! 離れて!」


 声が届く。術者が顔を上げた。白竜が迫る。その間へ、カイルが入った。


「カイル様!」


 彼は竜の頭へ正面から剣を振った。白竜が首を逸らす。爪が横から来る。カイルは一歩だけ遅れた。鎧の脇を爪が裂いた。


 赤いものが雪へ散った。


「――カイル様!」


 自分の声が出た。カイルは倒れなかった。二歩よろめき、それでも竜の前へ残る。


「北班、下がれ!」


 術者たちがようやく離れた。白竜の注意はカイルへ戻っている。


 彼はわざと剣を上げた。


「こっちだ」


 竜が突っ込む。


「やめて!」


 セレナは岩場を降りかけた。足元の測定板が目に入る。


 上の膜、残り九秒。


 ここを離れれば、南北の出力を合わせる者がいなくなる。


 九秒。


 カイルはまだ立っている。


「東班、右へ三歩! 南、一段下げて!」


 声が震えた。それでも指示は通った。


 白竜がカイルへ噛みつこうと首を下げる。


 その瞬間、北側から騎士の槍が傷ついた左前脚へ入った。脚が崩れる。


 竜の胸が雪へ落ちた。


「カイル様、今です!」


 返事はない。それでも動いた。カイルが踏み込む。最初の日から狙っていた、首の付け根。厚い鱗が重ならない一線へ剣が入った。深く。白竜の体が跳ねる。


 カイルごと持ち上げるように首を振った。


 剣が抜けない。


「離して!」


 カイルが手を放した。


 次の瞬間、白竜の体が横へ倒れた。雪が大きく舞う。上の膜が砕けた。青い光が空へ散った。


 誰も動かなかった。


 白竜の尾が一度だけ雪を叩き、それきり止まった。


「終わった……?」


 誰かが言う。


 セレナは測定板を見ていなかった。


「カイル様!」


 岩場を駆け下りた。


     *


 雪の上に血が広がっていた。白竜のものではない。色が違う。カイルは竜から十歩ほど離れた場所に膝をついていた。右手で脇腹を押さえている。鎧の継ぎ目が裂け、その下から血が流れていた。


「座らないで、横になってください」


「立てる」


「立たなくていいです!」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。


 医師が走ってくる。


「閣下、手をどけて!」


 カイルが手を離す。


 傷は脇腹から背へ斜めに走っていた。爪が鎧の隙間へ入り、肉を深く裂いている。


「圧迫します。布!」


 セレナは自分の外套を外した。


「これは駄目、清潔な布を!」


 医師に止められる。


「すみません」


「アシュフォード様、こちらを押さえてください。ここです。強く」


 渡された布を傷へ当てる。


 血がすぐに染みた。


 手が震える。


「もっと強く!」


「はい」


 力を入れる。


 カイルが息を吐いた。


「痛いですか」


「痛い」


「なら喋らないでください」


「聞いたのは君だ」


「今は答えなくていいです」


 医師が傷を確認し、騎士へ橇を持ってこさせる。


「内臓まで届いているかもしれません。ここでは縫えません。山小屋へ戻します」


「死にますか」


 質問が先に出た。医師がセレナを見る。


「今すぐは。出血を止められれば大丈夫です」


「今すぐではなく」


「アシュフォード様」


「死にますか」


「分かりません」


 その答えで、頭の中が一度白くなった。分からない。いつも自分が使う言葉だった。情報が足りない時には、それ以外を言ってはいけない。


 今日は、その正しさがひどく腹立たしかった。


「セレナ」


 カイルの声がする。


「喋らないでください」


「竜は」


「死にました」


「全員は」


「今はあなたの話をしています!」


 カイルが黙った。


 医師と騎士が橇へ移す。セレナは傷口を押さえたまま横を歩いた。


 山小屋までの道が、昨日より長く感じた。


     *


 処置は二刻かかった。


 爪は肋骨を一本折り、脇腹を深く裂いていたが、内臓には届いていなかった。医師がそう言った時、セレナは椅子へ座った。


 立っていられなくなったのだと、その時初めて分かった。


「命に別状はありません」


 もう一度言われる。


「本当に?」


「はい。熱が出なければ」


「出たら」


「すぐ呼びます」


 セレナは頷いた。


 手袋の掌が血で濡れている。カイルにもらった灰色の手袋だった。銀糸の部分まで赤く染まっていた。


 洗おうとして立ち上がる。


「セレナ」


 寝台から呼ばれた。


 カイルは目を開けていた。


「起きていたんですか」


「途中から」


「寝てください」


「怒ってる?」


 セレナは手袋を外した。


「怒っています」


「何に」


「あなたにです」


「俺?」


「なぜ、あんなことをしたんです」


 カイルは少し考える顔をした。


「北班が逃げ切れてなかった」


「見えていました」


「俺が前に出るのが一番被害が少なかった」


 セレナは動けなくなった。あまりにも聞き覚えのある理屈だった。


「……それを、あなたは私に言わせなかったでしょう」


「何?」


「百人を守るためなら私一人でいい、と言った時。あなたは怒った」


 橋の濁流。命綱。自分一人なら合理的だと言った時の顔を覚えている。


「同じです」


 カイルが黙った。


「北班の三人と、あなた一人なら、あなた一人が傷つく方が被害が少ない。そういう計算でしょう」


「そうだ」


「同じです」


「……そうだな」


 認められたことで、余計に腹が立った。


「そうだな、ではありません」


「じゃあ何て言えばいい」


「知りません」


 声が震えた。


「でも、二度としないでください」


「それは約束できない」


「カイル様」


「君も約束できないだろ」


 言い返せなかった。


 誰かが危険な場所にいて、自分が動けば助けられるなら、次も動く。今日のカイルと同じように。


「……では」


 セレナは椅子へ座り直した。


「一人で決めないでください」


 カイルがこちらを見る。


「囮になるなら、先に言ってください。私が止めるかもしれません。それでも必要なら、他の方法がないか一緒に決めます」


「セレナも?」


「私もです」


「自分が飛び込む時も?」


「……はい」


「間が長い」


「今、努力しています」


「努力じゃない」


 いつもの言葉だった。


 セレナは怒っているのに、少しだけ笑いそうになった。笑う代わりに、濡れた手袋を膝へ置く。


「怖かったです」


 口にしてから、自分で驚いた。旧料金所で「ここにいてください」と言った時にも、理由は言えなかった。


 今は言えた。


「あなたが死ぬと思いました」


 カイルは何も言わなかった。


「合理的だとか、被害が少ないとか、そういう話を聞きたくありませんでした。あなたが生きていればそれでいい、と……途中から、それしか考えられなかった」


 声にすると、答えが出た。結界師として必要だからではない。


 辺境伯が死ねば領地が困るからでもない。


 この人を失いたくない。それだけだった。セレナは膝の上の手を見た。自分なら一人分の損失として数えられるのに、カイルを同じ一人として数えることができない。


 理由は、もう仕事では説明できなかった。


 私は、この人を愛している。


 その言葉を口には出さなかった。今言えば、たぶんまた別の意味で困る。


「セレナ」


「はい」


「次は言う」


「何をですか」


「俺が前に出る時」


「必ずです」


「必ず」


 カイルは目を閉じた。


 すぐに眠ったわけではない。呼吸が落ち着くまでしばらくかかった。


 セレナは血のついた手袋を洗いに行かなかった。


 医師が薬を持って戻ってくるまで、寝台の横の椅子に座っていた。



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