第34話 白竜
雪山から人が下りてこなくなった、という知らせが入ったのは、セレナが肩の吊り布を外した三日後だった。
北の山の中腹に、夏でも雪が残る谷がある。そこには薬草を採る小屋が二つと、夏場だけ使う鉱山の宿舎が一つあった。今の時期なら十人ほどが入っているはずである。谷まで登るのに丸一日、下りるのに半日。四日空けば、誰かが必ず薬草を担いで下りてくる勘定だった。
「四日、誰も下りていません」
報告に来たのは麓の村長だった。
「天候は」
「悪くありません。むしろ晴れています」
カイルが地図を広げた。
「ガルトは」
「呼んでおります」
猟師の老人は、地図を見るなり顔をしかめた。
「三日前から、山の鳥が下りてきてる」
「森の時と同じですか」
セレナが尋ねる。
「あれは鳥が消えた。今度は逆だ。上から下りてくる」
ガルトは山の稜線を指で辿った。
「何かが上にいて、鳥がそこを避けてる」
*
雪谷へ着いたのは、翌日の昼だった。
騎士は二十四人。石工二人、医師一人、それにセレナとカイル。この人数を出すのは、灰狼の群れを想定してのことである。
薬草小屋の一つ目は無人だった。荷は残っており、乾かしかけの薬草が棚へ広げたままになっている。中の炉はまだ完全に冷えておらず、二日か三日前まで人がいた形跡があった。逃げたのではなく、出たまま戻っていないという散らかり方である。
二つ目の小屋で、生存者が三人見つかった。
「白いのが」
一人が繰り返した。まともに眠っていない顔だった。
「白いのが、上から。急に暗くなって、それで」
「大きさは」
「小屋くらいです。翼を入れれば、もっと」
セレナは記録帳を開いた。
「色は白だけですか」
「鱗が白くて、腹だけ薄い青でした。目も青い」
「音は」
「しません。羽ばたきの音がしないんです。それが一番怖かった」
その一言に、セレナは筆を止めた。
大型の翼で音がしないのは、体が軽いか、揚力を魔力で補っているかのどちらかである。前者ならあの大きさは無理だった。
「宿舎の方は」
「分かりません。逃げるので精一杯で」
カイルは既に外を見ていた。
「行くぞ」
鉱山の宿舎は、谷のさらに奥にあった。
斜面を削って建てられた石造りの平屋で、屋根の半分が落ちている。落ちたのではなく、外側から潰されていた。梁が内側へ折れ込み、割れた石板が寝台の上まで散っている。
人はいなかった。生きた人も、そうでない人も。
「連れていかれましたか」
ローデリックが言う。
「分かりません」
セレナは屋根の破断面へ手を当てた。石が割れたのではなく、押し潰されている。上から相当な重量がかかった痕だった。
そして、もう一つ気になるものがあった。
「宿舎の結界石が消えています」
台座だけが残っていた。石そのものが抜き取られている。魔獣が壊したなら破片が散るはずなのに、粉も残っていなかった。
「盗まれた?」
「違うと思います」
セレナは台座の周囲の雪を見た。
雪の上に、円形の融解跡がある。直径は人の背丈ほど。中心が浅く窪み、その周囲だけ雪が水になって再凍結していた。
「ここで、何かが魔力を吸っています」
その時、谷の上流で影が動いた。
最初は雲だと思った。
斜面の白と区別がつかない。動いていることに気づいたのは、稜線の影が横へずれたからだった。
「上!」
騎士の一人が叫ぶ。
それは、宿舎の屋根より大きかった。
翼を広げれば谷の幅の半分を覆う。鱗は雪と同じ白で、腹側だけが薄い青に光っていた。目も青い。首は長くなく、体に対して太い。
竜としては小型の部類なのだろう。ただ、生きた魔獣としては、辺境で書かれた誰の記録にもない大きさだった。
そして、生存者の言った通りだった。
音がしない。
「白竜の亜種か」
ガルトが低く言った。
「見たことがあるんですか」
「祖父の代の話だ。北の山にいたと」
「討伐記録は」
「ない。下りてこなかったからな」
白竜は宿舎の上を一度旋回し、それから斜面へ降りた。翼を畳むと、思ったより体が細く見える。
降りた場所は、結界石が抜かれた台座のすぐ横だった。
「陣を張ります」
セレナは即座に銀杭を出した。
「全員、後方へ。四十歩下がってください」
騎士が動く。石工が資材箱を引きずり、医師が生存者を谷の下手へ移す。
セレナは八本の杭を打ち、宿舎の前へ半円の防御陣を張った。灰狼の群れなら十分に止まる強度である。
竜を止められるとは思っていない。ただ、突進の初速を殺せれば、その間にカイルが位置を取れる。橋の時も、光蛾の時もそうだった。完全に止める必要はなく、速度と向きさえ変えられればいい。
膜が立ち上がった。
白竜が首を上げた。
こちらを見ている。正確には、膜を見ていた。
「妙です」
セレナが言うより先に、竜が動いた。
突進ではなかった。歩いてくる。首を低くし、膜へ向かって真っ直ぐに。
そして、膜へ鼻先を触れた。
「離れて!」
次の瞬間、膜の色が変わった。
青白かった面が、中心から白へ抜けていく。まるで水を吸い取られるように、色が薄くなった。
セレナの掌が熱くなった。杭を通して何かが返ってくる。押し返される力ではない。引かれていた。
結界へ流している魔力が、そのまま向こうへ抜けていく。栓を抜いた桶の底のような感触だった。
「吸われています!」
膜が消えた。八本の杭のうち、四本が黒く変色していた。
白竜が首を上げる。腹側の青が、明らかに濃くなっていた。
「餌にされた」
カイルが剣を抜いた。
最初の三十秒は、うまくいっていた。
カイルは正面へ出ず、左の斜面から回り込んだ。竜が首を振ると、その動きに合わせて位置を変える。騎士六人が右から圧力をかけ、注意を割らせた。
鱗は硬い。ただ、岩猪ほど剣を弾かなかった。
カイルが左の前脚へ一撃を入れる。刃が入った。血が雪へ落ちる。
「通ります!」
騎士が声を上げた。
そこで、竜が飛んだ。
助走がなかった。翼を一度だけ動かし、真上へ抜けている。音はしない。雪だけが円形に舞い上がった。
膜を二枚食べた分が、そのまま揚力へ回っているのだろう。
カイルが空を見上げた瞬間、竜が降りてきた。
落ちてくる、という方が近い。翼を畳み、体重をそのまま真下へ落とす。狙いは騎士たちの右翼だった。
「散れ!」
カイルの声で六人が割れた。四人は間に合った。二人は間に合わなかった。
衝撃で雪が吹き飛び、二人が飛ばされる。
白竜が首を上げ、こちらへ向けて口を開いた。
炎ではなかった。白い息が斜面を横切り、触れた雪が固まる。飛ばされた騎士の一人が肩を押さえて転がった。鎧の表面が一瞬で霜を吹いている。
「冷気です! 息の正面へ入らないで!」
セレナは走った。
「杭を四本!」
残っていた無事な杭を、飛ばされた二人の手前へ打ち込む。魔力を流す。膜が立ち上がった瞬間、竜がそちらへ首を向けた。
吸われる。
分かっていた。それでも、二秒あれば騎士が引きずり出せる。
膜が白へ抜けていく。吸われる速度が、さっきより明らかに速い。冷気を浴びた杭は、根元から凍って脆くなっていた。
その二秒で、別の騎士が二人を引きずった。
「下がれ!」
カイルの声が変わった。
白竜が再び翼を広げる。腹側の青は、さらに濃くなっていた。膜を二枚食べた分だけ、明らかに動きが速くなっている。
「アシュフォード、杭は」
「あと三本です! 張れば吸われます!」
「張るな」
カイルは即答した。
「撤退する。谷の下手まで下がれ」
騎士たちが一瞬止まった。
「閣下」
「聞こえただろ。下がれ」
*
撤退は、思ったより整然としていた。
白竜は谷の中ほどまで追ってきた。狙ったのはカイル一人で、他の誰にも向かわない。左の前脚を裂いた相手を覚えているらしかった。
それでも、宿舎から二百歩ほど下ったところで引き返した。抜き取られた結界石の台座と、その周囲の融解跡。あの場所から離れる気がないようだった。
追ってこないのは幸運だが、それは同時に、こちらから行かなければ終わらないという意味でもある。
谷の下手、岩陰に張った野営地で、負傷者の数が確認された。
骨折が二人。凍傷が二人。打撲が五人。合わせて負傷五名を麓へ下ろすことになった。死者はいない。
「よく持ちましたな」
ローデリックが言う。
誰も答えなかった。
カイルは岩に腰を下ろし、剣を膝へ置いていた。刃の一部が欠けている。鱗を斬った時のものだろう。
「アシュフォード」
「はい」
「あれは何だ」
「結界を食べます」
セレナは黒く変色した杭を並べた。八本のうち六本が使い物にならない。
「厳密には、結界そのものではなく、そこへ流している魔力を吸っています。光蛾と同じ原理です。ただし、規模が違います」
「光蛾は結界石を吸ってた」
「はい。あれは受動的でした。石の近くへ来て、漏れている分を吸う。白竜は違います」
セレナは融解跡の記録を指した。
「宿舎の結界石を抜き取っています。石ごと持っていって、後で吸うつもりだと思います」
「巣があるのか」
「あると思います。谷の上流のどこかに」
カイルは何も言わなかった。
欠けた刃を指でなぞっている。
「……俺が悪い」
やがて、そう言った。
セレナは顔を上げた。
「何がです」
「後脚へ入った時、追った」
「追いました」
「あそこで一度引くべきだった。血が出たから、いけると思った」
カイルは剣を鞘へ戻した。
「相手が飛ぶことは分かってた。分かってて、地上の戦い方をした」
その言い方に、セレナは返す言葉を探した。
この人が自分の判断を誤りとして口に出すのを、初めて聞いた。
「二人が飛ばされたのは、私の膜が食われたからです」
「違う」
「膜が持てば、あの位置には入りませんでした」
「持たない相手だと、俺が先に判断すべきだった」
カイルは立ち上がった。
「どっちが悪いかを長くやる気はない。二人とも間違えた。それでいい」
それでいい、という言葉が、いつもと違って聞こえた。
これまでこの言葉は、セレナの答えを受け入れる時に使われてきた。今は、自分の失敗を置く場所として使われている。
「明日、もう一度行きますか」
「行かない」
カイルはセレナを見た。
「同じやり方で行けば、次は死人が出る。一度下がって、組み直す」
「城まで戻りますか」
「戻らない。麓の山小屋までだ」
カイルは谷の上流を見た。
「城まで下りたら、また一日かけて登ることになる。その間にあれが山を下りたら、村が先に潰れる」
その判断に、誰も反論しなかった。
*
麓の山小屋へ下りたのは、日が落ちきってからだった。
負傷者は麓の村へ送り、残りは小屋と周囲の天幕へ分かれた。装備が洗われ、いつもの襲撃後と同じ手順が始まる。ただ、いつもと違うことが一つあった。
誰も、討伐が済んだとは言わなかった。
セレナは小屋の隅へ黒く変色した杭を並べた。八本のうち六本。銀の表面が灰色に濁り、指で擦ると粉が落ちる。根元だけは、凍って割れていた。
魔力を吸われた金属は、こうなる。
記録帳を開き、その日のうちに分かったことを書き出した。
結界を食う。冷気を吐く。石を持ち去る。音を立てずに飛ぶ。地上戦では鱗に刃が通るが、飛ばれると届かない。宿舎の周辺から離れない。
杭が保たなかったのは、膜そのものが弱いからではない。手で打った銀杭は、吸われる速さに供給が追いつかず、そこへ冷気を浴びて根元から割れた。
最後に、一行だけ書き足した。
『結界師が有利な相手ではない』
書いてから、しばらくその一行を見ていた。
これまで、セレナが役に立たない現場はなかった。灰狼も、穿角獣も、岩猪も、光蛾も、結界で何かができた。止められない相手でも、向きは変えられた。
今回は違う。張った分だけ相手を強くしただけである。八本の杭のうち六本を失って、竜の腹は前より濃く光っていた。
扉が叩かれた。
「入るぞ」
カイルだった。
「肩は」
「今日は使っていません」
「そうか」
カイルは机の上の杭を見た。
「使えるのは」
「二本です。あとは溶かし直さないと使えません」
「麓の鍛冶屋で足りるか」
「足りません。それに、同じ杭をまた打っても同じことになります」
それだけで話が終わるかと思ったが、カイルは扉のところで止まった。
「一つ聞く」
「はい」
「君は、今日の自分を役立たずだと思ってるか」
セレナは筆を置いた。
思っていた。正確には、記録帳へ書いた一行を見ながら、その言葉を頭のどこかで探していた。十年ぶりに、その単語が自分の中で使えそうになっていた。
「……少し」
「そうか」
カイルは扉の枠へ肩を預けた。
「俺は今日、剣で竜を止められなかった」
「はい」
「役立たずだと思うか」
「思いません」
「即答だな」
「相手が悪いからです」
「そうだ」
カイルはそれだけ言って、扉を閉めた。
セレナは机の上の杭を見た。
黒く濁った銀が六本。並べ方を変えても、増えも減りもしない。
それでも、記録帳の最後の一行を、線で消した。
その下へ、別の一行を書く。
『結界を餌として使う方法を検討する』
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