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第33話 術者学校

 寝ている間に、教室は三回開かれていた。


 セレナがそれを知ったのは、現場を止められて五日目の朝である。リナが運んできた盆の横に、見覚えのない綴りが載っていた。


「何ですか、これ」


「授業の記録だそうです。ハインツさんが置いていかれました」


 開くと、大きな字が並んでいた。書き慣れていない筆跡で、行が下へ下がっている。


 三日目、石の音。参加七人。ひび一つ、空隙一つを全員が言い当てた。

 四日目、土の流れ。参加六人。畑仕事が忙しく一人休み。

 五日目、記録の書き方。参加八人。書けん者が二人おったので、絵にした。


 最後の一行に、括弧書きが添えてある。


 (アシュフォード様の写しを見て真似しました。分からんところは飛ばしました)


 セレナは綴りを閉じ、それからもう一度開いた。


「リナ」


「はい」


「私、教えていませんよね」


「寝ておられました」


「なのに三回」


「三回です」


 リナは水差しを置き、当然のような顔で言った。


「困ったら中止すると言っておられたので、そう伝えました。ハインツさんは『石は逃げんが人は忘れる』と仰って、そのままお続けになりました」


 セレナは綴りの表紙を見た。


 自分が作った授業案では、五日目は「測定具の扱い」だった。記録の書き方は八日目に置いてある。順番が違う。


 違っているのに、参加者は増えていた。


     *


 三日後、セレナは肩を吊ったまま旧兵舎へ行った。


 肩は動かせるようになったが、現場へ出るには残り五日ある。医師の許可は「座って見るだけ」だった。リナが椅子を先に運び、部屋のいちばん後ろへ置いた。教壇には立たせない配置だった。


「お、来たな」


 ハインツが振り返る。他の生徒も一斉にこちらを向いた。八人が九人に増えている。


「座ったままで失礼します」


「立ったら怒られるんだろ」


「怒られます」


 笑いが起きて、それから授業が始まった。


 ハインツは廃材の結界石を三つ並べ、生徒に叩かせていた。セレナが最初にやったのと同じ手順である。ただ、そこから先が違った。


「音が高い方が悪い。それは前に習った。じゃあ、これはどうだ」


 老人は四つ目の石を出した。セレナが用意した廃材ではない。どこかの村から持ってきたものらしく、表面が黒く汚れている。


 石工の一人が叩く。


「……高いですね」


「そうだ。じゃあ交換するか」


「します」


「駄目だ」


 ハインツは石を横へ倒し、底を見せた。


「据わりが悪い。傾いてるから、片側だけ音が変わってる。中は割れてない」


 セレナは椅子の上で背を伸ばした。


 石の底を見る話は、自分が教えた。音の話も教えた。ただ、**その二つを繋げる例題**は作っていない。


「じゃあ、どうすんです」


「据え直す。それでも高いままなら、その時に測る」


「測らずに決めていいんですか」


「よくない」


 ハインツはセレナの方をちらりと見た。


「だから、据え直したら必ず測る。測って直ってなけりゃ、あんたの手には負えん。そこで城へ知らせる」


 生徒たちが帳面へ書き込む。


 セレナは口を開きかけ、閉じた。


 自分なら、順序を逆にした。先に測って、数値で判断してから据え直す。その方が正確だからだ。


 だが、ここには測定具が二つしかない。九人が順番に使えば、一つの石で半刻かかる。ハインツのやり方なら、まず全員が手を動かせる。


 正確さでは自分の方が上で、回るかどうかでは向こうの方が上だった。


 授業が終わり、生徒が散っていく。


 ハインツが椅子の横まで来た。


「怒るか」


「なぜです」


「順番を変えた」


「変えた理由があるんでしょう」


「測る道具が足りん」


「そう思いました」


 老人は自分の帳面を開いた。線が歪んでいるが、内容は正確だった。


「あんたの案は、道具が全員分ある前提だ。城下ならそれでいい。村じゃ無理だ」


「はい」


「だから、道具がない時にどこまでできるかを先に教える。道具が来たら、その後で足す」


 セレナは自分の授業案を思い出した。


 最初の三回で「見る・知らせる・触らない」を徹底する。その方針は間違っていない。ただ、四回目以降を測定から始める設計にしたのは、**自分が測定具を当然のように持っている人間だから**だった。


「訂正します」


「何を」


「授業案を。道具がない前提で組み直します」


「そりゃ助かる」


 ハインツは帳面を閉じ、それから少し声を落とした。


「一つ、聞いていいか」


「どうぞ」


「あんたがいない三回、俺は正しく教えたか」


 その問い方に、セレナは少し驚いた。


 この老人は、自分の判断が正しかったかを気にしている。順番を変えたことを咎められるかどうかではなく、生徒が間違ったことを覚えなかったかを。


「五日目の記録の書き方は、八日目に置く予定でした」


「早かったか」


「早くありません。むしろ、そちらが正しいです」


 セレナは綴りを持ち上げた。


「書けない方が二人いたと書いてありました。それが分かったのが五日目だったからです。私の案では、それが分かるのが八日目でした。三日遅れます」


 ハインツが目を細めた。


「なるほどな」


「訂正はもう一つあります。絵にしたのは、私では思いつきませんでした」


「そりゃ、俺も書けん時期があったからだ」


 老人はそれだけ言って、自分の椅子を片づけに行った。


 窓の外に子どもがいると気づいたのは、その帰りだった。


 旧兵舎の北側、床の張り替えで余った板が積んである場所である。その陰に、小さな影が座っていた。


 セレナが近づくと、影が跳ねた。


「ミナ」


 名前を呼ぶと、女の子は動きを止めた。落書きの一件で叱られた三人のうち、いちばん年下の子である。八歳になったばかりで、あの時は結界を四角い箱として描いていた。


「勝手に入ってません」


「入っていませんね。ここは外です」


「だから、いていい?」


「構いません。ただ、板の上は釘が出ています」


 ミナは慌てて板から降りた。


 膝の上に、拳ほどの石が二つ載っている。どちらも結界石ではない。ただの河原の石だった。


「それは」


「叩いてた」


「なぜ」


「音が違うから」


 女の子は二つの石を交互に叩いた。乾いた音と、少し低い音が続けて鳴る。


「こっちは中が詰まってる。こっちは詰まってない」


 セレナは膝をついた。肩が引きつったが、無視した。


「割ってみましたか」


「割ってない。割ったら分からなくなるもん」


「……そうですね」


 二つの石を受け取り、順に叩く。


 確かに違った。ただ、その差はかなり小さい。教室で使っている廃材の結界石より、はるかに聞き取りにくい。


「これ、いつから分かりました」


「窓の外で聞いてたから」


「教室の音を」


「うん。おじいちゃんが叩くやつ。三つとも違う」


「三つとも言えますか」


「言える。一番左が一番低い」


 正解だった。


 セレナは石を返し、しばらく黙った。


 九人の生徒のうち、三つの音を確実に聞き分けられるのは今のところ四人である。全員、成人した男だ。二か月かけてそこまで来た。


 この子は、窓の外で八日聞いていただけだった。


     *


 その夜、セレナは記録帳を開いたまま長く動かなかった。


 書きかけの行がある。


『村の子ども一名、聴覚的判別に高い適性。八歳』


 その先が書けない。


 書きたいことは分かっていた。手元に置いて教えたい。八歳から始めれば、十五で測定ができ、二十で村の担当になれる。今の生徒たちが十年かけて届く場所へ、この子は五年で行く。


 自分が教えれば、確実にそうなる。


 筆を持ったまま、セレナはその「自分が教えれば」の部分を見ていた。


 扉が叩かれた。


「入るぞ」


 カイルだった。返事の前に扉が開くのは、この人にしては珍しい。


「肩は」


「痛みます。今日は歩きすぎました」


「知ってる」


「見ていたんですか」


「石工が言ってた。旧兵舎の裏で膝をついてたと」


「……報告が早いですね」


 カイルは椅子を引き、座った。机の上の記録帳へ視線を落とす。


「八歳」


「はい」


「拾うのか」


 率直な聞き方だった。セレナは筆を置いた。


「拾いたいです」


「なら拾えばいい」


「拾うと、あの子は『アシュフォード様の弟子』になります」


 カイルの視線が上がった。


「それが困るのか」


「困ります」


 セレナは記録帳を閉じた。


「私が教えれば速いです。それは本当です。でも、速く育った一人が、私がいなくなった後に同じ立場へ座ります。次はあの子が、誰にも引き継げない人になります」


「君と同じか」


「同じです」


 言葉にすると、はっきりした。


 王都で十年やってきたことの構造を、そのまま辺境で作り直そうとしている。今度は自分が真ん中に立つのではなく、八歳の子を座らせるだけの違いだった。


「じゃあ、どうする」


「村の保守担当の見習いにします。ハインツさんの下です」


「遅くなるぞ」


「なります。十五で測定は無理でしょう。十八くらいになると思います」


「それでいいのか」


「よくありません」


 セレナは正直に答えた。


「よくありませんが、私の下に置くよりましです」


 カイルはしばらく黙っていた。


「一つ、確かめる」


「はい」


「君は、その子に教えたいのか。それとも、その子が育つのを見たいのか」


 その質問は、想定していなかった。


 セレナは自分の手を見た。灰色の手袋は外してある。掌には古い火傷の跡がいくつも残っていた。


「……教えたいです」


「なら、教えればいい」


「ですから、それは」


「弟子にしないで教える方法がある」


 カイルは記録帳を指した。


「授業案を作り直すと言ってたな。ハインツから聞いた」


「はい」


「その中に、八歳が座れる形を入れろ」


 セレナは顔を上げた。


「教室へ入れる、ということですか」


「入れるかどうかは君が決めろ。ただ、入れる形がないなら作ればいい。一人のために作れば、次に来る八歳も座れる」


 あまりに簡単に言う。


 ただ、その簡単さは、いつも同じ場所を指していた。個別の解ではなく、続く形を作れという方向である。


「……時間がかかります」


「かかっていい」


「あの子は八歳です。作っている間に九歳になります」


「九歳でも座れる形にしろ」


 セレナは笑ってしまった。肩に響いたので、途中で止めた。


「痛むのか」


「笑うと響きます」


「じゃあ笑うな」


「無理を言わないでください」


     *


 その翌日、ローデリックが旧兵舎へ来た。


 手には帳面と、見慣れない書式の紙が一枚ある。


「勝手に続いておりますな」


「勝手ではありません。ハインツさんが回してくださいました」


「その方が問題です」


 ローデリックは紙を机へ置いた。


「無給の老人が、無届の建物で、無記名の生徒に教えている。三つとも城の帳簿に載っておりません」


「載せた方がよろしいですか」


「載せなければ、来月には止まります」


 それは脅しではなく、実務の話だった。


「石工二人が来ているぶん、城下の工事が遅れています。騎士も交代で一人出しています。誰かが『これは何の時間か』と聞いた時、答えられる紙がないと続きません」


 セレナは紙を手に取った。予算申請の書式である。項目欄が空白のまま置かれていた。


「名前が要ります」


「名前」


「正式な呼び名です。旧兵舎では帳簿に書けません」


「……北方結界保守講習、では」


「長いですな。まあ、通ります」


 ローデリックは筆を出した。


「参加枠はどうします」


「各村から一人。継続で来られる方に限ります」


「十一村ですので十一人。机が六つですな」


「二回に分けます」


「では週二回。教える側は」


「ハインツさんと、石工のお二人。私は」


 そこで、セレナは一度止まった。


 週に何回と書けば、それがそのまま自分の関与になる。多く書けば、また自分がいないと回らない形へ戻る。


「……私は、週二回のうち一回だけ」


 ローデリックの筆が止まった。


「よろしいので」


「はい」


「ではもう一回は」


「ハインツさんが決めてください。私は口を出しません」


 老人が後ろで何か言いかけ、結局何も言わなかった。


「教員手当は」


「必要です。ハインツさんと石工のお二人に」


「本業を削っておられますからな。妥当です」


 ローデリックは項目を埋め、それから最後の欄で手を止めた。


「測定器は」


「貸与にしてください。各村へ一つずつ。壊れたら城で直します」


「買い取りではなく?」


「壊れた時に、村が黙って捨てる方が困ります」


 ローデリックは短く笑い、筆を置いた。


「これで通します。来月から予算が付きます」


 翌週、旧兵舎の授業案が書き直された。


 全六回のうち、最初の二回を「道具を使わない回」に変えた。見る、聞く、触らない。測定具は三回目から出す。


 そして、最後の頁に一項目を足した。


『年少者の聴講を認める。十二歳未満は帳面を持たず、後方で聴くのみ。質問は授業後』


 ハインツはその一行を読み、しばらく黙っていた。


「これ、あの子のためか」


「あの子のためだけではありません」


「そうかい」


 老人はそれ以上聞かず、紙を壁へ留めた。


 最初の「道具を使わない回」の日、旧兵舎の後方には椅子が二つ増えていた。


 一つにミナが座り、もう一つには、落書き三人組の残りの一人が座っている。十一歳の少年だった。羊を連れて毎日結界石の前を通ると言っていた子である。


 二人とも帳面を持っていない。規則通りだった。


 授業が終わり、質問の時間になると、少年が先に手を挙げた。


「石の底って、埋まってたらどうやって見るんですか」


 セレナは答えようとして、口を閉じた。


 それから、ハインツを見た。


「どう思います?」


 老人は一瞬驚いた顔をし、それから前へ出た。


「掘る。ただし雨の後は掘るな。土が緩んで、余計に傾く」


 少年が頷く。


 セレナは椅子に座ったまま、その様子を見ていた。


 自分が答えれば早かった。同じ答えになったかどうかは分からない。雨の後の話は、たぶん出てこなかった。


 肩はまだ吊ったままである。現場へ戻れるまで、あと数日あった。


 それでも、教室は今日も開いていた。


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