第32話 名前を呼ぶ
王都の外周結界が落ちた夜、辺境城では南側の測定板が一斉に振り切れた。
最初に音を立てたのは資料室の壁に掛けてある小さな警報鈴だった。一本だけなら現地の基点異常、二本なら周辺系統の流量変化を示す。三本とも鳴る時は、城の外から大きな負荷が入った時と決めている。
その三本が、ほとんど同時に鳴った。
セレナは机から立ち上がり、測定板へ駆け寄った。針は南を示したまま細かく震えている。北砦から戻って以来、毎晩記録していた値の倍近い。
「ローデリック様を」
廊下へ声をかけるより早く、扉が開いた。カイルが剣帯を締めながら入ってくる。
「どこだ」
「南です。城内ではありません。外から押されています」
「王都?」
「そこまでは分かりません」
セレナは地図を広げた。辺境城から南へ続く古代線は、確認できているだけで三基ある。最も近いのは南門の外にある旧料金所、その次が街道脇の祠、三つ目はまだ場所を特定できていない。
「一番近いところから見ます。旧料金所へ」
「何人」
「術者一人、騎士四人。石工はまだ要りません。崩れていたら呼びます」
「分かった」
カイルは廊下の騎士へそのまま人数を伝えた。理由は聞かなかった。
南門を出ると、夜気は思ったより冷たかった。雲が低く、月は見えない。旧料金所までは馬で半刻もかからないが、街道脇の結界灯が途中から不規則に明滅していた。
「速くなっています」
セレナは馬上で携帯測定石を見た。薄青い針が、一定の間隔で南へ倒れる。
「危ない?」
「分かりません。だから見ます」
「そう言うと思った」
旧料金所は、街道が広げられる前に使われていた石造りの小屋だった。今は巡回兵が雨宿りに使い、裏手には古い結界基点が残っている。屋根は半分だけ新しい板だが、壁の下側は建てられた当時の石のままだった。
入口脇には夜番の兵が一人いた。警報が出てから周囲の荷馬車を北側へ回し、今は誰も料金所へ近づけていないという。セレナが頼んだわけではない。巡回手順に、異常時は人を遠ざけることが既に加えられていた。
「街道を止めたのは誰です?」
「南門の当直です。測定板が跳ねたので」
「正しいです。朝まで迂回させてください」
兵はすぐ頷いた。何を守るための指示かを一から説明しなくても、必要な動きが先に始まっている。そのことを確かめてから、セレナは裏手へ回った。
馬を降りた時から聞こえていた低い音が、石壁の向こうでさらに強くなる。石臼を遠くで回しているような、一定の響きだった。
「地下です」
セレナは工具鞄を持ち、料金所の裏へ回った。半年前に開けた点検口の蓋が、わずかに浮いている。内側から押されていた。
「待て」
カイルが先に蓋へ手をかける。
「開けた時に魔力が噴くかもしれません」
「じゃあ君が開けるのか」
「横から測ります」
「同じだろ」
セレナは返事をせず、銀杭を二本取り出した。点検口の左右へ打ち、薄い結界面を斜めに張る。噴き出しても上へ逃がすためだ。
「これで開けられます」
「最初からそれをやれ」
「今やりました」
カイルが蓋を引いた。
青い光が一気に立ち上がった。結界面へ当たり、夜空へ細く流れる。騎士たちが一歩下がったが、カイルは蓋を持ったまま動かなかった。
「入れるか」
「はい。ただ、先に出力を落とします」
*
地下室の中央にある古代基点は、見たことのない色で光っていた。
通常は青白い脈が溝の中だけを流れる。今は石板全体が淡く光り、縁から細い線が床へ漏れていた。
セレナはしゃがみ、手袋越しに床へ触れる。掌の銀糸がわずかに温かくなった。
「南から来ています」
「量は」
「普段の三倍近いです。ただ、ここで詰まっています」
料金所の基点は本来、南から来た流れを東西へ分ける場所らしい。ところが東側の古い導線が半分死んでいるため、逃げ場を失った魔力が石板へ溜まっていた。
「このままだと」
「割れます」
「時間は」
「分かりません。十分かもしれませんし、一時間かもしれません」
カイルが周囲を見る。
「人家は」
「一番近い農家まで二百歩。料金所が割れるだけなら届きません。ただ、街道の結界灯が落ちます」
「夜の街道が開く」
「はい」
魔獣が今すぐ来るとは限らない。それでも、朝まで放置する理由にはならない。
セレナは東側導線の蓋を外した。内部は黒く変色しているが、完全には切れていない。細い流れだけ残っている。
「これを開けます」
「直す?」
「いいえ。今夜は逃がすだけです。ここで一度流量を東へ振って、料金所の負荷を下げます」
「何が要る」
「銀線。あと、そこの固定環を回してください」
騎士の一人がすぐに動いた。
「私がやります」
セレナは工具を渡す。
「半回転だけです。それ以上回すと古い導線まで外れます」
騎士が固定環へ手をかけ、セレナは新しい銀線を古い溝へ沿わせた。自分一人なら片手で線を押さえながら環まで回していたところだが、今は必要がない。
「準備できました」
「回します」
「ゆっくり」
固定環が動く。溜まっていた光が一度強くなり、東側の溝へ流れ始めた。
「そこで止めてください」
針を見る。
三倍だった流量が二・五倍まで落ちた。東側の古い結界灯が料金所の外で一つ点き、点検口から青い反射が入ってくる。流れそのものは読んだ通りだった。
ただ、セレナは固定環の根元へ目をやった。表面に細い白線がある。埃だと思って指でなぞると、消えなかった。
「止めてください」
騎士の手が止まる。
「亀裂ですか」
「古いものだと思います。深さを見ます」
小さな鏡を差し込み、光を当てた。線は固定環の下へ続いているが、石板の裏まで抜けているかは見えない。今ここで環を外して確認すれば、せっかく逃がした流れが戻る。
「今日はここまででも持ちます」
カイルが言った。
セレナは針を見る。値は二・五倍まで落ち、確かに危険域からは外れ始めている。ただ、街道側の結界灯を朝まで安定させるには、もう少しだけ落としたかった。
「あと指一本分だけです。そこで止めます」
「危なくない?」
「環そのものは動いています。亀裂へ力をかけないよう、ゆっくりなら」
そう判断した。後から考えれば、その判断自体が間違いだったわけではない。見えていなかったのは、環の下にもう一本、古い割れ目が隠れていたことだった。
「もう少し」
「あとどれくらい」
「指一本分」
騎士が力を加えた。
その瞬間、石の中で乾いた音がした。
セレナは顔を上げた。
「離れて!」
固定環の下に隠れていた古い亀裂が、一気に広がる。
石板の縁が割れた。
青い光が横へ走る。
セレナは反射的に銀線を放し、隣の騎士を押した。騎士は倒れたが、光の線から外れる。
次に足元が崩れた。
床の一部が沈み、身体が傾く。工具鞄が先に落ちた。
「アシュフォード!」
カイルの声がした。
手を伸ばした時には、崩れた石が靴の下を抜けていた。
「セレナ!」
今度の声は、はっきり聞こえた。
腕を掴まれる。
身体が落ちきる前に引かれ、肩からカイルの胸へぶつかった。そのまま二人とも壁際へ倒れ込む。
遅れて、割れた石片が床へ落ちた。
数秒、誰も動かなかった。
「全員、無事か!」
カイルが先に声を出す。
「無事です!」
「こちらも!」
騎士たちの返事が返る。
セレナは起きようとして、右足に力をかけた。
痛みが走る。
「……足をひねりました」
「他は」
「肩を少し」
額にも何か温かいものが流れている。触ろうとすると、カイルが手首を掴んだ。
「触るな」
「血ですか」
「血だ」
「浅いと思います」
「聞いてない」
カイルは外套の端で額を押さえたまま、騎士へ指示を飛ばした。
「一人、医師を呼べ。もう一人は上で人を近づけるな。残り二人でこの基点を見る」
「カイル様、流量が」
「数字だけ言え」
セレナは測定石を探した。工具鞄ごと穴の中に落ちている。
「鞄が下です」
「俺が取る」
「穴が」
「分かってる」
カイルは騎士から別の測定石を受け取り、セレナへ渡した。
針は二倍を少し下回っていた。東側への逃がしは成功している。
「今夜は持ちます」
「なら出る」
「記録を」
「上で書け」
「歩けます」
右足を床へつける。
やはり痛い。
カイルが見ていた。
「歩ける顔じゃない」
「顔は関係ありません」
「ある」
反論する前に、膝の下へ腕が入った。
「カイル様」
「何だ」
「騎士の方がいます」
「見えてる」
「私を運ぶ必要は」
「ある」
持ち上げられる。
料金所の地下は天井が低いので、カイルも少し屈まなければならない。それでも下ろす気はないらしい。
騎士たちは誰もこちらを見なかった。見ないようにしているのが、かえって分かった。
*
医師の診断は、額を三針、右足首は捻挫、左肩は脱臼だった。肩は、その場ではめ直された。
「十日は現場へ出ないでください」
「十日も?」
「二週間にしますか」
「十日で」
「肩を外した人は皆そう仰います。そして三日目に外へ出て、また外します」
医師は包帯を巻き直し、リナへ何か耳打ちしてから部屋を出ていった。見張りの依頼だろう。
セレナは客室の寝台へ背を預けた。自室まで階段を上がるのはやめた方がいいと言われ、医務室に近い部屋を使うことになった。
窓の外はもう明るくなり始めている。カイルは椅子に座ったままだった。
「寝ないんですか」
「君が寝たら寝る」
「見張る必要はありません」
「頭を打った」
「医師は眠っていいと」
「知ってる」
それでも立たない。
セレナは毛布の上へ手を置いた。灰色の手袋は片方だけ外され、掌の銀糸に石粉がついている。
さっきから別のことが気になっていた。
「カイル様」
「何だ」
「地下で、私を何と呼びました?」
カイルが黙る。
聞こえていなかったわけではない。最初はいつもの呼び方だった。そのあと、床が抜けた瞬間だけ違った。
「セレナ」
今度は、確認するように言われた。自分の名前なのに、他人のもののように一度耳へ残る。
「……はい」
「嫌だった?」
「いいえ」
答えはすぐ出た。カイルが少しだけ肩の力を抜く。
「じゃあ、そう呼ぶ」
「仕事中もですか」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「考えて呼んだわけじゃないから。でも、戻す気もない」
「急ですね」
「戻した方がいい?」
セレナは考えた。
アシュフォード、と呼ばれることに不満はなかった。公爵家の名は自分の名でもあるし、仕事の場ではその方が自然だった。
ただ、今は仕事の話をしていない。
「そのままで」
「分かった」
「……慣れるまで、少し時間をください」
「いくらでも」
短い返事だった。それで終わるかと思ったが、カイルはまだこちらを見ている。
「何ですか」
「さっき、怖かった」
セレナは言葉を止めた。自分のことを言われているのだと分かるまで、少しかかった。
「落ちたのは一段分です」
「そういう話じゃない」
「でも、結果としては」
「セレナ」
名前だけで止められた。
続きが出てこない。
カイルは目を逸らさなかった。
「君が落ちた時、何も考えられなかった」
セレナは毛布の端を指でつまんだ。
「……すみません」
「謝れとは言ってない」
「では、何と」
答えは用意されていなかったらしい。カイルはしばらく黙っていた。
セレナの方にも、言いかけて止まったものがある。口にすれば、たぶん自分の方が困る種類の言葉だった。
「カイル様」
「何だ」
「……いえ」
「言え」
「言うと、たぶん、私が困ります」
カイルは眉を寄せなかった。急かしもしない。
「なら、後でいい」
「後で聞くんですか」
「聞く」
「いつです」
「君が困らなくなった時に」
セレナは天井へ視線を移した。困らなくなる日が来るのかどうかは分からない。ただ、その日まで待つと言われたことだけは分かった。
「何も。今は寝ろ」
話を終えるように、カイルが椅子から立った。
扉へ向かう。
その背中を見て、セレナは口を開いた。
「カイル様」
彼が振り返る。
何を言うのか、自分でも決めていなかった。
水が欲しいわけではない。痛み止めも飲んだ。資料なら朝になればローデリックが持ってくる。
それでも、今は一人になりたくなかった。
「もう少し、ここにいてください」
言ってから、理由を探した。
見つからなかった。
カイルは何も尋ねなかった。
「ああ」
椅子へ戻る。
セレナは目を閉じた。
窓の外が白み始めるまで、彼が部屋を出る音はしなかった。
*
昼前に目を覚ますと、カイルはいなかった。
代わりに、寝台脇の机へ朝食と水差しが置かれ、その横に測定記録が一枚だけ載っている。
旧料金所の流量は一・七倍まで下がっている。
東側導線への逃がしも継続していた。
石工二人を追加し、固定環は触らず仮支柱を入れた、とローデリックの字で書かれていた。
最後に、別の筆跡が一行だけ添えてあった。
『十日だ。数えている』
署名はない。
セレナは紙を読み直し、枕元へ置いた。測定値が一・七倍まで下がっているなら、料金所の基点は当面もつ。街道灯も復旧しているはずだ。
そこまで確認してから、セレナは記録を最初から読み直した。
東側の導線は半年前に一度手を入れている。黒く変色していたのは古い部分だけで、継ぎ足した箇所は新しい銀線だった。逃がした流れが真っ先に向かったのも、そこだ。
新しい銀線は、二百年前の溝より抵抗が小さい。直した場所は、周囲より通りが良くなる。
筆を取り、記録帳の新しい頁へ書いた。
『修復箇所は、周囲より通りを悪くする必要がある』
九箇所を同時に直す計画の、根本に関わる話だった。壊れた場所を直せば直すほど、そこへ流れが集まる。順に直していけば、最後に残った古い部分が耐えられなくなる。
昨夜の判断も、もう一度辿った。異常を見つけ、負荷を逃がし、亀裂を確認した。最後の指一本分だけは、結果として余計だった。
だからといって、現場へ行かなければよかったとは思わない。次に同じ固定環を扱うなら、外から見える亀裂だけで判断せず、裏側を先に測ればいい。
ただ、床が抜けた瞬間に聞いた声だけは、技術記録のどこにも書けなかった。
扉が開き、リナが昼食の盆を持って入ってくる。
「起きておられましたか」
「はい」
「辺境伯様から、起きていても現場へは出すなと言われています。十日だそうです」
「測定記録を置いたのも辺境伯様では」
「矛盾には気づいておられないのでしょう」
リナは盆を置き、包帯の具合を確かめた。
「それと」
「何ですか」
「朝、廊下で『セレナはまだ寝てるか』と聞かれました」
セレナは水差しへ手を伸ばしかけて止めた。
「そうですか」
「はい」
リナはそれ以上何も言わなかった。
ただ、妙に機嫌よくスープの蓋を開けた。
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