第31話 王都の夜
王都の外周結界が落ちたのは、辺境で九箇所目の記録が閉じられた四日後の夜だった。
最初に気づいたのは、北市場の見回りに出ていた衛兵だった。夜半、市場の端に立つ結界杭の光が消えた。よくあることではないが、絶えることでもない。衛兵は規定通り、次の杭を見に走った。
そちらも消えていた。
三本目も、四本目も同じだった。走りながら数えて、七本目でようやく光っているものに行き当たる。ただしその光も、呼吸のように強弱を繰り返していた。
衛兵は笛を吹いた。四本続けて落ちている時の合図は、この半年で決められたばかりだった。決めたのは、北市場で二度目の侵入があった後である。
*
結界局の宿直室でその笛を聞いたのは、エドガーだった。
当番は二人。もう一人は北側補助線の観測へ出ており、戻りは明朝の予定になっている。半年前に組み直した二人一組の担当表が、この夜に限って裏目に出た形だった。
二人一組にしたのは、一人が倒れても続くようにするためだった。一人が現場へ出れば残りは一人になる、というところまでは想定していない。
「北市場です」
エドガーは机の測定板を掴み、上着を羽織りながら階段を駆け下りた。
途中で、局の廊下に人が増えているのに気づく。夜勤の書記が二人、資材係が一人。全員が窓の外を見ていた。
「エドガー君、外周が」
「どこまでです」
「北から東へ。今、東門の観測所からも報告が」
北から東。
それは、七番塔から北側補助線を経て、市街地の外周へ回る経路だった。
エドガーは足を止めた。半年前から書き続けている観測案の様式が、頭の中で開く。北側地脈の変動幅は、春季を過ぎても戻っていない。三週間前の記録では、去年の同じ時期より二割高かった。
二割なら、外周結界の設計余裕の内側だ。
落ちるはずがない。
「バルドさんは」
「南門の巡回です。呼びに行かせました」
「戻るまでにどれくらい」
「四半刻は」
エドガーは局長室の扉を見た。今夜は不在だった。判断できる人間が、この建物に一人もいない。
半年前なら、ここで動けなかっただろう。いや、半年前なら、誰かがアシュフォード様を呼びに走っていた。走れば公爵邸まで四半刻、本人が現場へ着くのはさらにその先で、それでも待つ方が早いと全員が思っていた。
「北市場の担当区へ行きます」
エドガーは書記へ言った。
「衛兵詰所へ伝えてください。市場の露店側から人を出すな、と。杭が落ちているのは北から東です。西へ逃がしてください」
「そんな指示、私が出していいものですか」
「僕が出しました。名前を書いてください」
書記が一瞬固まり、それから頷いて紙を掴んだ。
北市場へ着いた時、すでに角兎が入っていた。
三匹ではない。エドガーが数えられただけで十を超えている。杭が七本落ちていれば、開いた幅がそれだけ広いということだった。
露店の間を、灰色の影が走り回っている。木箱が倒れ、干し肉の吊り縄が引きちぎられ、どこかで犬が吠えていた。夜半の市場は昼と違って荷が出したままで、逃げる側の足を引っかけるものが多い。
「西へ!」
衛兵が叫んでいる。
人の流れはできていた。西の通りが空いているので、住民はそちらへ動いている。エドガーが出した指示が、少なくとも詰所までは届いたらしい。
ただ、流れの速さが足りない。
夜半である。多くの者が寝間着のまま出てきて、方角が分かっていない。狭い路地で人が詰まり、後ろから押されて転ぶ者が出ていた。
エドガーは測定板を投げ捨て、鞄から銀杭を出した。
結界を張るなら、どこか。市場全体は無理だ。杭の数が足りないし、地脈の位置も掴んでいない。
人の流れを見る。押し合っているのは、市場から西の通りへ抜ける角だった。そこだけ道が狭く、荷車が一台停めたままになっている。
「そこを空けてください!」
誰も聞いていない。声が通らない。
その時、市場の中央が明るくなった。
白い光だった。
柔らかく、目を刺さない。夜の市場の上へ、雲を透かした月のような明るさが広がった。倒れた木箱の影が伸び、走り回る角兎の位置がはっきり見える。
人の流れが止まり、それから整った。
方角が見えたからだ。
エドガーは光の出所を探した。市場の中央、井戸の縁石の上に人が立っている。
薄い外套の下は夜会服だった。裾に泥がついている。どこかの邸から抜けてきて、そのまま走ったらしい。
「ミレイユ様……?」
ベルローズ伯爵令嬢が、両手を胸の前で組んで立っていた。掌の間から白い光が伸び、市場の上へ広がっている。
光魔法だった。社交の場で花や噴水を照らす、装飾用の術である。夜会で見たことがある者なら、誰でも知っている。
ただ、量が違った。
「西です! 西の通りへ!」
ミレイユが叫ぶ。声は細いが、光の中心から出ているので、どこにいるか全員に分かった。
「押さないで! 前の人が転びます!」
人の流れが、目に見えて速くなった。行き先が見えるだけで、これほど違う。暗闇では、逃げる方向を決められない者から順に止まる。
エドガーは走った。井戸まで二十歩、その途中で角兎が一匹進路を横切ったので、鞄で叩いて逸らす。
「ミレイユ様!」
「エドガーさん」
名前を覚えられていた。
「危険です。ここは中央です」
「だから明るいんです」
ミレイユは光を切らさずに答えた。額に汗が浮いている。
「端で光っても、届かない人がいます」
「しかし」
「あと少しです。人が抜けたら降ります」
エドガーは言い返す言葉を探し、見つけられなかった。
代わりに銀杭を掴み、井戸の周囲へ三本打ち込んだ。
「何を」
「ここを囲みます。ミレイユ様が倒れたら、光が消えます」
薄い膜が井戸を囲んだ。角兎を止めるほどの強度はない。ただ、真っ直ぐ突っ込んできた一匹が縁石の手前で弾かれ、横へ流れていった。
それで十分だった。
衛兵が角兎を追い出し終えたのは、それから半刻後だった。
捕獲十四、逃走三。人的被害は転倒による打撲が七人、骨折が一人。死者はいない。露店の被害は、数えるのに翌朝までかかった。
ミレイユは井戸の縁石に座り込んでいた。光は消えている。エドガーが差し出した水を、両手で受け取った。
「初めて使いました。あんな量は」
「どこで習ったんですか」
「習っていません。夜会で花を照らす術です。同じものを、力を増やして広げただけです」
彼女は自分の掌を見た。赤くなっている。魔力の通し方を知らないまま量だけ増やせば、こうなる。
「なぜ市場にいらしたんです」
「歩いていました」
「夜半にですか」
「先月からです」
ミレイユは水を一口飲んだ。
「北市場に二度魔獣が入っています。私はどちらも報告書で読みました。『物損軽微』と書いてありました」
エドガーは、その言葉に覚えがあった。自分が書いた報告書ではない。だが、同じ様式で提出したことはある。『物損軽微』の四文字は、被害がないという意味ではなく、書式にそれ以上書く欄がないという意味だった。
「それで、見に来られたと」
「見に来ても何もできません。ただ、報告書を読んだ時に、どの店のことか分かるようになります」
彼女は市場の端を指した。
「あそこの果物屋さんは、三度目です」
エドガーは、板を打ち直したばかりの棚を思い出した。三度目なら、また明るい色の板が一枚増えることになる。
*
同じ夜、王宮では別の判断が下されていた。
外周結界の障害が報告された時、アルベルトは執務室にいた。
「規模は」
「北から東へ、外周杭が二十三本。市街地への侵入が確認されています」
「近衛は」
「宮殿の警備配置を強化しております」
侍従の報告に、アルベルトは頷いた。
「妥当だ。宮殿が抜かれれば、指揮系統ごと失う」
そこまでは、教本通りの判断だった。
問題は、その後だった。市街地へ回す人員について、誰も具体的な数字を出さなかった。衛兵は既に出ている。近衛は宮殿に必要である。結界局は人員不足である。
全部が正しく、全部が「うちからは出せない」だった。誰も嘘をついていないので、反論のしようがない。
アルベルトは机の上の地図を見た。
北市場の位置は分かる。そこに何軒の店があり、何人が寝ているかは分からない。
「……結界局から、報告は」
「まだ上がっておりません」
「上がるのを待つのか」
侍従が答えられずにいると、扉が叩かれた。
入ってきたのは、五日前に北部から戻ったばかりの参事官だった。
「殿下。ラングレーでございます」
「今は」
「今でなければ意味がありません」
子爵は書類挟みを抱えたまま、部屋の中央まで進んだ。
「近衛から二十を市街地へ回すよう、進言に参りました」
「宮殿が手薄になる」
「なります」
「では」
「殿下。北市場は宮殿から徒歩で四半刻です」
ラングレーは地図を指した。
「魔獣がそこにいるということは、宮殿もすでに射程の内側にあります。宮殿だけを固めても、外が抜かれれば同じことです」
アルベルトはしばらく黙った。
「……なぜ、お前が来る」
「私が、現場を見た者だからです」
子爵は書類挟みを開かなかった。
「北部で、私は結界が働いている場所を見ました。街道で十四頭が街道の向こう側に留まっている場面です。あれは何も起きていない場面でした。報告書にすれば一行で終わります」
「今は起きている」
「はい。ですから、一行では済みません」
アルベルトは立ち上がった。
「二十だ」
「はい」
「三十にしろ」
ラングレーが顔を上げた。
「三十でよろしいので」
「宮殿の中で報告を待つより早い」
*
夜が明けた。
結界局の会議室には、局長とバルド、エドガー、それに他班の術者が六人集まっていた。机の上には、昨夜の観測値と、被害の一次報告と、もう一つ別の綴りが置かれている。
厚さは指三本分あった。
「北部から届いていたものです」
局長が言った。
「二週間前に受け取り、資料庫へ入れておりました」
バルドが表紙をめくり、途中で手を止めた。
「……これ、全部アシュフォード様の記録ですか」
「そうです。無償で提供されたと聞いております」
「二週間、誰も読んでいないんですか」
誰も答えなかった。二週間前、この綴りを受け取った時、局は昨夜と同じ人員で日々の点検を回していた。読む時間を取れと言える者が、たまたま一人もいなかった。
エドガーは綴りを引き寄せた。目次がついている。七番塔、北側補助線、春季運用手順、過去八年の変動幅、迂回線設計案。
迂回線設計案の頁を開いた。
四年前の申請書を、現在の流量に合わせて引き直したものだった。図面の余白に、細かい注記がある。
『本案は北側補助線のみを対象とする。市街地外周結界については別途調査が必要。北部の古代結界網と外周結界の接続関係は未確認』
エドガーはその一行を二度読んだ。
「局長」
「何だ」
「昨夜落ちたのは、外周結界です」
「そうだな」
「この方は、二週間前の時点で、外周結界を調べる必要があると書いています」
会議室が静かになった。
バルドが低い声で言う。
「読んでいれば、調べていたか」
「調べたと思います」
「調べて、間に合ったか」
エドガーは答えられなかった。
二週間で外周結界の全数調査は終わらない。間に合わなかった可能性の方が高い。
それでも、書いてあったものを読まなかったという事実は残る。間に合わなかったことと、試さなかったことは別だった。
「今日から読みます」
局長が言った。
「班を分けろ。写しを取って、全員に配れ」
「原本は」
「資料庫へは戻さない。この部屋へ置く」
その日の昼、王都の掲示板に被害の一次報告が貼り出された。
角兎十七、捕獲十四。負傷八名、うち骨折一名。死者なし。露店の全壊十一、半壊二十四。
文面の最後に、一行だけ普段と違う記述があった。
『避難誘導に際し、光魔法による照明を行った者があり、混乱の拡大を防いだ』
名前は書かれていない。
書かないよう、本人が申し入れたからだった。
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