第30話 二つの国の結界
五日後、セレナは初めて国境の川を渡った。
橋板は前回より三枚増え、荷を担いだまま歩けるようになっている。渡り終えた先の岸で、イルゼが待っていた。後ろには護衛が五人と、若い助手が二人。
「時間通りですね」
「川が浅かったので」
「昨日から雨がありません。今日を選んだのは正解でした」
イルゼは挨拶らしい挨拶をせず、そのまま尾根道を登り始めた。セレナも続く。カイルは十歩後ろ、ローデリックと石工二人がさらに後ろだった。
ノルトハイム側の砦は、クレーヴェ砦より一回り小さかった。ただし石積みは新しく、北壁の張り出しが厚い。谷を挟んだこちらから見て、防御の重心が明らかに南へ寄っている。
その南壁の下に、目当ての排水路があった。
「事前に申し上げておきます」
入口の前でイルゼが振り返った。
「うちの軍務府は、この共同調査へ反対しました」
「聞いています」
「反対の理由もお伝えしておくべきでしょう。この排水路を見せれば、そちらは砦の基礎構造を知ることになります。攻める側にとって有用な情報です」
カイルが後ろで足を止めた気配があった。
「では、なぜ通ったんです」
セレナが尋ねる。
「三年前の東部廃坑の件で、私が『出所不明』と書いた報告書を持ち出しました」
イルゼは松明へ火を入れながら答えた。
「あの時、うちは犯人を特定できませんでした。今回も特定できなければ、三年後にまた同じ場所が壊れます。それを軍務府へ十二回説明しました」
「十二回」
「三日で十二回です。最後は文書ではなく口頭でした。書いても読まれないので」
その言い方に、セレナは覚えのある疲れを聞いた。
「通ったんですね」
「通りました。条件付きで」
「条件は」
「記録は両国で同じものを二部作ること。片方だけが持ち帰る形にはしないこと」
「妥当です」
「私もそう思いました」
イルゼは松明を掲げ、排水路へ入っていった。
*
構造は、クレーヴェ砦とほとんど同じだった。谷を挟んだ両側に、同じ工法で造られている。
腰を屈めなければ進めない幅、足首まで埋まる土砂、石に彫られた幅広の魔力溝。角の丸まり方まで似ている。二百年前の同じ工法で、谷を挟んだ両側に同じものが造られたことになる。
二十歩ほど進んだところで、イルゼが立ち止まった。
「ここです」
基礎石が一つ外され、その奥の土が新しい。
セレナはしゃがみ、土を払った。銀線が出てくる。断面が平らで、光沢が残っていた。
「同じです」
「同じですね」
繋ぎ直された導線を辿ると、南へ——つまりクレーヴェ砦の方向へ伸びていた。二つの砦が、地面の下で互いを指し合っていることになる。
「こちらの線は南を指し、そちらの線は北を指す」
イルゼが言う。
「両側から中央へ引いています。中央は谷です」
「谷の下に何かあると」
「あるとは限りません。ただ、両側から引っ張れば、中央の負荷が上がります」
セレナは測定石を溝へ近づけた。針が振れ、四拍のうち一拍だけ逆へ返る。クレーヴェ砦と同じ周期だった。
石工が固定金具を三つ拾い上げる。
「これも産地違いですね」
「うちの側も三つですか」
「三つです。西部、南のラウテ、それと」
石工は三つ目を松明へ近づけ、しばらく見た。
「……これは、ノルトハイムの規格じゃないですかね。ねじが逆向きだ」
イルゼが手を出した。金具を受け取り、指の腹でねじ溝を数える。
「うちの北部規格です」
排水路が静かになった。松明の芯が爆ぜる音だけが、狭い天井へ反響する。
「そちらの砦から出た三つに、うちの規格はありましたか」
「ありませんでした」
「こちらにはあります」
イルゼは金具を布へ包んだ。
「調達を分散する時、現地で手に入るものを混ぜたのでしょう。国境のこちら側では、うちの規格の方が安く早い」
「では、こちら側でも作業をした人間がいる」
「そうなります」
誰も口を挟まなかった。ノルトハイム側の助手二人が、目に見えて緊張している。自国の中に協力者がいたことになるからだ。
「イルゼさん」
「はい」
「この件、そちらの軍務府はどう扱いますか」
「まだ言っていません。今日見つけたばかりですから」
イルゼはセレナを見た。
「隠すつもりはありません。ただ、うちの軍が『王国の商会が国内へ手を伸ばした』と言い出す前に、順番を決めたい」
「順番」
「先に事実を並べて、そのあと誰の責任かを決める。逆にすると、事実の方が捻じ曲がります」
セレナは記録帳へ書き留めた。三年前、この人は「出所不明」と書いて終わらせている。同じ終わり方をさせないための順番だった。
商会の名前が出たのは、その日の夕方だった。
ノルトハイム側の砦の一室で、両国の記録を並べていた時のことだ。セレナは自分の記録帳と、イルゼの帳面、それにローデリックが城から持ってきた辺境伯領の出入り記録を広げていた。
「北部各地の資材搬入記録です」
ローデリックが分厚い綴りを開く。
「領内へ荷が入る時は、必ず関所で記録します。過去五年分を持ってきました」
「五年」
「それ以上は倉庫の奥ですな」
三人で照合を始めた。日付、荷主、品目、量。同じ荷主が二度出れば印をつけ、三度出れば別紙へ移す。
一刻ほど過ぎた頃、イルゼが手を止めた。
「同じ名前が出ています」
「どこに」
「うちの東部廃坑の周辺で、三年前に土地の使用許可を取った会社です。そちらの記録にも」
イルゼが指した行を、ローデリックが読み上げる。
「ヴィンター商会。魔晶石の取引を主とする王都の会社ですな」
「うちでも知られています。北部へ魔晶石を卸しているのは、実質この一社です」
セレナは自分の記録帳をめくった。
王都にいた頃、結界局の資材調達書で何度も見た名前だった。局納入の入札に必ず名前が並び、悪い評判は聞いたことがない。むしろ、納期を守る会社として通っていた記憶がある。
「品目は」
ローデリックが指を進めた。
「調査用資材、測量具、坑道支保材……それと、木炭と縄が大量に」
「用途は」
「『廃坑および旧魔導施設の残存資源調査』とあります」
セレナの手が止まった。
「残存資源」
「はい」
「古代基点を、廃棄設備として扱っています」
部屋の空気が変わった。
セレナは自分の帳面へ、裂け谷の記録を開いた。人の背丈ほどの石柱。線が交差せず重なった紋様。内側を閉じるための構造。
「あの石柱の中には、高純度の魔晶核が入っている可能性があります」
「どのくらいの」
「王都の現行式で使う魔晶石より、たぶん一桁上です」
イルゼが低く息を吐いた。
「掘る価値がありますね」
「あります」
「外殻は」
「硬いです。古代の石積みは、今の工法では割れません。爆薬を使えば周囲の村ごと危険になります」
三人が同時に、同じ結論へ行き着いた。誰も先に言いたがらなかったのは、口にすれば取り消せなくなるからだ。
最初に言葉にしたのは、ローデリックだった。
「……魔獣に壊させれば、費用も責任もかかりませんな」
*
その夜、セレナは眠らずに記録を組み直した。
裂け谷。魔晶石の粉を撒き、魔獣を古代結界へ誘導していた男たち。彼らは「青い石を起こせ」と言われていた。
起こす、ではない。実際にやらせていたのは、壊させることだった。
言葉を選んだのは、雇った側だろう。作業した者に何をしているか正確に伝えなければ、途中で怖がって逃げられることもない。
薬草谷の霧も、谷へ魔力を集める基点も、同じだった。魔獣を寄せ、外殻を削らせる。監視塔の崩落、厩舎の下の脈動、北の砦で切られた銀線。
全部、同じ目的の別の場所だった。
朝になり、イルゼが同じ顔で部屋へ入ってきた。彼女も寝ていない。
「一つ、答えの出ないことがあります」
開口一番にそう言った。
「どうぞ」
「なぜ止めなかったのでしょう」
イルゼは自分の帳面を机へ置いた。
「三年前、東部廃坑で人が二人死んでいます。落盤ではなく、寄ってきた魔獣に襲われて。あの時点で、この方法が危険だと分かったはずです」
「それでも続いています」
「はい。手口を変えて、続いています」
セレナは裂け谷以降の記録を並べた。
王都式の金具。それが手掛かりになった後は地元品へ。黒い印を見つけた後は、印を残さない方式へ。産地は三つに分散し、番号は削られるようになった。
「危険だと気づいた後に、痕跡だけを変えています」
「そうですね」
「止めるより、見つからないようにする方を選んだ」
言葉にすると、それは思っていたより単純だった。壮大な悪意を探していたぶん、答えの小ささが逆に応える。
国を転覆させたいわけでも、王国へ復讐したいわけでもない。すでに使った金があり、見込んだ利益があり、途中でやめれば損が確定する。だから続けた。
「損切りができなかっただけですね」
イルゼが言う。
「ええ」
「それで、私の国では二人死にました」
彼女の声は静かだった。
「うちの軍が期待しているような、勇ましい敵ではありませんね」
「ありません」
「困りました」
イルゼは椅子へ座り、両手で顔を擦った。
「勇ましい敵なら、軍が動いて終わりです。商会なら、こちらの国からは手が出せません」
「王国の司法が動きます」
「動きますか」
その問いに、セレナはすぐ答えられなかった。
ヴィンター商会は王宮結界局へ資材を納めている。局の調達書に名前がある。動かないとは思わないが、速いとも思えなかった。
「動かせます」
結局、そう答えた。
「根拠は」
「私が四年間、申請を通せなかった経験です」
イルゼが顔を上げる。
「どういう意味でしょう」
「通らない理由は毎回違いました。予算、優先順位、担当部署の管轄。全部もっともらしくて、どれも嘘ではありません。ただ、書類を出す側が一人だと、そのどれか一つで止まります」
セレナは机の上の二冊の帳面を見た。同じ内容で、二部作られている。
「今回は、両国の技師が同じ結論を書きます。辺境伯領の関所記録が付きます。証拠品もあります。止める理由を、誰かが一つ思いつくだけでは足りません」
イルゼはしばらく黙り、それから短く笑った。
「あなた、あまり信じていませんね。ご自分の国の役所を」
「信じています」
セレナは答えた。
「動く仕組みなら動くと知っています。だから、動く形にして出します」
*
辺境城へ戻ったのは三日後だった。
拘束はローデリックが手配した。関所の記録から荷の受取人を辿り、城下の代理店と、北部三か所の現地下請けを同時に押さえる。カイルの騎士団が動いたのは、この一日だけだった。
押収された契約書は、思っていたより整っていた。綴じ紐も切れておらず、頁の隅が揃っている。
「立派な書類ですな」
ローデリックが束をめくる。
「日付も判も揃っております。違法な取引をしている書類には見えません」
「されていないからです」
セレナは一枚を手に取った。
「土地の使用許可も、資材の購入も、人の雇用も、全部合法です。誰も帳簿を隠していません」
「では、罪は」
「危険を知りながら作業を継続したこと。魔獣を意図的に誘導し、周辺住民を危険へ晒したこと。それと、他国の設備を破損したことです」
「立証できますかな」
「三年前の東部廃坑で二人死んでいます。その後も同じ方法を続けています」
セレナは契約書の日付を指した。
死亡事故の三か月後に、次の契約が結ばれている。
「知らなかったとは言えません」
ローデリックが眉を寄せた。
「……それでも、社主が直接命じた記録は出ておりません」
「出ないと思います」
「では」
「現場の判断だった、と言うでしょう。事実、現場の判断だったのかもしれません」
セレナは書類を戻した。誰か一人が悪意を持って全部を動かしたわけではないのだろう。出資が決まり、調査が始まり、成果が求められ、危険が報告され、それでも止める決定が誰の机にも乗らなかった。
王宮の結界局で見たものと、構造が同じだった。
その夜、カイルが資料室へ来た。
机の上には押収した契約書と、両国の記録と、産地の違う金具が並んでいる。
「終わったか」
「終わっていません」
セレナは顔を上げた。
「拘束は終わりました。でも、壊れた基点は戻りません」
「いくつだ」
「今分かっているだけで、両国合わせて九箇所。そのうち四箇所は、外殻を削られています」
「直せるか」
「局所的には直せます。ただ」
セレナは地図へ手を置いた。両国の十四箇所を線で結んだ、あの図の写しだった。
「この網は繋がっています。一箇所を強くすると、別の場所へ負荷が寄ります。九箇所を順番に直すと、直していない場所が先に壊れます」
「全部同時にやるしかないと」
「そうなります。両国で、同時に」
カイルは地図を見た。
「何人要る」
「分かりません」
「期間は」
「分かりません」
「またそれか」
「はい」
セレナは少し笑った。それから、笑いを引っ込めた。
「一つだけ分かっていることがあります」
「言え」
「今の状態のまま夏を越すと、どこかが落ちます。どこかは分かりません」
「王都か」
「可能性はあります」
セレナは地図の南端を指した。線は北部で止まっている。王都まで届いているかどうかは、まだ確かめていない。
「私が渡した資料は、七番塔と北側補助線のものだけです。市街地の外周結界については何も書いていません」
カイルは何も言わなかった。
言うことがなかったのだろう。ここから王都まで馬で五日、書状の往復に十日かかる。今夜できることは一つもない。
「寝ろ」
やがて、それだけ言った。
「はい」
「本当にか」
「……あと十五分だけ」
「リナを呼ぶぞ」
「寝ます」
セレナは帳面を閉じた。
窓の外では、城下の灯りが一つずつ消えていく。南の空は、この距離からでは何も見えなかった。
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