第29話 敵ではない
翌朝、谷底の川原に机が二つ置かれた。
どちらの側でもない中州の砂地で、川幅がいちばん狭くなる場所である。両岸から橋板を渡し、机はその中間に据えられた。護衛は各自五人まで、武器は帯びたまま、ただし二十歩以上離れて立つ。条件を決めるだけで、朝から二刻かかっている。
やり取りは全部、谷を挟んだ旗の合図で行われた。使者を渡らせること自体が交渉になるからだ。ドルフは最後まで渋っていたが、机を二つ置く案が出た時点で折れた。片方だけなら、どちらかが招かれた形になる。
「では、行ってきます」
セレナは工具鞄を肩に掛けた。中身は測定石と記録帳、それと昨夜の金属片だけだ。武器は持っていないが、そもそも持っていても使えない。
「橋は俺が渡る」
カイルが言う。
「机には座らないでください」
「なぜ」
「辺境伯が座ると、領地同士の会談になります。今日は技術の話をしに行くので」
カイルはしばらく黙り、それから頷いた。
「後ろに立つ」
「二十歩下がってください」
「十歩だ」
「……分かりました」
妥協点としては、あまり譲られていない。
*
向こうから渡ってきたのは、四十代半ばの女だった。
灰色の作業着に厚い革の前掛け。肩から下げた鞄は、セレナのものより一回り大きい。髪を後ろで束ね、耳の上に測定用の細針を挿している。現場から直接来た格好だった。
護衛は五人で、全員が彼女より三歩後ろで止まった。守るというより、届く距離を保っている立ち方だ。
「イルゼ・ダールマン」
女は座る前に名乗った。
「ノルトハイム公国、北部境界結界の管理技師です」
「セレナ・アシュフォードです。ヴァレンシュタイン辺境伯領の結界調査・修復顧問をしています」
「アシュフォード。公爵家の」
「はい」
「王宮の結界師だと聞いていましたが」
「以前は」
イルゼは短く頷き、それから机の向こう側へ座った。世間話をする気はないらしい。セレナも同じだった。
「先に一つ確認します」
イルゼが言う。
「昨夜、そちらは白布を出しました。あれは何ですか」
「攻める意思がないという意味です」
「降伏の意味ではなく」
「はい」
「では、なぜ白なのですか。こちらでは白は葬儀の色です」
セレナは一瞬、言葉に詰まった。
考えたこともなかった。
「……存じませんでした。辺境伯の判断です。こちらでは、隠す必要のないものを示す時に使います」
イルゼの口元がわずかに動いた。笑ったのかどうかは分からない。
「昨夜、うちの隊長は『相手の砦で誰か死んだのか』と言っていました」
「それは……申し訳ありません」
「いいえ。結果として矢は飛びませんでした。それで十分です」
彼女は鞄を机へ置いた。挨拶に使う言葉を最初から用意していないらしい。それはこちらも同じだった。
「本題に入ります。そちらの砦の地下で、青い線が出ていますね」
「出ています。四日前から」
「うちは十一日前からです」
セレナは記録帳を開いた。
「場所は」
「南壁の基礎。うちの砦は谷の向こうですから、そちらから見れば北です」
「線の向きは」
「南。そちらへ向かっています」
二人は同時に手を止めた。互いの帳面を覗き込むわけでもなく、目だけが数秒動く。
「……こちらは北へ向かっています」
「では、互いに相手の方を指していることになりますね」
イルゼが指で机の上へ線を引いた。
「両側から中央へ寄っているのか、中央から両側へ広がっているのか。どちらでしょう」
「一拍だけ逆へ振れます」
セレナが言うと、イルゼの目が上がった。
「四拍のうち一拍ですか」
「はい」
「うちも同じです」
二人はしばらく黙った。四拍のうち一拍だけ逆へ振れる現象を、互いに別の国で、別の単位で記録していたことになる。
護衛たちは十歩と二十歩の位置で立ったまま、何が起きているのか分からない顔をしている。橋板の下では、川が浅い音を立てていた。
「ダールマン技師」
「イルゼで構いません。ここに他のダールマンはいませんから」
「では、イルゼさん。先にこちらの記録をお見せします」
セレナは鞄から記録帳を出し、机の中央へ置いた。
イルゼが片眉を上げる。
「先に、ですか」
「はい」
「条件は」
「ありません」
「……理由を聞いても」
「そちらの記録がなければ、こちらの数字の意味が分からないからです」
セレナは頁を開いた。
「私が持っているのは、ヴァレンシュタイン領内の五箇所分です。城の地下、裂け谷、旧監視塔、厩舎の下、そして砦。周期は同じですが、五つとも同じ方向へ向いてはいません」
「なるほど」
「網の形が読めません。国境から向こうが見えないので」
イルゼは記録帳を引き寄せ、しばらく読んだ。読み方が速い。数値の列を上から下へ舐めるのではなく、二列を並べて差を見る目の動かし方をしている。
やがて彼女は自分の鞄を開け、革表紙の帳面を出した。
「うちは九箇所です」
机の上で、二冊が並んだ。
*
午前の残りは、ほとんど言葉を使わなかった。二人が交互に数字を読み上げ、相手が自分の帳面へ書き込む。
単位が違ったので、最初の四半刻はそれを揃えることに使った。ノルトハイムでは流量を「毎刻あたりの銀線一尺の発熱量」で表す。セレナの記録は魔晶石の偏角だった。同じ現象を測っているのに、片方は熱で、片方は角度で書いている。
「換算表を作りましょう」
「作れますか」
「両方の数値がある地点が一つあれば」
結局、砦同士の距離を挟んで一箇所だけ条件が近い基点が見つかり、そこを基準にして粗い換算ができた。
午を過ぎた頃、机の上に十四箇所分の位置と向きが並んだ。
イルゼが紙を回し、自分の側から線を引き始める。セレナも反対側から引いた。二本の線が中央で交わり、そこから枝が伸びる。
「……一つの網ですね」
「はい」
イルゼは筆を置き、しばらくその図を見ていた。
「国境が引かれたのは百二十年前です」
「こちらの記録では百十八年前でした」
「二年は誤差にしましょう。どちらにせよ、この網はそれより古い」
「二百年以上前だと考えています」
「同じ見立てです」
イルゼは椅子の背へ寄りかかった。
「つまり、うちの砦の下にある基点と、そちらの砦の下にある基点は、同じ設備の一部だった。国境は後から人間が引いた」
「そうなります」
「厄介ですね」
「はい」
二人とも、それ以上は言わなかった。どちらの国が壊したかを問う話ではなくなっている。壊れているのは、どちらの国のものでもない設備だった。
国境が引かれた時、この網のことを考えた人間はいなかったのだろう。谷の川を境にすると決めた者は、その下を横切る溝を知らなかった。
午後、セレナは布の包みを机へ置いた。
「昨夜、砦の地下で見つけたものです」
金具が三つと、削られた金属片が一つ。イルゼは布を開き、金具を一つずつ手に取ってねじの切り方を確かめた。指の腹で溝を数える手つきが速い。
「西部規格。これは南の……ラウテ地方ですね。三つ目は分かりません」
「産地が違います。同じ現場から出ました」
「ばらしていますね」
即答だった。
「分かりますか」
「うちでも似た話があります。三年前、東の廃坑で古い基点が壊された時、部材が四つの産地に分かれていました。犯人は分かりませんでした」
セレナは記録帳へ書き留めた。三年前。裂け谷で白い布を結んだ日より、ずっと前になる。
「これは」
イルゼが最後の金属片を取り上げた。削り跡へ指を這わせ、それから光へ透かす。
彼女の手が止まった。
「これは、どこで」
「砦の地下です。何か分かりますか」
「番号は読めません。ですが、枠が読めます」
イルゼは金属片を机へ置き、削り残った線を指でなぞった。
「この二重枠と、右下の切り欠き。これは王国の官庁納入品の形式ではありません」
「え?」
セレナは身を乗り出した。
「王宮結界局へ納入する資材には、この枠が入ります」
「入ります。ですが、局納入品は右下が丸いはずです。これは角が落ちている」
イルゼは自分の鞄から小さな革帳を出し、数枚めくった。中には、金具や刻印の押し型が並んでいる。
「ここです」
示された頁に、同じ形の枠があった。
その下に、彼女の国の文字で説明が書いてある。
「何と書いてあります?」
「大量取引向けの識別枠、とあります。うちが王国から結界資材を買う時、この枠のものが来ます。局を通した官庁納入品ではなく、商会が直接扱う流通品です」
セレナはしばらく動かなかった。局納入品ではない。その一点だけで、追う先が国から会社へ移る。
「……商会」
「はい。王都に本店がある魔晶石商会です。うちの国では二つ知られています。どちらも大きい」
イルゼは金属片を指で弾いた。
「番号を削るのは、局納入品なら意味があります。局の帳簿と照合されるからです。ですが、これは商会の流通品です。削っても、商会の帳簿には残ります」
「では、なぜ削ったのでしょう」
「削った人間が、そこまで知らなかったのだと思います」
その答えは、あまりに具体的だった。
「現場で作業した人間は、番号があれば消すよう言われただけでしょう。どこの帳簿に載るかまでは教わっていない」
セレナは、裂け谷で捕らえた男たちを思い出した。
赤い印を追う者。黒い印を知る者。粉を撒く者。全員が全体像を知らないように作られていた。糸を一本切っても、隣の糸には届かない編み方。
その編み方の、いちばん下の層だったのだ。番号を削れと言われた者は、削れば消えると思っていた。実際には、消えるのは局の帳簿との照合だけで、売った側の記録は残る。
「イルゼさん」
「何ですか」
「今の話を、書面にしていただけますか」
技師は少し考えた。
「私の名前で、ですか」
「はい」
「それは、うちの国が王国の商会を名指しすることになります」
「なります」
「軍が喜びます」
イルゼは金属片を見たまま言った。
「うちの軍は、そちらの工作だと三週間前から言っています。これを出せば、今度は逆に、そちらの商会が国境を荒らしていたという話になる。どちらにしても、誰かが得をします」
「そうですね」
「あなたは、それでいいのですか」
セレナは机の上の図を見た。
国境をまたいで一つに繋がった網。二百年前の誰かが引いて、今は誰も全体を見ていない設備。
「よくありません」
率直に答えた。
「ですが、名前を書かなければ、番号も枠も『たぶんそうだろう』で終わります。三年前の東の廃坑と同じです」
イルゼの視線が上がった。
「痛いところを突きますね」
「すみません」
「いえ。あの時、私は報告書へ『出所不明』と書きました。それ以上は調べようがなかった」
彼女は帳面を閉じた。三年前に書いた「出所不明」の四文字を、今も覚えているらしい。書いた本人しか覚えていない種類の四文字だった。
「条件を一つ」
「どうぞ」
「共同調査にしてください。私の名前だけでは出しません。両国の技師が同じ現場を見て、同じ結論を書いた形にします」
「こちらは構いません。ただ、決めるのは私ではなく――」
「辺境伯閣下ですね」
イルゼは十歩後ろへ視線を投げた。
「先ほどから、一言も口を挟まずに立っておられますが」
「聞こえてます」
カイルが答えた。
「共同調査、構いません」
「早いですね」
「彼女が必要だと言った」
イルゼはしばらくカイルを見ていた。領主が技師の判断へ即答したことを、どう扱うか決めかねている顔だった。それからセレナへ視線を戻す。
「……珍しい方ですね」
「よく言われます」
「いえ。あなたのことです」
技師は机の上の二冊の帳面へ手を置いた。
「私は十九年この仕事をしています。国境を挟んで相手の技師と話したのは、今日が初めてです。今まで、うちからも、そちらからも、来たのは軍人と外交官だけでした」
「話が通じませんでしたか」
「通じました。ただし、地面の話は一度もしませんでした」
イルゼは自分の帳面を鞄へ戻し、セレナの記録帳を机の中央へ押し返した。
「あなたが先に出したので、私も出しました。順番が逆なら、私は出していません」
「賭けではありました」
「賭けではありませんよ」
技師は立ち上がった。
「そちらの数字がなければ、こちらの数字の意味が分からない。あなたは最初にそう言った。あれは正しい。私も同じ状態でしたから」
彼女は右手を差し出した。
「共同調査の第一回は、五日後でどうですか。うちの砦の地下をお見せします」
セレナはその手を取った。革の前掛けと同じで、乾いて硬い手だった。指の付け根に、銀線を扱う者特有の細い傷が何本も走っている。自分の手にも同じ場所に同じ傷があった。
*
橋板を渡って戻る途中、カイルが横へ並んだ。
「終わったか」
「始まりました」
「そうか」
川原の砂が靴の下で鳴る。対岸では、イルゼの護衛が机を片づけ始めていた。二つの机はそのまま中州へ残していくらしい。五日後にまた使うからだろう。
誰も口には出さなかったが、あの二つが置かれている限り、この谷では矢を射にくくなる。
「一つ、伺ってもいいですか」
「言え」
「白布は、あちらでは葬儀の色でした」
「聞こえてた」
「ご存じでしたか」
「知らなかった」
カイルは前を向いたまま答えた。
「だが、矢は飛ばなかっただろ」
「飛びませんでした」
「なら、次から色を変える」
それだけだった。
間違いを認めることに、この人はほとんど時間を使わない。次にどうするかを言って終わる。
セレナは鞄の中の記録帳を意識した。イルゼが読み、書き込み、押し返してきた帳面だ。同じ頁に二種類の筆跡が混ざっている。
王都の商会。削られた枠。三年前の東の廃坑。
まだ何も証明されていない。ただ、昨日まで「隣国の工作」だったものが、今日は「両国の技師が調べる対象」になった。
その差は、白布一枚と、先に開いた記録帳一冊分だった。
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