第28話 北の砦
クレーヴェ砦からの急報が届いたのは、ラングレー子爵の馬車が城を出た四日後だった。
伝令は夜明け前に着いた。北の国境を守る砦の守備隊から、騎馬で二日かけて来ている。馬を三度替えたと言うので、書面ではなく口で伝えろと命じられたのだろう。
「北壁の下で、地面が光っています」
男は立ったまま報告した。目の下が黒い。
「光る、というと」
セレナは寝間着の上へ外套を羽織ったまま、地図を広げていた。
「夜になると、石畳の継ぎ目から青い線が浮かびます。四日前からです。最初は誰かが灯りを落としたのかと思ったんですが、消えません」
「昼は」
「見えません」
「線の向きは」
伝令が少し詰まった。
「……北です。国境の方へ、まっすぐ」
その一言で、部屋の空気が変わった。ローデリックが顔を上げ、カイルが地図の北端へ指を置く。
「ドルフは何と言ってる」
「隊長は、ノルトハイム側からの干渉ではないかと」
「根拠は」
「線が向こうへ伸びています。それと、先月から国境沿いの巡回が増えているそうです。向こうの兵の数が」
カイルは何も言わなかった。
セレナは地図の上で、クレーヴェ砦と裂け谷、監視塔、城の地下を目で結ぶ。古い領内図に描かれていた線が、そのまま北へ抜けている。
「行きます」
「二日かかる」
「はい。準備を」
「石工は」
「二人。それと測定役を二人、ガルトも。砦の周りの獣道を見たいです」
誰を連れるかを言うだけで話が進む。半年前なら、なぜ必要かの説明から始めていた。カイルは頷き、それから伝令へ向き直った。
「先に戻れ。ドルフに伝えろ」
「何と」
「国境を越えるな。矢も射るな。俺が着くまで動くな」
伝令の顔がわずかに強張った。命令の内容ではなく、その念の押し方に対してだった。
*
クレーヴェ砦は、切り立った岩尾根の鞍部を塞ぐように建っていた。
高さは城壁より低いが、厚みがある。北側は谷を挟んで向かいの尾根まで見渡せ、そこから先がノルトハイム公国だった。国境と呼ばれてはいるが、線が引いてあるわけではない。谷底を流れる川が、便宜上その役を務めている。
二日の道中、空は晴れていた。着いた日の夕方も雲はなく、谷を渡る風だけが冷たい。城下より二百歩ぶんは高いという話だった。
守備隊長のドルフは四十過ぎの太い男で、カイルより頭ひとつ低いが肩幅は倍近くある。二十年この砦にいるらしく、石段の欠けた場所を見ずに避けて歩いた。
「辺境伯様。よくぞ」
「線を見せろ」
「日が落ちてからでないと出ません。ただ、その前に申し上げたいことが」
ドルフは北の谷を指した。
「向こうの動きが、明らかに変わっています。三週間前から巡回の回数が倍。今朝も尾根の上に人が立っていました」
「見張りだろ」
「見張りにしては、この砦を見すぎです」
「こちらも見ている」
カイルの返事は短かった。
ドルフは一度言葉を止め、それからセレナへ視線を移す。
「アシュフォード様。地面が光るというのは、術としてあり得ますか」
「あり得ます」
「では、あれは何かを送っているのでは」
「まだ分かりません」
「しかし、向きが北です」
「向きが北であることと、北から来ていることは違います」
ドルフの眉が寄った。
「同じでは」
「水路の話をします」
セレナは足元の石畳を指した。
「この下を水が流れているとして、北へ流れているのが見えたとします。それは、南に水源があるからかもしれませんし、北で誰かが汲んでいるからかもしれません。向きだけでは決まりません」
「では、どうやって決めるんです」
「掘ります」
ドルフはしばらくセレナを見ていた。納得したというより、この場で反論する材料がないと判断した顔だった。二十年国境を見てきた人間にとって、北を指す線が北から来ていないという話は、そう簡単に飲めるものではないだろう。
*
日が落ちると、線は本当に浮かんだ。
北壁沿いの石畳、その継ぎ目に沿って、細い青が伸びている。幅は指一本ほど。強く光るわけではなく、暗さに目が慣れて初めて見える程度だった。
セレナは膝をつき、手袋を外して石へ触れる。
冷たい。ただ、指の下で脈がある。城の地下で初めて触れた時と同じ、皮膚のすぐ内側を細い水が通っていくような感触だった。
「古代網です」
「間違いありませんか」
ローデリックが尋ねる。
「周期が同じです。城の地下、裂け谷、監視塔と」
測定石を継ぎ目へ近づけると、内部の光が北へ偏った。ただし一定ではない。四拍のうち一拍だけ、逆へ振れる。
「押し戻されています」
「何にです」
「北側の何かに」
ドルフが背後で息を吸う音がした。
「では、やはり」
「まだです」
セレナは立ち上がり、砦の内側を見回した。
「北壁の下に、地下へ降りる道はありますか」
「排水路がありますが、二十年は誰も入っていません」
「入ります」
「今からですか」
「夜の方が線が見えます」
*
排水路は狭く、腰を屈めなければ進めなかった。石工が先に入り、天井の状態を確かめる。崩落の危険はないが、床に土砂が溜まって足首まで埋まる箇所があった。空気は冷えていて、上の砦より数度低い。二十年ぶんの落ち葉が奥で腐り、湿った土の匂いが濃かった。
二十歩ほど進むと、壁の一部に古い魔力溝が現れた。
石に彫った幅広の溝。角が丸く、長い年月をかけて魔力に舐められている。城の地下や監視塔と同じ形式だった。
「繋がっていますね」
セレナは溝へ指を当てる。
流れは弱い。だが、確かに北へ向かっている。
さらに進み、排水路が北壁の基礎に接する場所で、石工が松明を止めた。
「アシュフォード様。ここ、掘られてます」
基礎石の一つが外され、その奥の土が新しかった。周囲は黒く湿っているのに、そこだけ茶色い。
セレナはしゃがみ、慎重に土を払った。
銀線が出てくる。
「切られています」
断面が平らで、光沢が残っていた。自然劣化なら細く痩せてから切れ、断面はざらついて周囲が変色する。これは一度で断ち切られている。そして、切った先が別の導線へ繋ぎ直されていた。
「裂け谷と同じです」
「同じ人間がやったと」
ドルフが後ろから言う。
「同じ手口です。人間が同じかは分かりません」
セレナは繋ぎ目の固定金具を確かめた。黒い鉄製。錆は表面だけで、角も潰れていない。
ただし、前と違うところがあった。
「これは王都式ではありません」
「では」
「西部の規格です。ねじの切り方が違います」
さらに二歩先で、石工がもう一つの金具を見つけた。
「こっちのは形が違いますね」
三つ目は、また別だった。
セレナは三つを松明の下へ並べた。ねじの間隔も、頭の潰し方も揃っていない。同じ日に同じ場所で使われたとは思えない三つだった。
「産地が違います。三つとも」
「同じ現場で?」
「はい」
ローデリックが眉を寄せる。
「妙ですな。同じ工事なら、同じところから買った方が安い」
「安いです」
セレナは頷いた。
「わざと分けています」
「なぜ」
「一つ見つかっても、そこから辿れないようにするためです」
排水路が静かになった。
ドルフが低い声で言う。
「では、これは軍の仕事ではないと」
「軍なら、こんな面倒はしません」
セレナは金具を一つ手に取り、松明へ近づけた。
「軍が国境で工作するなら、見つかった時に否定できればいい。産地を三つに分ける必要はありません。これは、**見つかった後も追われたくない**人間のやり方です」
排水路の壁を照らし直していた石工が、足元から別の破片を拾い上げた。
「これ、削ってありますよ」
小さな金属片だった。片面に刻印があったはずの場所が、粗い工具で削り取られている。
セレナは角度を変えて松明の光を当てた。
削りきれていない部分に、数字の下半分と、独特の枠線が残っている。
その形に、覚えがあった。
「……管理番号です」
「何のですか」
「王都の結界資材流通で使われる形式です。王宮結界局へ納入する資材には、必ずこの枠で番号が入ります」
ドルフが言葉を失った。
「王都の、ですか」
「はい」
「では、こちらの側から」
「そこまでは言えません」
セレナは破片を布へ包んだ。
「この形式の資材は、王都の商会が扱っています。局へ納めるものだけではありません。誰が買ったかは、番号が読めなければ分かりません」
王都で十年、申請書の裏に押された納入印を数えきれないほど見てきた。あの枠だけは、形を覚えている。
「読めるようにできますか」
「削り跡から復元できる場合があります。城へ持ち帰って試します」
地上へ戻ると、砦の空気が変わっていた。
北壁の上に人が集まり、松明を谷の向こうへ向けている。
「対岸に灯りが増えました」
見張りの兵が報告する。
「二十以上。動いています」
ドルフが階段を駆け上がった。セレナとカイルも続く。
谷の向こう、ノルトハイム側の尾根に、確かに灯りが並んでいた。数は増え続けている。
こちらの砦が夜半に人を動かし、地下へ入り、松明を持って壁の上へ出たのだから、向こうから見れば異変だった。四日前から地面が光っている砦が、急に動き出したことになる。
「隊長、弓を」
「待て」
ドルフが止めたが、その手は柵を強く握っている。
「辺境伯様。向こうが渡ってくる場合は」
「渡らせるな。射るな」
「両方は難しいかと」
「難しいのは知ってる」
カイルは谷を見たまま答えた。
セレナは灯りの並びを数えていた。二十四。ばらつきなく、等間隔に並んでいる。
「あれは兵ではありません」
全員が振り向いた。
「なぜ分かる」
「間隔が揃いすぎています。兵なら地形に合わせて散ります。あれは、線を作っています」
「線?」
「灯りを一定間隔で置いて、何かの位置を確かめているように見えます。測量か、範囲の確認か」
セレナは測定石を掲げた。谷を挟んでいるので数値は取れないが、地面の脈は届く。
北へ向かっていた流れが、対岸の灯りが並んだ位置で止まっていた。
「向こうも、同じものを見ています」
「同じもの、とは」
「地面の光です」
ドルフが柵から手を離した。
「……向こうの砦の下でも、光っていると」
「その可能性があります」
セレナはカイルを見た。
「渡らせるのではなく、こちらから伝えられませんか」
「何を」
「地面が光っている理由を、こちらも知らない、と」
カイルは数秒黙り、それから兵へ向いた。
「白布を出せ。長いやつだ」
「白布ですか」
「砦の壁へ垂らす。松明で照らせ」
ドルフが目を見開いた。
「降伏の合図に見えます」
「見えていい」
カイルは谷の向こうを見たまま言った。
「攻めないと分かればいい」
白い布が壁面へ垂らされ、松明の光が当てられた。夜の岩壁に、細長い白が浮かぶ。
対岸の灯りが、しばらく動かなかった。
やがて、一つが左右へゆっくり振られた。二度、三度。それから、灯りの列が少しずつ後ろへ下がっていく。等間隔のまま、順序も崩さずに退いていった。
ドルフが長く息を吐いた。
「……止まりましたな」
「今夜はな」
カイルは柵から手を離した。
「明日、向こうへ人をやる。話をする」
「誰を送るんです。あちらの言葉が分かる者は砦に二人しか」
「言葉より、地面の話が通じる人間を送る」
カイルはセレナを見なかった。見る必要がなかった。
セレナは布に包んだ金属片を握り直した。
削られた管理番号。産地の違う三つの金具。国境を越えて伸びる青い線。
まだ何も繋がっていない。証拠と呼べるものは、削り残った枠線が半分と、産地の違う金具が三つだけだ。
ただ、二日前まで「隣国の工作」の一言で片づきかけていたものが、今は片づかなくなっている。片づかないというだけで、まだ誰も矢を射ていない。
それだけは前進だった。
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