第27話 使者の帰路
北街道へ伝令が駆け込んできたのは、王都の馬車が城を出て二刻ほど経った頃だった。
その日、セレナは資料室にいた。ラングレー子爵へ渡した綴りの控えを整理し、どの記録をどの順で照会されそうかを想定して付箋を挟んでいる。書面での問い合わせが来るなら、探す時間を減らしておいた方がいい。
窓の外では、朝から曇っていた空が少しずつ低くなっていた。北の山にかかる雲が灰色に膨らんでいる。
「アシュフォード様」
扉が開き、騎士が息を切らして立った。
「第三分岐で、王都の馬車が足止めされています。岩猪です」
セレナは付箋を挟んだまま顔を上げた。
「何頭ですか」
「四頭。うち一頭が大型だと」
「馬車は」
「一台が横倒しになったそうです。人は無事ですが、街道を塞がれて動けません」
場所を頭の中で地図へ落とす。第三分岐は城から馬で四十分ほど、街道が森の縁を掠める区間だった。春の巡回で結界杭を確認した記憶がある。異常はなかった。
岩猪は北部の低山に棲む大型魔獣で、背から肩にかけて岩のような角質板を持つ。動きは速くないが、まっすぐ突進すれば荷馬車を横へ飛ばす。厄介なのは、その板が剣を通しにくいことだった。
「行きます」
立ち上がると、廊下からカイルの声がした。
「もう出る」
扉の外で剣帯を締めながら、こちらを見ずに言う。
「騎士六人と、君と、医師を一人。石工は要らない」
「銀杭を多めに持ちます」
「馬は用意させた」
説明も確認もない。四十分の距離で岩猪四頭なら、必要なものは互いに分かっている。
セレナは工具鞄を掴み、走った。
*
現場へ着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
街道の中ほどで、王都の馬車が一台横倒しになっている。車体の側面が大きく凹み、荷が路上へ散らばっていた。二台目は無事だが、その前後を岩猪が塞いでいる。
護衛の六人は二台目を背にして剣を構えていた。うち一人が肩を押さえている。
岩猪は四頭。三頭は成獣で、肩の高さが人の腰ほど。最後の一頭だけが大きく、背の角質板が横へ張り出して幅が倍近くあった。
その大型が、街道の中央に立ったまま動かない。
「斬れないんです」
護衛の一人が叫んだ。
「背中に当たると刃が跳ねます。何度やっても同じで」
「腹は」
カイルが尋ねる。
「下へ潜る隙がありません。あれが動くと、こちらが吹き飛ばされます」
セレナは馬から降り、街道の幅を測った。
道は荷馬車二台がすれ違える程度。左は斜面、右は森の縁。大型が中央を占めている限り、二台目は前にも後ろにも動けない。
「カイル様」
「言え」
「正面から斬らないでください」
護衛の何人かが、こちらを振り返った。辺境伯へ向けた指示だったからだ。
カイルは足を止めもしない。
「どうする」
「斜面側へ寄せます。あの体格なら、傾斜で足を取られます。板が重いので、体勢を崩したら自分では戻せません」
「腹が出るか」
「出ます。ただ、寄せている間は誰も前へ出ないでください。押し返された時に人がいると、そちらへ倒れます」
「聞いたか」
カイルが背後へ声を投げた。
「彼女の言う通りに動け」
護衛たちが一瞬固まった。命令の出所が誰なのか、理解が追いついていない。
「早くしろ」
その一言で、六人が下がった。
セレナは路肩の土を手袋越しに押す。街道の中央は踏み固められて硬いが、斜面寄りは雨で緩んでいた。杭が入る。
銀杭を四本、扇状ではなく一列に打った。
「膜を壁として使いません」
カイルへ向けて言う。
「正面をわずかに斜めにします。真っ直ぐ来た力を、斜面側へ滑らせる形です」
「ぶつかった時は」
「押し返しません。逸らすだけなので、私は持ちます」
魔力を流すと、街道を斜めに横切る薄い膜が立ち上がった。壁というより、水を分ける板に近い角度だった。
成獣の一頭が動く。
「来ます」
突進した岩猪が膜へ当たり、角質板が青白い面を滑った。まっすぐ進んだはずの体が、斜面側へ半歩ずれる。
ずれた先で、片方の前足が緩んだ土を踏んだ。
崩れる。
「今です」
カイルが踏み込んだ。倒れた岩猪の腹側へ剣が入り、動きが止まる。
二頭目も同じだった。三頭目は途中で気づいて速度を落としたが、そこへ騎士が槍を入れて足を止めた。
残るは大型一頭。
その一頭は、突進しなかった。
膜の手前で立ち止まり、頭を低くしたまま動かない。仲間が倒れた場所を見ている。
「学習しました」
セレナが言う。
「賢いのか」
「経験を覚える程度には」
「じゃあ、どうする」
「膜を消します」
カイルが初めてこちらを見た。
「消す?」
「進路が塞がれているから止まっています。開ければ通ろうとします」
「通った先は」
「斜面です。角度を変えて、開いた場所をそこへ向けます」
セレナは中央の二本だけ魔力を落とした。
膜に、岩猪一頭がやっと通れる幅の切れ目ができる。
大型が頭を上げた。数秒迷い、それから歩き出す。突進ではない。慎重に、開いた場所へ体を入れてくる。
角質板が切れ目を抜けた瞬間、セレナは残した二本の出力を上げた。
切れ目の向こう側で、膜が斜めに立ち上がる。
通り抜けた勢いのまま、大型の体が斜面側へ押し出された。緩んだ土の上で四本の足が滑り、重い体が横へ倒れる。
板の下から、白い腹が見えた。
「カイル様!」
「見えてる」
一撃だった。
大型の体が動かなくなると、街道が急に静かになった。荒い息と、遠くで鳥が飛び立つ音だけが残る。
セレナは杭を抜き、魔力を落とした。指先から張り詰めていたものが抜けていく。膝は揺れなかった。
街道の土には、岩猪が滑った跡が斜めに四本走っている。膜のあった線が、そのまま地面へ写し取られていた。
二台目の馬車の扉が開いた。
ラングレー子爵が降りてくる。参事官らしい落ち着きを保とうとしていたが、踏み台の位置を一度踏み外しかけた。
「……全員、無事でしょうか」
「護衛の方が一人。肩を打っています」
医師がすでに診ていた。骨には異常がない。
「馬車は」
「一台は使えません」
カイルが答え、横倒しの車体を蹴った。
「軸ごと折れてる。城下の職人でないと直らない」
「では、我々は」
「城へ戻る。明日、別の馬車を出す」
ラングレーは一度口を開き、それから閉じた。断る理由を探して、見つからなかったらしい。
セレナは倒れた大型のそばへしゃがみ、角質板の縁を確かめていた。厚さは指四本分ほどある。剣が跳ねるのも当然だった。
「この時期に、この大きさは多いですか」
騎士の一人へ尋ねる。
「大型は珍しいです。普通は山から下りてきません」
「餌が減った可能性は」
「あるかもしれませんが、そこまでは」
「分かりました。明日、この区間の結界杭と、森側の獣道を見ます」
記録帳へ書き込んでいると、後ろに人の気配があった。
ラングレーが立っている。
「令嬢」
「何でしょう」
「先ほど、閣下へ指示を出されましたね」
「はい」
「正面から斬るな、と」
「板が厚いので」
「閣下は従われました」
セレナは筆を止めた。子爵が何を確かめようとしているのか、まだ分からない。
「結界と魔獣の動きに関わる現場では、私が判断すると決まっています。契約書に書いてあります」
「書いてある、というだけで従うものでしょうか」
「従わない理由がないからだと思います」
ラングレーはしばらく黙り、それから馬車の残骸へ目を向けた。
「私は昨日、あなたへ王家の命令だと申し上げました」
「はい」
「それでも、あなたは動かなかった」
「はい」
「今日は、閣下が一言で動かれた」
子爵は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続けた。
「命令の形式ではなく、判断の中身で人が動いている。……そういうことでしょうか」
「そこまで大きな話ではありません」
セレナは大型の角質板へ触れた。
「私が正しかったのは、この板の厚みを測ったことがあるからです。それだけです」
「測ったのはいつです」
「昨年、辺境伯領の記録を読んだ時に。実物は今日が初めてです」
ラングレーが軽く目を見開いた。
「読んだだけで」
「読んで、覚えていました。現場で確かめられたのは今日が最初です」
子爵は返事をしなかった。
*
城へ戻ったのは、完全に日が落ちてからだった。
護衛は医務室へ、ラングレーは客間へ通された。厨房が急いで夕食を用意し、騎士たちが装備を洗っている。城の中はいつもの襲撃後と同じ動き方をしていた。
食堂へ入ると、リナがすぐパンを寄せてきた。
「食べていませんね」
「朝は食べました」
「昼の話をしています」
「……いただきます」
向かいでカイルが豆の煮込みを食べている。
「明日、第三分岐を見ます」
「石工は」
「今回は要りません。森の側を見たいので、ガルトを」
「呼ぶ」
それだけで話が終わる。
少し離れた席で、ラングレーが一人で食事をしていた。参事官の服のまま、黒パンと豆の煮込みを前にしている。王都の高位官僚が北の城で出されるものとしては、飾りのない献立だった。
彼はしばらく手をつけず、周囲を見ていた。
長机には騎士も文官も同じように座り、上座には誰もいない。今日街道にいた騎士の一人が、隣の男へ何か話して笑っている。ラングレーの見ている前で、その男は自分の皿を厨房へ返しに行った。
王宮の晩餐なら、皿の数と席順で誰が何番目かが分かる。ここではそれが分からない。分からないことに、彼はしばらく戸惑っていたようだった。
やがて、参事官はゆっくり匙を取った。
*
翌朝、修理を終えた馬車が城門の前に用意された。
ラングレーは昨日より軽装で、革鞄だけを抱えている。セレナが渡した綴りは、荷の一番上に紐で括られていた。
「令嬢。ご迷惑をおかけしました」
「街道は元々あの状態です。子爵のせいではありません」
「それでも、助けていただきました」
ラングレーは一度言葉を切り、それから続けた。
「一つ、報告に加えたいことがあります」
「私の許可が要るものですか」
「あなたのことなので」
セレナは少し考え、頷いた。
「どうぞ」
「王宮では、あなたの魔法について『攻撃力を持たない』と説明されております」
「存じています」
「六年前、その一文を含む結界局の人員評価書に、私が判を押しました」
朝の風が城門の下を抜けた。
セレナはすぐには言葉が出なかった。責められているわけでも、謝られているわけでもない。ただ、事実が置かれている。
「……覚えていません」
「私が覚えています」
ラングレーは革鞄の角を握った。
「あの時、私は現場を見ておりませんでした。局から上がった書式を読み、記載の不備がないことを確認して判を押しました。手続きとしては正しい」
「はい」
「昨日、私は馬車の中から外を見ておりました。閣下の剣が跳ね返されるところも、あなたが膜の角度を変えるところも見えました」
子爵は、そこで初めてセレナを正面から見た。
「攻撃力を持たない、という記載は誤りではありません。ですが、あれを読んで判断する人間は、昨日のような場面を想像しません」
「そうだと思います」
「私も想像しませんでした」
ラングレーは短く息を吐いた。
「報告書には、昨日起きたことをそのまま書きます。誰が何を言い、誰がどう動いたか。評価は書きません」
「その方が助かります」
「はい」
子爵は馬車へ乗り込み、それから窓越しに一度だけ頭を下げた。
馬車が動き出す。北街道を南へ、五日かけて王都まで戻る。あの綴りが結界局の机へ届くのは、その先だ。
城門の内側で、カイルが横に立った。
「変わったな」
「そうでしょうか」
「一昨日は君を命令で動かそうとしてた」
「命令は殿下からです。子爵は伝えただけです」
セレナは南へ続く街道を見た。
「それに、まだ何も変わっていません。報告書が一通、王都へ行くだけです」
「十分だろ」
「そうですか」
「見た人間が書く。前は見てない人間が書いてた」
言われてみれば、その違いは小さくない。
十年間、王都で自分の仕事を書き記していたのは、現場へ来たことのない人たちだった。だから「攻撃力を持たない」という一行で足りてしまった。誰も嘘は書いていない。ただ、誰も見ていなかった。
馬車が街道の曲がりで見えなくなる。
セレナは城門を離れ、旧兵舎の方へ歩き出した。今日は第三分岐の結界杭を全部見て、そのあと授業で使う項目を仕上げる。石の底を見る話の続きだった。
「アシュフォード」
後ろからカイルが呼んだ。
「はい」
「今日は昼を食え」
「……努力します」
「努力じゃない」
その返事だけは、昨日から変わっていなかった。
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