第26話 王太子の使者
王都の使者が城門をくぐった時、セレナは旧兵舎で石の割れ方を説明していた。
教室には八人が座っている。各村の保守担当が四人、城下の石工が二人、騎士団から一人、それにハインツが連れてきた若い男が一人。机は六つしかないので、後ろの二人は椅子だけで聞いていた。
壁際には交換済みの結界石が三つ並べてある。全部廃材なので、割っても叩いても構わない。
「こちらは放置して結構です」
セレナは一つ目を指した。
「表面だけの傷です。雨水が入るほど深くありませんし、術式の溝にも届いていません」
「見分け方は」
石工の一人が尋ねる。
「指の腹を当てて、引っかかるかどうか。爪が入るなら記録してください」
二つ目の石を叩くと、鈍い音がした。三つ目は同じ強さで叩いても、少し高い音が返る。
「今の違いが分かりましたか」
「高い方が悪いのか」
「はい。中に空隙ができています。外からは見えません」
ハインツが後ろで大きく頷いた。この老人は四十年石を見てきたが、音で判断することは知らなかったらしい。
「音だけで分かるなら、道具が要らんな」
「目安にはなります。ただ、音だけで交換を決めないでください。必ず測ってから」
その時、扉が開いてリナが顔を出した。
「お嬢様。城門に王都の馬車が来ています」
教室が静かになった。
セレナは石を置き、手袋を外す。
「何人ですか」
「馬車が二台、護衛が六人。参事官の方だそうです」
参事官。書記官ではなく、王太子府で実務の判断ができる位置の人間だ。二週間前に出した返書へ、書面ではなく人を寄越したことになる。
「ローデリック様は」
「もう門へ。辺境伯様も出ておられます」
「分かりました」
セレナは教室を見回した。八人が全員、こちらを見ている。
「すみません。続きは夕方でもよろしいですか」
「構いませんよ」
ハインツが答えた。それから、少しだけ声を落とす。
「石は逃げん。ゆっくりやってこい」
その言い方に、セレナは一度だけ息を整えることができた。
*
使者は王太子府参事官、ラングレー子爵と名乗った。
四十代半ばの細身の男で、五日の旅程を終えたばかりとは思えないほど襟元が整っている。案内された謁見の間に入ると、勧められる前に椅子の位置を確かめ、それから腰を下ろした。座る順番を自分で決める人間の動きだった。
上座にはカイル。ローデリックはその斜め後ろに立ち、セレナは向かい側へ座る。
「アシュフォード公爵令嬢。息災で何よりです」
「ラングレー子爵。北部までご苦労さまです」
「苦労はいたしません。務めですので」
子爵は革鞄から一通の書状を出し、机の中央へ置いた。封は切られていない。
「先日、殿下より帰還を命じる書状が届いたものと承知しております」
「はい」
「それに対し、応じられぬというご返答をいただきました」
「はい」
「本日は、その撤回を求めて参りました」
撤回。交渉ではなく、こちらの回答そのものを誤りとして扱う言い方だった。書状を持ってきた人間が最初に使う語ではない。
「理由をお聞かせいただけますか」
「理由は書状に記されております」
「私は、その理由に対して回答を書きました」
ラングレーの視線がわずかに上がる。
「令嬢。これは通常の業務依頼ではありません」
「では何でしょう」
「王家の命令です」
部屋の空気が硬くなった。ローデリックが書類の角へ指をかけたまま動かない。カイルは肘掛けへ腕を置いたきり、姿勢を変えていなかった。
セレナは膝の上で手を組んだ。
「命令であれば、なおさら中身を伺いたいのですが」
「中身、とは」
「私が王都で何をするのか、という話です。職位、権限の範囲、期間、報酬。この四つが書状にありませんでした」
「そういったものは、王都へ戻られてから詰めればよろしい」
「詰められませんでした」
セレナは静かに答える。
「十年間、詰められないまま働きました。辞令も俸給もなく、王太子殿下の婚約者という立場だけで王宮の結界を直していました。同じ形へ戻るなら、四つとも決まっていない状態で行くことになります」
「今回は殿下直々のご要請です。以前とは扱いが違います」
「扱いが違うなら、なおさら書面に書けるはずです」
ラングレーは一度だけ口を閉じた。要求を通す道が塞がったので、別の入口を探している。王宮でこの手の切り替えを何度も見てきた。
「令嬢。王都北部の外周結界は不安定なままです。市場に魔獣が入り、市民が不安を抱えております。あなたが戻れば収まる問題を、あなたが戻らぬというだけで放置することになる」
「収まりません」
「なぜです」
「北側補助線の流量変化は、七番塔の交換手順を守れば当日は収まります。ですが原因は、増えた地脈の分を逃がす迂回線がないことです。恒久工事の申請は四年前から出しています」
「その申請なら、私も見た記憶があります」
「では、なぜ通っていないかもご存じかと」
ラングレーは答えなかった。
「予算です」
セレナが代わりに言う。四年分の申請書と、その都度返ってきた理由は全部覚えていた。
「一昨年は南部街道の整備が優先され、去年は王宮西翼の改修が入りました。どちらも間違った判断ではありません。ただ、私が戻っても、その優先順位は変わりません」
「戻られれば、少なくとも現場は回ります」
「回っているように見えるだけです」
セレナは相手を見た。
「私が毎日回れば、異常は表に出ません。記録にも残りません。私は結界局の職員ではありませんから、私が書いたものは私的な覚書です。今、局の方々はその覚書を読まなければ春季の手順が分からない状態になっています」
ラングレーの眉が動いた。局の不備として処理できる話へ持っていこうとしている。書式を扱う人間の反射だった。
「それは局の怠慢では」
「違います」
即答した。
「局の方々は、与えられた人員で回せる範囲を回しています。足りない分を、私が個人の善意で埋めていました。その埋め方が、穴の大きさを見えなくしていたんです」
ラングレーはしばらく黙り、それから革鞄へ手を伸ばした。
「では、こうしましょう。王宮結界局特別顧問という職位を用意いたします。俸給は――」
「権限は」
「は?」
「その特別顧問には、工事の申請を通す権限がありますか」
子爵の手が止まった。俸給の額まで用意してきたのに、その手前で止められたらしい。
「……最終的な決裁は、局長および財務府を経ます」
「では、四年前と同じです」
セレナは背を伸ばした。
「肩書きだけ増やしても、私は同じことを繰り返します。毎日塔を回って、異常を自分で直して、記録を自分の帳面へ書く。そして、いつか私がいなくなった時、誰も手順を知らない」
「令嬢」
「それを解決策とは呼べません」
ラングレーの顔から、交渉の色が消えた。
彼は姿勢を変え、初めてカイルへ目を向ける。
「辺境伯閣下」
「何だ」
「閣下は、この件をどうお考えですか」
カイルは肘掛けへ腕を置いたまま答えた。
「彼女が決める」
「一領主として、王家の要請に対する見解はございませんか」
「あるが、言わない」
ラングレーが眉を寄せる。
「なぜです」
「俺が言えば、彼女の返事が俺の都合になる」
それだけ言って、カイルは口を閉じた。
ラングレーはしばらくその横顔を見ていたが、やがてセレナへ視線を戻した。
「……令嬢。では、はっきり申し上げます」
「どうぞ」
「あなたは公爵家のご息女です。王家との縁を自ら断ち、辺境の一領主のもとへ留まると仰る。それが公爵家にとって、また王国にとってどう映るかをお考えになったことはありますか」
「あります」
「その上で、なお」
「はい」
「……お言葉が過ぎます」
子爵の声が、初めて高くなった。ここまで抑えていたぶん、揺れ方がはっきり分かる。
「王国の防衛に関わる技術を持つ者が、個人の感情で所属を選ぶなど――」
「感情ではありません」
セレナは遮らなかった。相手が言い終わるのを待ってから、そう答えた。
「そして、技術は渡します」
机の上へ、用意していた綴りを置く。厚さは指三本分あった。
返書を出した翌日から、リナに時間を区切られながら十日かけて写したものだ。十年分の測定記録のうち、王都北部に関わる部分だけを抜き出してある。
「七番塔と北側補助線の全測定記録。春季運用の手順書。過去八年の変動幅。迂回線の設計案も入っています。四年前の申請書を、現在の流量に合わせて引き直しました」
ラングレーが綴りへ視線を落とす。すぐには手を伸ばさなかった。
「……条件は」
「ありません」
「無償で、ですか」
「はい」
「なぜです」
「王都に住んでいる人が困るからです」
セレナは相手を見た。
「北市場の果物屋の方は、二度も棚を壊されています。その方は私を知りませんし、殿下の判断とも関係がありません。技術を渡さない理由にはならないでしょう」
ラングレーは綴りを取り、両手で持った。重さを量るような持ち方だった。中身より先に、これを写すのに何日かかったかを数えている顔でもある。
「これがあれば、あなたが戻らずとも」
「三年はもちます。その間に迂回線を作ってください」
「三年」
「はい。それ以上は保証しません。地脈は毎年変わりますから」
子爵は綴りを膝へ置き、しばらく黙っていた。持ち帰るものが手に入った以上、この会談の目的は半分達している。残りをどう報告するかを考えているのだろう。
それから、最後の質問をした。
「令嬢。ご本人が戻られる可能性は、本当にないのですか」
「ありません」
「理由を、殿下へ報告せねばなりません」
セレナは少し考えた。
仕事が残っている、と答えることはできる。契約期間がある、とも言える。どちらも本当だし、書面に書くには都合がいい。角も立たない。
けれど、それでは城壁で自分に言い聞かせたことと違ってしまう。
「私自身は、王家の所有物ではありません」
ラングレーが顔を上げた。
「技術は渡せます。記録も、手順も、設計案も渡します。それで王都の結界が安定するなら、そうしてください。でも、私という人間をどこへ置くかは、私が決めます」
「……それは、王家への異議と受け取られかねません」
「異議ではありません。所属の話です」
セレナは静かに続けた。
「私は今、ヴァレンシュタイン辺境伯領の結界調査・修復顧問です。契約書があり、報酬があり、権限の範囲が決まっています。王宮でいただいたことのないものです」
ラングレー子爵は長く息を吐き、革鞄を閉じた。
反論は返ってこなかった。所属を決めるのは本人だという理屈に、王家の側から返せる言葉がないわけではない。ただ、この場で使えるものを彼は持っていなかった。
*
子爵が客間へ下がったあと、謁見の間にはカイルとローデリックだけが残った。西日が高い窓から入り、床へ細長い帯を落としている。
ローデリックが真っ先に口を開いた。
「よろしかったのですか。あれだけの資料を無償で」
「はい」
「相当な額で取引できます。少なくとも交渉の材料には」
「材料にすると、次に王都が困った時、また同じ交渉をすることになります」
セレナは机に残った写しへ手を置いた。
「渡してしまえば、私を呼ぶ理由がひとつ減ります」
ローデリックが数秒黙り、それから納得したように頷いた。
「なるほど。値を吊り上げるより、需要そのものを減らす」
「そういう言い方をされると商売のようですね」
「商売より性質が悪いですな。相手が二度と来なくなる」
その言い回しはあまりに正確だったので、セレナは少し笑った。
カイルはずっと黙っている。会談の間、口を挟んだのは一度だけだった。
「カイル様」
「何だ」
「言わない、と仰いましたね」
「言った」
「見解はあるんですか」
「ある」
カイルは肘掛けから腕を外し、椅子の背へ寄りかかった。
「聞くか」
「……いえ」
セレナは首を振った。
「今は聞かない方がいい気がします」
「そうか」
それ以上、彼は言わなかった。
城壁でも同じことを言われている。残ってほしい、でもそれを理由にするな。あの時は突き放されたようにも聞こえたが、今日の沈黙で意味がはっきりした。
この人は、自分が口を出せば言葉の持ち主が変わることを知っている。だから黙る。庇うより、黙る方が難しいはずだった。
「ただ」
カイルが続けた。
「一つだけ言っておく」
「はい」
「王家の所有物じゃない、は良かった」
「褒めているんですか」
「褒めてる」
「珍しいですね」
「そこは真似するな」
ローデリックが横で吹き出しかけ、慌てて書類の角を揃えた。
*
夕方、セレナは旧兵舎へ戻った。
八人は本当に残っていた。机の前に座り、壁際の結界石を代わる代わる叩いている。ハインツが後ろで腕を組み、若い男が音の違いを聞き分けようとしていた。
「終わったのか」
「はい。お待たせしました」
「顔は」
「顔?」
「戻ったな」
老人は満足そうに頷いた。
セレナは教壇代わりの机へ戻り、三つ目の石を手に取る。
「では、続けます。この石をなぜ交換したか分かる方はいますか」
「音が高い」
「それもあります。もう一つ」
誰も答えない。セレナは石を裏返した。
底面に、細い線が一本走っている。
「据えた時の据わりが悪くて、片側だけに重さがかかりました。表からは見えません。だから、石を交換する時は必ず底も見てください」
石工の一人が身を乗り出す。
「基礎の話ですね」
「はい。結界の問題ではなく、石の置き方の問題です」
その区別が伝わったらしく、部屋の何人かが帳面へ何か書きつけた。
窓の外では、王都からの馬車が城門の内側に停まっている。明日の朝には北街道を南へ下っていくのだろう。あの綴りが結界局の机へ着くのは五日後で、読まれるのはもう少し先になる。
技術は運ばれていく。
自分はここに残って、石の底を見る話をしている。
その二つが同時に成立することを、二週間前は上手く説明できなかった。今日は言葉になった。それで十分だった。
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