第25話 私が選んだ場所
王都からの書状が届いたのは、旧兵舎を教室として使うための最初の打ち合わせを終えた三日後だった。
その日の午前、セレナは石工と一緒に北側の窓枠を見ていた。長く使われていなかった兵舎は、壁や屋根こそ丈夫だったものの、窓から風が入り、床にも何か所か大きな歪みがある。
このまま夏を迎えるだけなら問題ないが、冬まで使うつもりなら今のうちに直した方がいい。
「床は全部張り替えなくても大丈夫です」
セレナが図面へ印をつけると、石工がしゃがんで板を叩いた。
「机を置くところだけなら、ここと向こうを直せば足りますな。窓はどうします?」
「閉めた時に風が入らない程度には。高価なものに替える必要はありません」
「承知しました。机は六つでしたな」
「最初はそれで十分です。人数が増えたら、その時に考えます」
まだ学校と呼ぶほどのものではない。最初に声をかけるのは各村の保守担当や、簡単な魔力測定ができる者を中心に八人ほどで、その全員が毎回来るとも限らなかった。
それでも、机を置く位置を考え、壁へ結界石の断面図を掛ける場所を決めていると、少しずつ現実のものになっていく。
「セレナ様」
廊下からリナが呼んだ。いつもの声より少し固い。
「どうしました?」
「王都から書状が届きました。王家の印があるそうです」
セレナの手が図面の上で止まった。
「私宛てですか」
「はい。ローデリック様が預かっています」
石工たちも作業の手を止めたので、セレナは図面を閉じた。
「続きは午後でも構いませんか」
「もちろんです。こちらで床を見ておきます」
「お願いします」
廊下へ出ると、リナがすぐ隣へ並んだ。
「何でしょうね」
「開けてみなければ分かりません」
「王都から来る書状で、いい知らせだったことってあります?」
「かなり偏った見方ですよ」
「セレナ様は偏らなさすぎです」
言い返す前に、リナは先へ歩き出した。
王都。その言葉自体は、今でも遠い場所の名前ではない。生まれ育った場所であり、十年近く通った王宮があり、何度も補修した結界塔がある。
辺境へ来た時には、いずれ戻る可能性も当然考えていた。それから半年近く経っただけである。そう考えれば、今さら王都から書状が届いたことを特別に感じる理由はないはずだった。
ローデリックの執務室には、カイルもいた。机の上の封筒には王家の印章が押され、宛名はセレナ・アシュフォード、差出人は第一王子アルベルトだった。
「開ける?」
「そのために来ました」
封蝋を切り、書状を広げる。
先日、王都北部で外周結界の一時的な出力低下が起き、市場へ小型魔獣が侵入したこと。人的被害はなかったものの、複数の結界設備で補修の遅延が確認されていること。
そして、王都結界網の安定化に必要であるため、速やかに帰還せよという命令。婚約解消以前と同様の権限で王宮結界設備への立ち入りを認める、とも記されていた。
セレナは最後まで読み、もう一度最初から確認した。
「何と?」
「王都へ戻れ、と」
「命令?」
「そう書かれています」
書状を二人へ渡すと、ローデリックが途中で眉を寄せた。
「期間がありませんな」
「ありません」
「職位も」
「書かれていません。王宮設備への立ち入りを以前と同様に認める、というだけです」
「報酬は?」
「それもありません」
カイルも短い文面を読み終えた。
「戻る?」
尋ねられ、セレナはすぐには答えなかった。
「まだ分かりません」
「そうか」
それだけだった。あまりに簡単な答えだったので、かえって戸惑う。
「もっと何か言わないんですか」
「何を?」
「古代結界網の調査があります。契約期間もまだ残っています」
「だから?」
「困るでしょう」
「困る」
即答だった。それでも、カイルは書状をセレナへ返す。
「でも、決めるのは君だろ」
「辺境伯として、引き留める理由はあるのでは」
「仕事の話ならある。古代網の調査は途中だし、教室も始まってない。君が抜ければ予定は変わる」
「でしたら」
「予定は変えられる。君を縛るために契約したわけじゃない」
それ以上は言わなかった。
仕事の予定が変わることと、自分がどこへ行くかは別の話として扱われているらしい。セレナも書状を折り直し、自室へ持ち帰ることにした。
*
昼を過ぎても、返事は決まらなかった。
セレナは自室の机へ王都からの書状を置き、その横に古代結界網の調査記録を並べた。
北側外周の不具合と聞けば、思い当たる場所もある。七番塔から北へ伸びる補助線は春先に流量が変わりやすく、何年か前から恒久工事を申請していたはずだ。自分が行けば原因の特定は早いかもしれない。
王都の結界局には真面目な術者もいる。セレナがいなくなったこととは関係なく、そこで働いている人間は今も結界を維持しようとしている。困っているなら手伝いたいという考え自体は、今でも自然だった。
ただ、辺境にも途中の仕事がある。
古代網の調査はまだ半分も終わっておらず、昨日も新しい基点候補が見つかったばかりで、来週には北の村へ確認に行く予定だった。旧兵舎にはまだ六つの机しかない。
子どもたちに渡す結界確認表も試作しただけで、ハインツたちと相談しながら、どこまで教えれば保守担当として動けるのか決めなければならない。
祭りの夜に書いた手帳を開くと、仕事の記録の最後に一行だけ違う文字が残っていた。
――踊り、未完。
王都へ戻れば、これらはどうなるのだろう。古代網の調査は他の術者へ引き継げる。教室も計画を残しておけば形になるかもしれないし、祭りの踊りはそもそも仕事ではない。
自分がいなければ何も進まないと考えるのは違う。
それでも、王都へ行けば役に立つ、辺境に残っても役に立つと比べているうちは答えが出なかった。問題があるかないかではなく、自分がどうしたいのかを考える必要がある。
扉が叩かれ、リナが昼食の盆を持って入ってきた。
「まだ食べていませんよね」
「今、食べようと思っていました」
「その台詞を信用しなくていいと、辺境伯様から教わりました」
「二人で情報を共有しないでください」
「必要な情報です」
盆を机へ置き、リナは王家の封筒を見る。
「決まりました?」
「まだです」
「王都に戻りたいんですか」
セレナは答えようとして、言葉が出なかった。
「分かりません」
「じゃあ、戻りたくないんですか」
「それも……」
リナは椅子を一つ引いた。
「難しいですね」
「何がです」
「必要かどうかじゃなくて、好きな方を決めるの」
「そんな単純な話ではありません」
「分かってます。でも、セレナ様って必要かどうかならすぐ決めるでしょう」
反論できなかった。
「橋から落ちそうになった時もそうでしたし、塔に閉じ込められた時もそうでした。誰が一番役に立つかとか、何人助かるかとか」
「それは必要な判断です」
「はい。でも、今回は誰も今すぐ死にません。だから、ご飯食べながら考えたらいいと思います」
「なぜ食事が入るんですか」
「お腹が空いてるとろくなこと考えないので」
その理屈には反論する必要もなさそうだった。セレナは諦めて昼食を取り始めた。
午後、旧兵舎へ戻ると床の補修が始まっていた。石工たちが板を外し、新しい木材を合わせている。窓枠も一つ取り外され、外から春の風がそのまま入っていた。
「セレナ様。机、倉庫に八つありました。六つでよければ、二つは予備にできます」
「では全部運んでください」
「八つとも?」
「今すぐ使わなくても、壊れた時に替えられます」
「分かりました」
当然のように答えてから、セレナは少しおかしくなった。自分は王都へ戻るかもしれない。それなのに、机の予備まで決めている。
「どうしました?」
「いえ。お願いします」
部屋の奥には、昨日作った結界石の図を試しに掛けるための板も用意されていた。セレナはそこへ近づく。
「少し低い方がいいですね」
「子どもにも見せるなら?」
「はい。いずれ村の子どもたちにも、簡単な説明くらいはできるかもしれません」
言いながら、自分が先の予定を考えていることに気づく。来週、来月、冬になる前。
気づけば、辺境に残っていることを前提にした予定ばかり頭へ浮かんでいた。王都から必要とされていることとは、別の話として。
*
夕食の後、セレナは一人で城壁へ上がった。
春の夜はまだ少し冷たく、街の向こうには雪の残った山が黒い影になっている。辺境へ着いたばかりの頃、その景色は全て知らないものだった。今なら方向だけで、おおよその場所が分かる。
東には洪水の村がある。北西には、一晩閉じ込められた監視塔がある。森の向こうには光蛾を集めた空き地があり、もっと遠くには古代網の基点が点々と残っている。城下の灯りの中には、顔を知っている人間も増えた。
「寒くない?」
振り返ると、カイルだった。
「今日は大丈夫です」
「今日は?」
「正直に答えた方が信用されると学びました」
「進歩だな」
「その褒め方は嫌です」
カイルは隣へ立ち、同じように城下を見た。しばらく王都の話をしなかったので、セレナの方から口を開く。
「本当に、何も聞かないんですね」
「何を?」
「戻るかどうかです」
「決まった?」
「まだです」
「なら聞いても同じだろ」
「引き留めないんですか」
口にしてから、自分でも少し驚いた。カイルも横目でこちらを見る。
「仕事として?」
「それでも構いません」
「残ってくれた方が助かる」
「では、そう言えばいいでしょう」
「それで君が残ったら、また同じだろ」
「何がです」
「必要だと言われたから残る」
返す言葉がなかった。
「王都に行きたいなら行けばいい。ここにいたいなら残ればいい。仕事なら、その後でどうにかする」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃない?」
「私には」
「じゃあ考えろ」
突き放しているようで、答えを急かしてはいない。セレナは手袋をした手を城壁へ置いた。
「カイル様は、私がいなくなっても大丈夫なんですか」
「困るとは言った」
「大丈夫かどうかです」
カイルは少し考えた。
「大丈夫にはする。君一人いなくなったら全部止まる領地じゃ困る。古代網も、教室も、君がいなくても続けられる形にはする」
「では、私は」
「いない方がいいとは言ってない」
カイルがこちらを見る。
「残ってほしい。でも、それを理由にするな」
風が手袋の表面を撫でた。
王都からは必要だから戻れと言われ、辺境でも自分の仕事は必要とされている。そこだけを比べれば、答えは出ない。
セレナは城下の灯りを見た。
旧兵舎に机が入るところを見たい。
最初の授業で誰がどんな質問をするのか知りたい。
古代網がどこまで続いているのか、自分で確かめたい。
また祭りがあれば、今度こそ一曲を最後まで踊りたい。
カイルが自分を危険へ入れようとするなら止めたいし、自分が無茶をすれば、おそらくまた怒られる。
どれも、王国にとって必要かどうかとは関係がない。
そう思った時、ようやく言葉になった。
「私は、ここにいたいです」
一度口に出してみると、不思議なほど迷いはなかった。
カイルはすぐには何も言わず、少しだけ表情を緩める。
「なら、いろ」
「それだけですか」
「他に何がいる?」
セレナは考え、首を振った。
「いいえ。それで十分です」
*
翌朝、セレナは王都への返書を書いた。
まず、北側外周結界について自分が持っている情報を記す。七番塔から北へ伸びる補助線は春先に流量変化が起きやすく、過去に恒久的な迂回線の増設を申請していたこと。
必要なら当時の測定記録も複製して送れること。王都の術者から技術的な問い合わせがあれば、書面で回答するとも付け加えた。
最後に帰還命令への回答を書く。
現在、自分は王宮結界局の職員ではなく、王太子の婚約者でもない。ヴァレンシュタイン辺境伯との契約に基づき北方の結界調査を行っているため、王都への帰還命令には応じない。
必要な技術支援は可能な範囲で行い、正式な業務依頼がある場合は、目的、期間、権限、条件を明らかにした上で改めて検討する。
最初から読み直した。怒りをぶつけた文章ではなく、命じられたから従う文章でもない。これでいい。
「できました?」
リナがお茶を持ってきた。
「はい」
「戻らない?」
「戻りません」
今度は迷わず答えられた。リナの顔が明るくなる。
「よかった」
「そこまで嫌がらなくても」
「だって、旧兵舎のカーテンがまだ決まってません」
「またそれですか」
「大事ですよ。教室なんですから」
「まず授業内容です」
「両方大事です」
セレナは笑いながら封筒を閉じ、自分の印章で封をした。
王都への便は昼に出る。その後どう返事が来るかは分からない。アルベルトがこの回答を素直に受け入れるとも思えなかったが、それはその時に考えればいい。
今朝の予定は旧兵舎で、午後にはハインツたち保守担当との打ち合わせがある。
机を離れたところで、端に置いていた手帳が目に入った。
――踊り、未完。
その一行は消さずに残した。今日やる仕事ではないが、いつか続きをする予定として残しておいてもよかった。
セレナは手帳を鞄へ入れ、王都から届いた書状だけを机の引き出しへしまった。それから、旧兵舎へ向かうために部屋を出た。
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