第24話 辺境の子供たち
結界石に落書きをした子どもがいる、と聞いたのは、光蛾が現れた森の調査を終えた帰りだった。
昨夜の基点は安定しており、周囲にも新しい魔獣の痕跡はない。洪水で地脈の流れが変わり、山側にいた光蛾が結界石の魔力へ引かれた可能性が高い、というところまで確認できた。
今日はこれで城へ戻れる。そう思って馬へ向かったところへ、村の世話役をしている女性が駆けてきた。
「セレナ様、少しよろしいでしょうか」
「何かありました?」
「子どもが結界石へ絵を描きまして……」
「絵?」
「石炭です。すぐ捕まえたのですが、もし結界に何かあったらと思って」
女性は自分がしたことでもないのに恐縮している。
「石炭なら表面についただけで術式が壊れることはまずありません。念のため確認しましょう」
「ありがとうございます。三人とも石のところにおります」
「三人?」
「十一と九と八です」
捕まえた、というほどの年齢でもなかった。セレナはカイルたちへ事情を伝え、女性の案内で村の東側へ向かった。
結界石の前には、男の子一人と女の子二人が並ばされていた。三人とも俯き、一番小さな女の子はすでに泣きそうになっている。横では村の男が腕を組み、逃げないよう見張っていた。
「セレナ様、こいつらです」
「まず石を見ます。叱るのはそのあとでお願いします」
セレナは結界石の前へしゃがんだ。畑と森の境目を守る四基のうちの一つで、高さは成人の胸ほどある。黒い線が何本も描かれているものの、表面の溝に石炭が詰まった様子はなく、魔力の流れも正常だった。
それより気になったのは、何を描いたのかである。大きな丸から四本の線が伸び、その隣にはもっと大きな丸と棒のようなものがある。さらにその横には小さな人型と四角が描かれていた。
「これは何でしょう」
三人は顔を見合わせた。
「怒るために聞いているわけではありません。何を描いたのか知りたいだけです」
一番年上の少年が、恐る恐る最初の絵を指した。
「灰狼」
「なるほど」
言われれば四本の線は脚らしい。
「では、こちらは?」
「辺境伯様」
大きな丸から伸びている棒は剣だった。背後で小さく息を漏らす音がして振り返ると、いつの間にかカイルが来ている。明らかに笑いを堪えていた。
「何ですか」
「いや。似てると思って」
「どこがです」
「剣は分かりやすい」
「丸ですが」
子どもたちが少しだけ笑った。セレナは最後の絵を指す。
「では、これは?」
一番小さな女の子が答えた。
「セレナ様」
「隣の四角は?」
「結界」
「そちらは分かりやすいですね」
「俺より?」
「比べていません」
カイルが不満そうな顔をするので、三人の緊張がさらに解けた。
セレナは石へ手を置き、念のため流量を測る。異常はない。
「結界は壊れていません。水で洗えば落ちます」
村の男がほっと息を吐いた。
「ほら、謝れ」
三人が揃って頭を下げる。
「ごめんなさい!」
「もうしません!」
「結界石には近づきません!」
最後の言葉に、セレナは顔を上げた。
「どうして近づいてはいけないんですか」
「え?」
少年が戸惑う。
「大人に、そう言われたからですか」
「うん。触ったら壊れるって」
「触っただけでは壊れません」
「じゃあ、爆発する?」
「普通はしません」
「魔獣が出る?」
「それも違います」
三人とも、結界石が危険だから近づくなと言われているだけで、その理由は知らないらしい。
「昨日、どうしてここへ来たんです?」
「祭りの途中で辺境伯様たちが森へ行ったって聞いたから」
少年が答えた。
「森は行っちゃ駄目って言われて。それで、この石も光るから」
「綺麗なんだもん」
女の子が続ける。
昨夜、青白く光る魔獣が森に現れた。祭りを途中で抜けた大人たちが何をしていたのか、子どもなら気になるだろう。ただ近づくなと教えるより、何のための石かを知っていた方がいいかもしれない。
セレナは地面へ落ちていた細い枝を拾った。
「では、せっかくなので説明しましょう」
「罰?」
「違います」
土の上へ村と森を描き、その周囲に四つの丸を置く。
「結界は、この石一つで作っているわけではありません。地面の下を流れる魔力を、いくつかの石で整えて、魔獣が入りにくい範囲を作っています」
「壁が出てるんじゃないの?」
「見えない壁に近いものもありますが、この村の結界は少し違います。魔獣が嫌がる流れを村の周りへ作っているんです」
少年が結界石を覗き込む。
「セレナ様には見える?」
「目では見えません。こういう道具で測ったり、石へ触れたりして調べます」
測定用の魔晶石を見せると、三人が一斉に身を乗り出した。
「昨日の蛾は?」
「光蛾は魔力を食べるので、この石へ寄ってきました」
「じゃあ結界があっても魔獣は来るの?」
「来ることはあります。結界は何でも止められるものではありません」
「竜も?」
「村の結界で竜を止めるつもりはありません」
「じゃあ竜が来たら、辺境伯様が斬る?」
カイルが腕を組んだ。
「まず逃げろ」
「辺境伯様より?」
「俺が来るまで待ってどうする」
子どもたちは意外そうだった。最強の辺境伯なら、どんな魔獣でもすぐ斬ってくれると思っていたらしい。
「結界も同じです」
セレナは石を軽く叩いた。
「あるから絶対安全、ではありません。だから、ときどき状態を確認します」
「どうやって?」
「難しいことをしなくても分かる異常があります。石が昨日より傾いているとか、新しいひびがあるとか、雨で根元の土が流れているとか。普段光っている石なら、急に暗くなることもあります」
少年が石の表面を見た。
「この線はひび?」
「それは最初から彫られている術式です」
「こっちは?」
「古い傷ですね。今は問題ありません」
「どうやって見分けるの?」
予想よりいい質問だった。
「昨日までなかったものが増えていたら、誰かへ知らせてください。自分で直す必要はありません」
「誰に?」
「この村ならハインツさんです。いなければ騎士の方でも構いません」
「ハインツ爺ちゃん、よく酒飲んでるよ」
周囲から笑いが起きた。
「仕事中でなければ問題ありません」
いつの間にか、近くにいた村人たちも話を聞いている。一人の女性が尋ねた。
「私たちも、石がおかしかったら知らせていいんですか?」
「もちろんです」
「でも、何も分からないですよ」
「直す必要はありません。普段と違うことに気づくだけで十分です」
少年がこちらを見上げた。
「僕、毎日ここ通るよ。羊を連れて」
「なら、私よりこの石を見ていますね」
「僕が見てもいい?」
「ぜひお願いします」
「魔法、使えないけど」
「必要ありません」
少年は石を見て、それから少し照れたように尋ねた。
「じゃあ、僕も村を守れる?」
セレナは頷いた。
「守る方法は、一つではありません」
少年の顔が明るくなる。その横で、一番小さな女の子が黒い絵を指した。
「落書きは駄目?」
「それは駄目です」
「紙なら?」
「もちろん」
「じゃあ、もっと似てる辺境伯様を描く」
「今ので十分だ」
「丸だよ」
「分かればいい」
カイルの返答に、今度は村人たちまで笑った。
*
落書きは子どもたち自身に洗ってもらった。水を含ませた布で擦れば黒い線は簡単に落ち、最後にセレナが流量を測る。問題はなかった。
その作業を見ていた村人からも、いくつか質問が出た。
「周りの草は刈っても大丈夫ですか」
「根が石の下へ入り込まない程度に刈ってください。表面を刃物で傷つけなければ問題ありません」
「冬は雪で埋まりますけど」
「完全に埋まった時は無理に掘り出さなくて構いません。ただ、春になって傾いていないかは見てください」
どれも術者なら考えずに判断していることだった。しかし、知らない人間にとっては「触ってはいけない石」でしかない。
世話役の女性が言った。
「こういうこと、紙にしておけませんか。村長の家にでも置いておけば、忘れないでしょう」
「文字が読めない人もいるぞ」
別の男が言う。
「なら絵にしましょう」
セレナは答えた。傾いた石、新しいひび、土が流れた石。三つか四つの絵があれば、大きな異常は伝えられる。
「その絵、私が描く!」
女の子が手を上げる。
「辺境伯様の絵は要りませんよ」
カイルが先に釘を刺した。
「騎士へ知らせる絵なら必要かもしれません」
「アシュフォード」
「冗談です」
子どもたちと別れたあと、セレナは馬上で記録帳を開いた。村人向けの確認表。内容は簡単でいい。石の状態を見て、異常があれば保守担当へ伝える。それだけなら、専門術者がいない村でも使える。
「城へ戻ったら作る?」
隣を走るカイルが尋ねた。
「はい。ただ、先に各村の保守担当を確認します」
「なぜ」
「知らせる相手がいなければ、紙だけあっても仕方ありませんから」
*
城へ戻って調べると、その懸念はすぐに現実になった。
ローデリックが保管していた一覧では、日常的な結界点検ができる人間がいる村は半分ほどしかない。残りは異常が起きてから城へ知らせ、術者が巡回するまで待っていた。
「これでは遠い村ほど遅れますね」
「以前から人手不足です」
ローデリックが地図の空欄を指す。
「術者を一人育てるのに何年もかかりますからな。王都へ出すにも金がかかる。辺境の術者へ弟子入りさせても、一度に教えられる人数は限られます」
「専門術者でなくてもできることはあります」
「といいますと?」
「今日、子どもたちに教えた程度の点検です。それに簡単な魔力測定までできれば、専門家を呼ぶべき異常かどうかを早く判断できます」
セレナは紙を三つに分けた。
「村の人には、見た目の異常を見つけてもらう。石工なら石そのものを詳しく見られます。そこへ基礎的な測定ができる人を加えれば、専門術者が毎回最初から確認しなくても済みます」
「その測定ができる者を育てる?」
「はい」
「誰が教えます」
「私が――」
答えかけて、セレナは少し考えた。
「いえ。まずハインツさんたちに聞きます」
「ハインツ?」
「実際に長く村を見てきた方です。私が王都で使っていた方法をそのまま教えても、辺境では要らないものがあるかもしれません」
ローデリックは顎へ手を当てた。
「何人か集めて、一度に教える方が早そうですな」
「そう思います」
「学校でも作りますか」
「そこまで大げさなものではなくても」
セレナは地図を見た。
「最初は八人くらいで十分です。読み書きと、簡単な測定、それから触ってはいけない異常の見分け方。実物の結界石を使って練習できれば」
「場所が要りますな」
「空いている部屋はありますか」
そこへ執務室の扉が開き、カイルが入ってきた。
「旧兵舎」
「聞いていたんですか」
「最後だけ」
北側にある古い兵舎は、騎士団の人数が減った時期からほとんど使われていない。窓の一部が壊れ、床にも補修が必要だが、広さは十分だった。
「修理すれば使えますか」
「石工に見せる」
「机も必要です」
「倉庫にある」
「測定具が最低でも――」
「金額を出せ」
ローデリックが横からため息をついた。
「結局、私へ来ますな」
「予算はローデリックの仕事だろ」
「ええ。知っております」
話が思っていた以上の速さで進み、セレナは少し戸惑った。
「まだ、何を教えるかも決めていませんよ」
「なら決めればいい」
「簡単に言いますね」
「無理なのか」
「いいえ」
「ならやればいい」
カイルらしい答えだった。
セレナは今日の結界石を思い出す。灰狼と、剣を持つカイルと、四角い結界。それを描いた子どもは、羊を連れて毎日あの石の前を通る。専門家ではない。それでも、昨日までなかったひびを見つけることはできる。
「一つだけ」
カイルが言った。
「何でしょう」
「君がいないと教えられないものにはするな」
セレナは顔を上げた。
「最初は君が教えればいい。でも、次は別の奴でも教えられるようにしておけ」
ローデリックも頷く。
「教材を残して、教えた者の中から補助役を作るのがよさそうですな」
「分かりました」
その方がいい。セレナは紙を一枚引き寄せた。
「では、まずハインツさんたちと内容を決めます。そのあと最初の八人を選びましょう」
「旧兵舎も見ておくか」
「今からですか」
「まだ明るい」
窓の外には夕方の光が残っている。三人で北側の旧兵舎へ向かった。
*
旧兵舎の扉は、カイルが押すと大きな音を立てて開いた。
長く閉められていた室内には埃の匂いがこもり、傾いた夕日が窓から斜めに差し込んでいる。壁際には使われなくなった棚が二つ残り、床板は何か所か浮いていた。
セレナは部屋の中央まで歩き、広さを確かめる。
「机は六つくらいでしょうか」
「八つは入る」
「最初から詰め込みすぎると、実習がしにくいです」
「なら六つ」
「壁に大きな図を掛けたいですね。結界石の断面と、地面の下の流れが分かるものを」
「窓も直さないとな」
ローデリックが枠へ触れる。
「冬まで使うなら隙間も塞ぎましょう」
「冬?」
カイルがこちらを見る。
「続けるなら、その頃まで使います」
言ってから、セレナは室内をもう一度見回した。
今は古い兵舎にしか見えない。けれど机を置き、測定具を並べ、人が集まれば、この部屋でできることは変わる。
「まずは小さく始めましょう」
セレナは言った。
「六つの机で十分です」
カイルが頷く。
「好きにしろ」
「今回は予算がありますから、本当に好きにはできません」
「そこはローデリックに聞け」
「やはり私ですか」
三人の声が、何もない部屋へよく響いた。
明日から石工が床と窓を調べることになり、その翌日にはハインツたちを呼ぶ。教室と呼べるものになるのは、もう少し先だ。
それでも最初に置く六つの机の位置だけは、その日のうちに決まった。
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