第23話 夜の森
祭りの音は、森へ入ってしばらくすると聞こえなくなった。
セレナは長い裾を片手で持ち上げ、湿った獣道を急いでいた。村の女たちに着せてもらった深緑の衣装は踊るには動きやすかったが、夜の森を走ることまでは想定していない。低木へ引っかかりそうになるたびに足を避け、肩に掛けていた飾り布は邪魔にならないよう腰へ結び直した。
「やはり、一度着替えた方がよかったでしょうか」
少し前を進んでいたカイルが振り返った。
「戻る時間が惜しいと言ったのは君だろ」
「そうですけど、森に入るなら話は別です」
「似合ってるから、そのままでいいんじゃないか」
セレナは足を止めかけた。
「今は服の機能性について話しています」
「俺は見た目の話をした」
「それは分かっています」
分かっているから、返事に困る。セレナはカイルを追い越す勢いで歩調を速めた。今は警報の確認が先であり、祭りの広場で何を言われたかを考えている場合ではない。
異常が出たのは、村から北東へ半刻ほど入った森の結界石だった。祭りの最中、見張り役の男が広場へ駆け込んできた。普段は一定の明るさを保っている警告石が、短い間隔で何度も強く明滅したという。
洪水後の点検では異常のなかった場所だった。水害で地脈が遅れて変化した可能性もあるが、人為的な操作を受けている古代網との関係も否定できない。
森の入口で、先行していた騎士二人と合流した。
「辺境伯様、セレナ様」
「状況は」
カイルが尋ねると、騎士の一人が森の奥を指した。
「基点そのものには近づいていません。ただ、少し前から妙な光が見えています。最初は誰かが灯りを持って歩いているのかと思ったんですが」
「誰か?」
「いえ。動き方がおかしいんです」
その言葉の意味は、すぐに分かった。
木々の間を青白い光が横切る。一つだけではない。その上にも、さらに奥にも、小さな灯りのようなものがゆっくり浮かんでいる。
「灯石ではありませんね」
セレナは目を細めた。
「灯りを消してください。魔力へ反応するものなら、こちらから寄せる可能性があります」
騎士たちが灯石へ覆いを掛ける。辺りが急に暗くなり、代わりに森の中の光がはっきり浮かび上がった。
十では足りない。
木の幹の間を、二十、三十と青い光が漂っている。風がないのに上下し、時折一つが消えたように見えて、少し離れた場所で再び光った。
近づくにつれて、その輪郭が見えてくる。
「蛾ですね」
セレナが声を落とす。
普通の蛾とは大きさが違った。小さいものでも両手を広げた程度、大きな個体は成人の上半身ほどの翅を持っている。薄い翅には細かな筋が走り、その部分だけが青白く発光していた。
飛ぶ音はほとんどない。暗い森の中を、無数の淡い光が静かに漂っている。
「綺麗だな」
騎士の一人が思わず呟いた。
「離れている間は」
セレナは答えた。
数頭が一斉に木の幹へ降りる。その根元に、目的の結界石があった。光蛾は石の表面へ細い口器を伸ばしている。そのたびに結界石の光が弱まり、代わりに蛾の翅が明るくなった。
「魔力を吸っています」
セレナは腰の鞄から測定具を取り出した。遠くから測っただけでも、基点の出力は通常の半分近くまで落ちている。
「斬ればいい?」
カイルが剣の柄へ手を置いた。
「まだです。ここで刺激して散らせば、別の基点へ移るかもしれません」
「魔力が餌なら、近くの結界石を順番に回る?」
「可能性があります。できれば一か所へ集めて処理したいです」
セレナは周囲を見た。木々の間では剣を振るにも限界があり、飛ぶ魔獣を完全に囲うのも難しい。逃げた個体を追って夜の森を散開する方が危険だった。
光蛾が何へ反応するのかを確かめる必要がある。
鞄から測定用の小さな魔晶石を取り出し、ごく弱く魔力を流した。淡い青色が掌の上に灯る。しばらく変化はなかった。
やがて結界石に止まっていた一頭が翅を広げ、こちらへ向きを変えた。続いて二頭、三頭と浮かび上がる。
「来ます」
カイルが一歩前へ出た。
「まだ抜かないでください」
セレナは魔晶石を持ったまま待った。
光蛾は人間ではなく、掌の石を目指して近づいてくる。数歩の距離まで来たところで魔力供給を止めると、光を失った石の周囲を何度か飛んだあと、元の結界石へ戻っていった。
「魔力そのものですね」
「囮に使えるか」
「使えます」
森の北側には、洪水で土砂が流れたため木が少ない場所がある。人家からも離れ、周囲を囲いやすい。
「そこまで誘導します。森の中で戦うより安全です」
「何が必要?」
「騎士のお二人にも小さな魔晶石を持ってもらいます。私が中央で一番強い魔力を出し、左右へ離れた個体だけ戻してください」
「俺は?」
「空き地で待機を。群れが入ったら、私が周囲へ低出力の結界を張ります」
「閉じ込める?」
「完全には閉じません。外周に魔力を流して、森へ戻るより中央へ寄るよう誘導するだけです。その間に討伐をお願いします」
カイルは森の奥に漂う光を見たあと、すぐに頷いた。
「分かった。それでやる」
作戦を聞いて疑う様子はなかった。初めて森で作戦を任された頃なら、そのこと自体を意識したかもしれない。今はもう、互いの役割を確認するだけで話が進む。
セレナも、それを特別なこととは思わなくなっていた。
*
空き地へ向かう光の列は、遠くから見れば祭りの灯籠のようだった。
先頭を走るセレナが魔晶石へ魔力を流し、その後ろを青白い光蛾が追ってくる。左右では騎士二人が少し離れ、群れから逸れようとする個体へ小さな魔晶石を見せて中央へ戻していた。
「思ったより多いです!」
後ろの騎士が叫んだ。
「私もそう思っています!」
最初に見た時は三十程度だと思ったが、森の奥からさらに集まってきている。光蛾同士が重なると、森全体が淡い青色に照らされた。自分の影が木々の上に揺れ、セレナは一瞬だけ振り返ったことを後悔する。
「アシュフォード、前!」
カイルの声が空き地から飛んだ。
「見ています!」
「今、後ろ見ただろ!」
「確認です!」
空き地まであと少しだった。セレナは中央に打っておいた杭の位置を確認すると、走りながら魔晶石への出力を少し上げた。光蛾の群れがそれに反応し、さらに近くへ集まってくる。
「中央まで引きます!」
十歩。
五歩。
予定した位置へ入ったところで、セレナは持っていた魔晶石を空き地の中央へ投げた。青く光る石が地面を跳ね、群れが一斉にそちらへ向きを変える。
「今です!」
セレナは四本の簡易杭へ魔力を送った。
透明な結界が空き地の周囲へ薄く立ち上がる。魔獣を押し返すほどの力はなく、外周に沿って一定量の魔力が流れるだけの術式だった。
それでも光蛾には十分だった。森へ戻ろうとした個体が外周の魔力へ引かれ、そこからさらに強く光る中央の魔晶石へ向きを変える。
「入った!」
騎士の声が上がる。
「討伐を!」
カイルが踏み込んだ。
一頭目の光が消える。
次に二頭。
大きな翅が舞い、青い鱗粉が夜の空気へ散った。
騎士たちも剣を振るうが、地上の魔獣を相手にする時とは勝手が違う。高く上がった個体には届かず、低く降りたところを狙わなければならない。
「右側へ寄っています!」
セレナが結界の出力を調整する。
「そっちを少し下げてください!」
「分かりました!」
誘導役だった騎士が外周へ回り、魔晶石を掲げる。逃げかけた数頭がその光へ寄り、再び中央へ戻っていった。
今のところ、うまくいっている。セレナは四方向の流量を見ながら、中央の石よりわずかに弱い状態を維持した。強すぎれば外周へ光蛾が張りつき、弱ければ森へ戻る。結界を張ることより、均衡を保つ方が難しい。
その時、一際大きな光が視界の端を横切った。群れの中で最も大きな一頭が、中央の魔晶石ではなくセレナへ向きを変えている。
「アシュフォード!」
カイルも気づいた。
「分かっています!」
原因はすぐに理解できた。結界を維持しているセレナ自身が、この場では中央の魔晶石に次ぐ大きな魔力源になっている。
「なるほど。近距離なら術者本人へ――」
「考察は後にしろ!」
もっともだった。
光蛾が急降下してくる。結界を解除して避ければ、群れが森へ散る。片手だけ外して防御を張ることもできるが、四方向の均衡が崩れる可能性がある。
セレナは位置を変えず、そのまま維持することにした。
「動くな!」
カイルが走る。光蛾の口器が伸びる。その直前で、横から剣が入った。
大きな胴が二つに分かれ、青白い翅がセレナの足元へ落ちる。
「ありがとうございます」
「少しは避けろ」
「今避けると外周が落ちます」
「分かってる」
「でしたら」
「分かってても言う」
カイルはそれだけ返し、すぐに次の光蛾へ向かった。
君が守るなら、俺が戦う。城壁で聞いたその言葉を、セレナは思い出す。ただし今は、あの言葉を思い返して感慨に浸るような余裕はない。
自分が結界を維持し、カイルがその内側で斬り、騎士が逃げた個体を戻す。それだけで十分だった。
「残り、左に七!」
「見えてる!」
カイルが答える。最後の群れが中央へ寄り、剣が続けて閃いて、光が一つずつ消えていった。
やがて空き地に残るのは、中央の魔晶石と結界杭の光だけになる。
「もういませんか」
セレナはすぐには術を解かなかった。森の木々の間を確認する。枝の上にも、地面近くにも、動く青い光はない。
「こっちもいません!」
騎士が答えた。
「では解除します」
魔力をゆっくり落とすと、四本の杭から光が消えた。空き地は本来の暗さへ戻る。
急に静かになったように感じた。実際には夜鳥の声も、遠くの水音も聞こえている。ただ、先ほどまで無数に舞っていた光がなくなったせいで、暗闇そのものが濃くなったようだった。
「綺麗だったのは最初だけでしたね」
騎士の一人が剣を拭きながら言った。
「同感です」
セレナも答える。
「俺は最初から嫌だった」
カイルが言った。
「光蛾がですか?」
「数が多い」
「灰狼の群れには一人で入るのに?」
「あれは地面にいる」
どういう基準なのかよく分からない。
「飛ぶ魔獣が苦手なんですか」
「別に苦手じゃない」
「今、嫌だと」
「好きじゃないだけだ」
セレナは少し笑った。
「何だ」
「いえ。カイル様にも好き嫌いがあるんだなと思いまして」
「あるに決まってるだろ」
その当たり前の返事が、妙におかしかった。
*
結界石へ戻ると、基点の出力はゆっくり回復し始めていた。
光蛾が吸っていた分が止まり、地脈から流れ込む魔力が本来の経路へ戻っている。石そのものには小さな吸着痕がいくつか残っているものの、交換が必要なほどの損傷はなかった。
「今夜は持ちます」
セレナは測定具をしまった。
「ただ、なぜ急にここまで来たのかは明日調べます。洪水で地脈の流れが変わり、山側で餌にしていた魔力が減った可能性があります」
「古代網は関係ある?」
「まだ分かりません。調べてから判断します」
「明日ならいい」
カイルが言う。セレナは顔を上げた。
「止めないんですね」
「今夜このまま調べ始めると言ったら止める」
「そこまでしません」
「道具が全部あったら?」
少し考えた。
「……戻ります」
「今考えただろ」
「結果として戻るなら問題ありません」
カイルはため息をついたが、それ以上は言わなかった。
見張りを二人残し、一行は村へ戻ることになった。森を出た頃には、夜もかなり深くなっている。行きには遠くまで聞こえていた祭りの音が、今はもうない。
*
村の広場では、祭りの後片づけが始まっていた。
色布はまだ家々の間に渡されていたが、灯りは半分以上消えている。広場の端には空になった樽や長椅子がまとめられ、残った村人が火を消しながら明日の片づけについて話していた。
「辺境伯様!」
二人を見つけた男が駆け寄ってきた。
「どうでした?」
「終わった」
カイルが答える。
「結界石も今夜は問題ありません。明日、もう一度周辺を調べます」
セレナが補足すると、男は胸を撫で下ろした。
「祭りの途中で申し訳ありませんでした」
「異常に気づいてもらえたから、結界が落ちる前に対処できました。知らせてもらえてよかったです」
「そう言っていただけると」
男は何度も頭を下げ、片づけへ戻っていった。
セレナは自分の衣装を見る。裾には泥がつき、袖には青白い鱗粉が残っている。祭りの始まりに村の女たちが整えてくれた姿からは、だいぶ遠くなっていた。
「借り物なのに」
「洗えば落ちるだろ」
「鱗粉がどうでしょう。あと裾の泥も」
「破れてはない」
「そういう問題ではありません」
広場の中央には、踊りに使った場所が残っている。人はいない。音楽もない。
警告が来たのは、ようやく足運びを間違えずに続けられるようになった頃だった。
「結局、最後まで踊れませんでしたね」
「ああ」
「仕方ありませんけど」
言ったところで、カイルが少し考えるように広場を見た。
「続きは?」
「今からですか?」
「今は疲れた」
「では、どういう意味です」
「次だよ」
カイルは特別なことを言うような口調ではなかった。
「祭りの続き。いつかやればいい」
いつか。次の祭りと決めたわけではないし、来年とも言っていない。それでも、二人ともここにいる未来を前提にした言葉だった。
セレナは少し考えてから頷いた。
「では、今度は一曲くらい最後までお願いします」
「警報が鳴らなければ」
「鳴ったら行きます」
「そこは変わらないんだな」
「仕事ですから」
カイルが笑った。セレナも少し笑い、腰の小さな手帳を取り出す。
「何を書いてる?」
「今日の記録です」
「今?」
「忘れないうちに」
森の異常については、城へ戻ってから正式な記録を作る。その前に、明日確認する項目だけ簡単に書いておきたかった。
光蛾。北東基点。洪水後の地脈変化。明朝、流量測定。
そこまで書いたところで、セレナは少し迷った。その下へ、もう一行だけ追加する。
――踊り、未完。
「それも仕事の記録?」
横から覗いたカイルが尋ねた。セレナは手帳を閉じる。
「忘れないための記録です」
「何を?」
「次に続きをするとおっしゃったでしょう」
カイルが一瞬黙った。
「忘れないのか」
「記録しましたから」
「そうか」
なぜか少し嬉しそうに見えた。
セレナは手帳を鞄へ戻す。明日には結界を調べる。光蛾が山を下りてきた理由も確かめなければならないし、古代網との関係があるなら、その記録も増えるだろう。
けれど、仕事ではないことを一行だけ書いても、手帳は壊れない。
二人で広場を離れる。背後では最後の篝火が消され、春の夜が静かに村へ戻っていた。
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