第22話 祭り
祭りの準備は、前日から始まっていた。
城下の広場へ長い布を張るため、騎士たちまで梯子へ上っている。色は赤と、黄と、深い青。城の石壁の灰色しか見ていなかった目には、それだけで祭りが始まったように見えた。
「辺境伯様まで何をしてるんですか」
ローデリックが呆れた声を上げる。
「高いところは俺が早い」
「あなたが落ちた時の方が面倒です」
「落ちない」
「そういう話ではありません」
下で見ていたセレナは、思わず笑った。
「どちらかというと、いつもの私みたいですね」
ローデリックがすぐ振り返る。
「よくお気づきで」
「最近よく指摘されるので」
カイルが梯子の上から言う。
「俺は落ちない」
「私もそう言っていました」
「違う」
「同じです」
今度はセレナの方が言い返した。周囲の騎士が笑う。
カイルは何か言いたそうだったが、結局、布を結ぶ方へ戻った。
*
春祭りの日、ヴァレンシュタイン城下は朝から騒がしかった。広場には色布が張られ、屋台が並び、子どもたちが花冠を持って走り回っている。
セレナは自室の鏡の前で、見慣れない自分を見ていた。
「似合っています」
リナが満足そうに言う。
「落ち着きません」
「王都の夜会服より?」
「別の意味で」
王都の夜会服は、着ると背筋が勝手に伸びた。あれは人前に立つための鎧だった。
今日の服は辺境風だ。淡い青の長衣に細い革帯、裾は動きやすく、袖口に銀糸の刺繍が入っている。
「これ、仕事着では」
「ありません」
「でも動きやすいです」
「そこを評価するんですね」
「大事です」
リナが髪飾りを留める。
「今日は祭りです。結界の点検は昨日終えました」
「何かあったら」
「その時は呼ばれます」
「そうね」
鏡の中の自分は、公爵令嬢らしい豪華さではない。でも、嫌ではなかった。
城下へ入る村人の列を見て、セレナは少し驚いた。荷車、徒歩、乳飲み子を背負った女性。列は城門の外まで続いている。
「こんなに来るんですね」
「道が戻ったからな」
ローデリックが答える。
「去年は?」
「北道が途中で閉じて、三村来られませんでした」
「今年は?」
「全部来ます」
列の中には、ハーゼ村で見た羊飼いの家族もいた。泥のついた荷車に花を結び、子どもがその横を走っている。道が閉じていた去年なら、この景色そのものが城下まで届かなかったのだ。
結界を直した結果の一つ。数字ではないけれど、祭りに来られるというのも成果だった。
「記録します?」
カイルが横から聞く。
「します」
「やっぱり」
「でも、今日はあとで」
「進歩だな」
「それも言いすぎです」
広場へ出ると、すぐ声をかけられた。
「セレナ様!」
ハーゼ村の子どもたちだった。羊の鈴を作った子もいる。
「見て!」
腕に簡単な結び紐が巻かれている。
「それ、警報用の結び方では?」
「そう!」
「祭りで使うものではないです」
「でも上手になった!」
得意そうに胸を張る。
「なら、まあ」
カイルが横から言う。
「いいんじゃないか」
「基準が甘いです」
「祭りだからな」
彼も普段の鎧ではない。黒い上着に、剣だけは腰へ下げている。
「剣は持つんですね」
「仕事じゃなくても辺境伯だから」
「休めてないですね」
「君に言われたくない」
「最近は休んでいます」
「前よりは」
前よりは。そこは認めるしかない。
別の子どもが走ってくる。首から小さな木札を下げていた。
「これ何?」
セレナが尋ねる。
「迷子札!」
「自分で?」
「学校の練習!」
「まだ学校はありません」
「じゃあ先に練習!」
理屈が強い。木札には名前と村名が書いてある。簡単だけれど、確かに役に立つ。
「良いですね」
「セレナ様が言ったんだよ。誰かが見ても分かるようにって」
自分の言葉が、違う形で使われている。言った本人が忘れている場所で、勝手に育っている。
「ちゃんと覚えていたんですね」
「うん!」
少年は得意そうに走っていった。
昼前は屋台を回った。蜂蜜菓子、焼いた肉、山菜の包み焼き。油と煙と、甘い匂いが順番に入れ替わる。
セレナは一つずつ食べていく。
「珍しいですね」
リナが言う。
「何が」
「仕事中より食べています」
「今日は歩いているので」
「理由は何でもいいです」
屋台の女性が蜂蜜酒を差し出した。
「一杯どう?」
「昼から?」
「祭りだから」
隣でカイルが受け取る。
「飲む?」
「少しだけ」
甘い。思ったより強く、喉を通ったあとで後ろから熱が上がってくる。
「これ危ないですね」
「一杯なら平気」
「カイル様の一杯と私の一杯は違います」
「なら半分」
杯を返すと、カイルが残りを飲んだ。それだけなのに、リナが何とも言えない顔をする。
「何です?」
「いえ」
最近、本当に多い。
昼を過ぎると、祭りはさらに賑やかになった。城下の職人たちが競うように商品を並べる。銀細工、革製品、木彫り。
セレナは一軒の店で足を止めた。灰色の手袋を作った革職人の店だ。
「使ってますね」
「はい」
「良かった」
職人はセレナの手を取る。
「ここ、擦れてない?」
「大丈夫です」
「辺境伯様、うるさかったでしょう」
「最近は何も言いません」
「作った後は任せる人なんですよ、あの人」
「そうみたいですね」
口にすると、少し嬉しい。
「それで」
職人がにやりとする。
「今日は仕事じゃない?」
「祭りです」
「なら、仕事の話やめます?」
「……努力します」
「努力じゃなくて」
また同じことを言われた。
*
午後、広場では踊りが始まった。輪になり、楽師の音に合わせて足を運ぶ。
セレナは少し離れた場所で、何度か足運びを練習した。
「右、左、回る」
「逆です」
リナが言う。
「今、右から」
「私から見て右です」
「分かりにくい」
「辺境伯様と同じこと言ってます」
「嫌ですね」
「なぜ」
「何となく」
そこへカイルが来る。
「何してる」
「練習です」
「何の」
「踊り」
カイルが少し驚いた顔をした。
「踊るのか」
「誘われたら」
「誰に」
「誰かに」
なぜか返事が少し遅れる。
カイルは一度だけ広場を見た。輪の中では、村人も騎士も一緒に足を踏んでいる。
「じゃあ」
手を差し出す。
「俺でいい?」
セレナは、その言い方に少し驚いた。
辺境伯だから。命令だから。相手がいないから。
そうではなく。
「はい」
自分で選んで手を取る。
広場の中央へ出る。
昨日の川と違う。今日は足場が悪いからではなく、人に見られているからだ。だからか、少し緊張する。
「右から」
カイルが言う。
「右?」
「俺の右」
「分かりにくいです」
「じゃあ、こっち」
軽く引かれる。足を合わせる。
一歩。
二歩。
三歩目で少しずれた。
「笑いました?」
「少し」
「失礼ですね」
「結界は外さないのに」
「踊りと一緒にしないでください」
もう一度。今度は合う。
音楽と笑い声。誰も避難していないし、誰も結界の異常を叫んでいない。
こんな時間があること自体、セレナには少し不思議だった。守った先にこういう時間があると、頭では知っていた。中に入ったのは初めてだった。
「楽しい?」
カイルが聞く。
「はい」
すぐ答えられた。役に立つからでも、必要だからでもない。ただ、楽しい。そのことが何より新しかった。
踊りは上手くない。何度か間違えて、笑われて、笑い返して、それでも曲が続く。セレナは途中から、自分の足を数えるのをやめた。
楽師の太鼓が一つ強く鳴るたび、石畳を踏む靴底から振動が返ってくる。王都の舞踏会では、相手の歩幅を乱さないことばかり考えていた。ここでは子どもが途中で輪へ入り、老人が一拍遅れ、誰かが笑えば周囲までつられて笑う。揃っていないのに、曲は止まらない。
その雑さが、セレナには少し眩しかった。正しくなくても続くものがある。誰か一人が間違えても、隣が合わせれば輪は崩れない。
「慣れた?」
「少し」
「次、回る」
「急に言わないでください」
引かれて、身体が回る。視界が一度広場を回った。色布、空、人の顔。
戻った時、目の前にカイルがいる。思ったより近い。
セレナは一瞬だけ動きを忘れた。
「どうした」
「何でも」
「足止まったぞ」
「分かっています」
次の一歩。今度は合わせる。
胸が少し速い。踊ったからで、きっとそれだけだ。そう思う。
曲が終わる前だった。
城門側から、鐘が三度鳴った。
警報。
広場の空気が変わり、楽師の音が一小節の途中で切れる。カイルの手が離れた。
「森だ」
騎士が叫ぶ。
「北東で結界光の異常!」
セレナもすぐ動いた。裾を掴み、走り出す。
「祭りの服で?」
リナが追う。
「動けます!」
「そこじゃありません!」
カイルが横へ並ぶ。
「着替える?」
「時間が惜しいです」
「なら行く」
騎士たちは祭りの途中でも迷わない。武器を取り、馬を出す。城下の人々も、教えられた通り広場中央へ集まっていく。誰かが泣き叫ぶわけではない。訓練が動いている。
「前より早いですね」
セレナが言う。
「皆、覚えた」
「はい」
それが嬉しい。
だからこそ、鐘が鳴った時、ほんの少しだけ残念だった。その気持ちを認めるのに、以前ほど時間はかからなかった。
広場を出る直前、子どもがセレナへ小さな花冠を渡した。
「帰ってきたらつけてね」
「壊れるかもしれません」
「じゃあ壊れないで帰ってきて」
セレナは一瞬だけ言葉を失い、それから受け取った。
「分かりました」
その約束も、今夜の仕事の一つに加えることにした。
*
森へ向かう途中、セレナは祭り用の髪飾りが外れかけていることに気づいた。走りながら押さえる。
「取る?」
カイルが横から聞く。
「あとで」
「邪魔だろ」
「でも、今日は祭りです」
自分でも少し驚く答えだった。仕事をするなら全部脱ぎ捨てる。以前ならそうしていた。今は、祭りの自分を完全に置いていきたくない。
「分かった」
カイルはそれ以上言わない。
森へ入る直前、リナが髪飾りをしっかり留め直した。
「これで走れます」
「ありがとう」
セレナは指先で銀飾りに触れる。
「次の祭りでも使えますね」
「次?」
カイルに聞き返されて、言葉が止まった。まだ契約は半年なのに、自分は次の祭りもここで迎えるような言い方をしていた。
「……先の話です」
祭りと仕事。どちらか一つではなくてもいい。そんな当たり前のことを、少しずつ覚えている。
北東の森へ着く頃には日が落ち始めていた。結界石の光が断続的に消える。原因はまだ見えない。
「今日はここまで調べて、危険なら封鎖」
セレナが言う。
「祭りへ戻る?」
カイルが聞く。
「戻れたら」
「じゃあ急ぐ」
「仕事を急ぐのは危ないです」
「分かってる」
でも、少し笑っている。セレナも笑う。
祭りはまだ終わっていない。
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