第21話 雪解けの川
雪解けの川は、前に見た時よりさらに太くなっていた。
山から流れ込む水が増え、岸辺の草地まで茶色い水が入り込んでいる。草の先だけが水面から出て、流れの向きに一斉に倒れていた。
「昨日の夜から二尺上がっています」
村長が川岸の杭を指す。目盛りの半分近くが水に沈んでいた。
「避難は?」
カイルが聞く。
「低い家から順に終わっています。家畜も丘へ」
「誰が指示した」
「前に教えていただいた通りです」
村長は少し誇らしそうだった。
セレナは周囲を見る。荷車はすでに高台へ移され、子どもたちは教会に集められている。男たちは土嚢を運び、女性たちは炊き出しの準備をしている。誰も走っておらず、誰も立ち止まっていない。
「ちゃんと動いていますね」
思わず口に出た。
「何が」
隣のカイルが聞く。
「私が来る前に」
「それが普通だろ」
「今は、そう思います」
川沿いの結界石を確認する。出力は落ちていないが、上流側から強い負荷が来ている。石に触れると、脈が速い。
「流れを全部止めるのは無理です」
ローデリックが覗き込む。
「では何を」
「曲げます」
「川を?」
「結界で水を止めるわけではありません。魔力の流れを少し変えて、堤防側の補強結界へ回します」
セレナは地図へ指を置いた。
「ただし、上流の古い基点も確認します。丘の中継点で見た逆流と似ています」
「また古代網?」
「可能性があります」
カイルが周囲の騎士へ声をかける。
「二班。片方はここで土嚢。もう片方は上流へ」
「私は上流へ行きます」
セレナが言う。
「俺も」
「ここは?」
「ローデリックがいる」
ローデリックが苦笑した。
「また私ですか」
「得意だろ」
「否定できないのが腹立たしいですな」
上流の道は、途中から馬を降りなければ進めなかった。水が道を横切り、石の間を流れている。踏むたびに靴の中まで冷たい水が入った。
セレナは裾を持ち上げ、足場を選びながら進む。
「滑るぞ」
前を行くカイルが手を差し出した。
「大丈夫です」
言ってから、足下の石が動いた。
「……借ります」
すぐ訂正して、カイルの手を取る。力が強い。引くというより、こちらの体重を丸ごと引き受けてしまう。
引き上げられ、反対側へ渡った。
「早いな」
「何が」
「訂正」
「それは良い」
手を離す。ほんの一瞬だったのに、少しだけ掌が熱い気がした。気のせいだと思うことにする。
上流の古い基点は、川岸の岩へ埋め込まれていた。半分ほど水に浸かっている。
「前回はここまで上がっていませんでした」
セレナは遠隔測定器を使う。
「中に入らないのか」
「今日は入りません」
「珍しい」
「水位が高すぎます」
「それでいい」
基点の出力は高い。ただし、下流へ送る力が強すぎる。
「全部繋がっている」
セレナは地図を見た。
「上流の雪解けで魔力も増えて、古代網が勝手に補強しようとしているのかもしれません」
「良いことじゃない?」
「強すぎるんです。下流の現行結界が受けきれない」
「昔の網と今の網が喧嘩してる?」
「近いです」
二百年前の設計が、今の設計を助けようとして壊しにかかっている。
カイルが岩を蹴るようにして足場を確かめた。
「止められるか」
「半分だけ切ります」
「全部じゃなく?」
「はい。前なら止めていたと思います。でも、今は動いている理由も知りたい」
「じゃあ、観察しながら」
「そうです」
銀杭を二本。古代線を完全に遮断せず、流量だけ落とす。測定器の針がゆっくり下がった。
「三割減」
「下流へ知らせる」
騎士が伝令へ走る。
村へ戻ると、堤防の一部が崩れ始めていた。
「東側!」
誰かが叫ぶ。土嚢を積んでいた列が崩れ、水が細い筋になって村側へ入り込む。細いうちは細い。ただ、通り道ができれば太くなるのは早い。
「アシュフォード!」
カイルが呼ぶ。
「見えています!」
「石工さん、堤防の切れ目を広げないで! 私は水の向きだけ変えます!」
「分かった!」
「騎士二人、土嚢を右へ!」
「はい!」
セレナは岸へ銀杭を打ち込む。結界を垂直に立てず、斜めに。水を止めるのではなく、流す。
「角度、あと少し!」
測定役が叫ぶ。
「右へ二度!」
調整すると、濁流の一部が堤防の外側へ滑った。水がぶつかる音が一段低くなる。土嚢を積む時間ができた。
「あと一分!」
腕が重い。
「まだ持ちます!」
今回は、自分の状態もちゃんと分かっている。あと何十秒で腕が落ちるかまで、内側から数えられた。
カイルが一度だけこちらを見る。
「一分で切るぞ」
「はい」
一分。土嚢が積み終わる。
「切ります!」
結界を落とす。水は堤防へ戻り、今度は持った。
歓声が上がる。セレナはその場へ座り込みそうになり、踏みとどまった。
「座れ」
カイルが石を指す。
「まだ歩けます」
「聞いてない」
「はいはい」
素直に座る。最近、こういうやり取りも少し軽くなった。
夕方には、水位が少しずつ下がり始めた。完全に安心できるほどではないが、村人たちは交代制で監視へ入っている。
「次の目盛りを超えたら城へ」
「赤線ね」
「はい。黄色なら村内待機。赤で避難」
セレナは杭へ二色の印をつけた。
「これなら子どもでも分かります」
村長が言う。
「分かる形の方が強いです」
前に比べると、難しい術式を作ることより、誰でも使える仕組みを作る方に意識が向くようになった。
「手伝わなくても大丈夫でしたね」
セレナが言う。
「何が」
カイルが隣へ来る。
「避難も、監視も」
「君が前に教えた」
「でも、今日やったのは皆さんです」
「そうだな」
「良かったです」
*
城へ戻ると、王都から書状が届いていた。差出人は第一王子アルベルト。封蝋の赤が、燭台の下で妙に新しく見えた。
封を切る。
『王都結界網について、至急確認したい事項がある』
質問は三つ。七番塔、北側補助線、春季の逆流。どれも答えられる。今この場で、紙もなしに答えられる。
セレナは書状を畳んだ。
「返事は?」
カイルが聞く。
「明日にします」
「いいのか」
「今日は疲れました」
自分で言って、少し驚く。
「それに、質問は書面で答えられます」
「戻らない?」
「戻りません」
即答だった。
夜、食事をして、眠る。翌朝、セレナは机に向かった。
『確認事項を書面でお送りください。把握している範囲で回答いたします』
それだけ。王都へ戻るとは書かないし、自分が今いる場所を離れるとも書かない。
封を閉じて窓の外を見ると、昨日の雨が嘘のように晴れていた。川はまだ太い。でも、村は自分たちで見張っている。
セレナはそのことを思い出し、少しだけ笑った。
*
翌日の午後、村から追加報告が届いた。水位は青、避難解除、土嚢はそのまま。
セレナは報告書を読み終え、机の端へ置いた。
「行かないのですか」
リナが聞く。
「今日は行きません」
「確認しなくて?」
「村長の記録で十分です」
「信用するんですね」
「はい」
今は、自分が教えた人が見て、書いて、知らせてくれる。それを受け取る。それも仕事の一部だと思える。
セレナは次の書類へ手を伸ばした。王都への返書の写しだ。戻らない、書面で答える。その選択にも、不思議と迷いはなかった。
川の見張り表には、村人の名前が交代で並んでいる。同じ名前が二日続けて入らないよう、誰かが組んだらしい。
守る対象だけではなく、守る側まで守る。その考え方を、自分にも向けられるようになりたいと思った。
その日のうちに、川沿いの三つの村から記録係が城へ呼ばれた。会議室の中央には、濡れた長靴の跡と広げられた地図が混在している。
「川の水位は同じじゃないんですか」
一人が尋ねる。
「同じ川でも違います」
セレナは三本の杭の記録を並べた。
「上流は増えるのが早い。中流は少し遅い。でも、下流は一度上がると下がりにくい」
「じゃあ、赤線も同じ高さじゃ駄目?」
「はい。村ごとに決めます」
数字を一律に揃えた方が管理は楽だし、王都ならたぶんそうする。揃っていない基準は、上から見ると間違いに見えるからだ。でも、現地の条件が違う。
「この村は橋があります。ここは低地に家が多い。ここは家畜を移すのに時間がかかる」
セレナは一つずつ理由を説明した。
途中から、村人たちの方が提案を始める。
「うちは牛が多いから、黄色の時点で動かしたい」
「うちは子どもを先に教会へ」
「夜なら鐘を二回にしよう。昼は見張りが走れる」
セレナは筆を止めた。自分が考えていない案が次々に出る。自分が考える必要のなかった案、と言った方が近い。
「その方がいいです」
「でも、結界師様のやり方と違わないか」
「違っていいです」
答えはすぐ出た。
「守るのは、皆さんの暮らしですから」
村人たちは少しだけ驚いた顔をした。セレナも、自分の口からそんな言葉が出たことに驚く。
昔は、正しい術式を作ること、規定値に戻すこと。それが仕事だと思っていた。
今は、その先を見る。誰が使い、どう逃げ、何を守るのか。そこまで含めて結界なのだと思う。
会議のあと、カイルが残った地図を丸める。
「君、変わったな」
「何がです?」
「前なら全部決めてた」
「そうでしょうか」
「『この通りにしてください』って顔だった」
「顔で分かるんです?」
「分かる」
「便利ですね」
カイルが地図を棚へ戻す。
「今は、どういう顔」
「聞いてる」
「誰の話を?」
「皆の」
セレナは少し黙った。
仕事の仕方を褒められた。でも、前ほどその言葉へしがみつく感じがない。嬉しい。それで終われる。
終われるということが、たぶん一番の変化だった。
「ありがとうございます」
「自分で言うのか」
「言ってもいいでしょう」
カイルが笑い、セレナも笑った。
夕方、川の村から使いがもう一人来た。
「上流の杭、青まで下がりました!」
「避難解除は?」
「村長がまだ待つって」
「なぜ」
「夜にもう一度上がるかもしれないから」
セレナは頷く。
「良い判断です」
「伝えます!」
使いが帰っていく。
「行かなくていい?」
カイルが聞く。
「はい」
「本当に?」
「本当に」
「ちょっと残念そうだな」
「見たい気持ちはあります」
「じゃあ行く?」
セレナは窓の外を見た。もう夕食の時間だ。村には記録係がいて、見張りもいる。
「今日は行きません」
「そうか」
「明日の記録を見ます」
自分で言って、少し満足する。
見たい。でも行かない。それができる。たぶん、以前の自分には難しかった。
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