第20話 王都に魔獣が出た日
王都北部で侵入警報の鐘が鳴ったのは、朝の市場が最も混み合う頃だった。
一度目の鐘では、店を開けていた商人たちも手を止めただけだった。二度、三度と続いたところで、通りを行き交っていた人々が一斉に北門の方を見る。
火事の鐘ではない。外周結界への侵入を知らせる鐘だった。
「道を空けてください!」
王宮結界局の若手術者エドガーは、器材を抱えて市場の中央を走っていた。前を行く衛兵が人波を左右へ分ける。何が起きたのか分からないまま立ち止まる者も多く、荷車の間を抜けるだけでも時間がかかった。
「何が入ったんです!」
「角兎が三頭!」
衛兵が走りながら答える。
「三頭?」
「北門からじゃない。市場裏の外周を抜けたらしい!」
角兎は北部の草原や浅い森にいる小型魔獣だ。額から伸びた一本角は危険だが、大型魔獣のように人間を積極的に襲う種類ではない。
だからといって、放置できるわけでもなかった。ましてここは森でも草原でもない。人と馬車と露店が密集した王都の市場だった。
果物屋の前で悲鳴が上がる。
エドガーが角を曲がると、籠を蹴散らした角兎が石畳の上を走っていた。驚いた馬が嘶き、手綱を引いた御者の横で荷車が大きく傾く。
「馬を押さえて! 追わないでください!」
角兎は追われるほど走る。衛兵が槍を構えかけるのを止め、エドガーは通りの端へ簡易結界を張った。透明な膜へ角兎がぶつかり、驚いて進路を変える。
「今です!」
待っていた衛兵が大きな捕獲網を投げた。一頭目が網の下でもがく。
「次は肉屋の裏!」
別の衛兵が叫んだ。エドガーは息を整える暇もなく走り出した。
狭い裏通りでは、店の主人が子どもを背後へ庇っていた。角兎が木箱の陰に入り込み、逃げ道を探して忙しく首を動かしている。
「動かないでください。そのままで」
エドガーは声を落とした。怯えた魔獣を刺激しないよう、ゆっくり通路の片側を結界で塞ぐ。残った出口に衛兵が網を構えたところで、角兎が走り出した。
狙いどおりだった。二頭目を捕らえた時には、最後の一頭が市場の出口近くまで移動していた。
そちらは馬車の下へ潜り込み、衛兵たちを手こずらせた。結局、荷台から野菜を下ろして馬車を動かし、空いたところを別の術者が結界で囲ってようやく捕獲する。
警報が鳴ってから、三頭を全て押さえるまで二十分とかからなかった。人的被害はなかった。
それでも、騒ぎが収まった市場は元の姿ではない。果物屋の籠は潰れ、石畳には林檎が転がっている。割れた瓶から酒が流れ、倒れた台を商人が二人がかりで起こしていた。驚いて逃げた鶏を追っている者もいる。
「今日の分、半分は駄目だな」
最初に角兎へ飛び込まれた果物屋の主人が、潰れた果実を拾いながら呟いた。
「弁償については、あとで衛兵隊から説明があると思います」
「人が怪我しなかっただけましか」
そう言いながらも、男は苦い顔をしている。
報告書には、おそらく「人的被害なし、物損軽微」と書かれる。間違いではない。けれど、その軽微な損害を片づけて明日の商売を始めるのは、ここにいる人間たちだった。
「エドガー」
先輩術者のバルドが、人混みの向こうから歩いてきた。年齢は四十前後で、朝から別の基点を見ていたらしく、外套の裾に泥がついている。
「三頭とも確保したそうだな」
「はい。外周を見に行きます」
「その前に七番塔だ」
「侵入したのは外周ですよ」
「七番塔の出力が落ちた直後に、北側補助線も不安定になってる」
エドガーは眉を寄せた。
「また七番塔ですか」
「とにかく先に流れを戻す。原因を見るのはその後だ」
「外周側にも人を出してください。結界柱自体に問題があるかもしれません」
「出せるなら出してる」
バルドは疲れた顔で答えた。
「今日は三人、王宮の儀礼結界の点検へ回ってる」
「こんな日に?」
「こんな日になるとは昨日は分からなかっただろ」
それはそうだった。儀礼用の結界点検も仕事であり、何週間も前から日程が決められていた。その時点では北市場へ角兎が入るなど、誰にも予測できなかった。
「なら俺が外周を見ます」
「七番塔を見てからだ。今そこへ入ってるのは新人一人しかいない」
「分かりました」
エドガーは市場を一度振り返った。衛兵たちが捕らえた角兎を檻へ移している。
これ以上入らなければいい。そう思いながら、バルドと七番塔へ向かった。
*
七番塔では、故障と呼べるほど大きな破損は見つからなかった。魔晶石も正常。結界柱にも亀裂はない。それにもかかわらず、北側へ送られる魔力量だけが一時的に落ちていた。
エドガーは測定盤の数値を見ながら、棚から過去の記録を引っ張り出した。
「春先に同じ変動が出ています」
「何年前だ」
「三年前。その前にもあります」
バルドが横から覗く。
「誰の記録だ?」
署名を見るまでもなかった。細かな測定値だけでなく、天候、周辺基点の状態、翌月に確認すべき項目まで余白に書かれている。
「セレナ様です」
「だろうな」
バルドは椅子へ腰を下ろした。エドガーは記録をめくる。
「北側補助線の流量が雪解け時期に変化する可能性あり。恒久的な迂回線の増設を推奨……」
「増設したか?」
「分かりません」
「申請書を探せ」
二人で書類棚を調べる。やがて申請そのものは見つかった。
ただし、その後ろに添付されていたのは工事完了の報告ではなく、予算審査の保留通知だった。
「保留」
エドガーが読み上げる。
「翌年度に再審査」
「翌年度は?」
「こちらです」
今度は別の補修が優先されたため、延期。さらに翌年には七番塔そのものの魔晶石交換が行われている。しかし、北側補助線の増設についての記録はそこで途切れていた。
「セレナ様は、その後どうしていたんでしょう」
「たぶん毎年見てた」
「たぶん?」
「問題が出るたびに流量を調整してた記憶がある。俺も一度手伝った」
エドガーは顔を上げた。
「恒久工事をしないまま?」
「そういう場所は他にもある」
「それで今まで問題が出なかったんですか」
「問題が出る前に誰かが触ってたんだろ」
バルドは記録を指した。
「これを書いた本人が」
エドガーは返事をしなかった。
七番塔の数値を調整すること自体は、今いる術者でもできる。実際、二人で一時間ほど作業すると、北側外周への出力はほぼ通常値へ戻った。
ただ、今日は市場へ角兎が入った。去年は入らなかった。一昨年も、その前も。その違いがどこにあるのか、今の記録だけでははっきりしない。
「北側外周を見てきます」
今度はバルドも止めなかった。
「俺はここをもう少し調べる。何かあったら呼べ」
「はい」
塔を出る前に、エドガーはセレナの古い記録を一冊だけ鞄へ入れた。
*
午後には、北市場の一件が王宮まで届いていた。
「魔獣が市場へ入った?」
第一王子アルベルトは、侍従から渡された報告書を読みながら眉を寄せた。
「角兎が三頭です。すでに全て捕獲されております」
「負傷者は」
「ございません。露店や商品の損害が少々」
「なら、大事ではないな」
報告書を机へ置きかけ、アルベルトはもう一度内容を見る。
「侵入原因は七番塔の不調?」
「正確には、北側外周結界の一時的な出力低下とのことです。七番塔との関連を結界局が調査しております」
「七番塔……」
どこかで聞いた覚えがある。婚約解消の夜だったか、それより前だったか。セレナが北側の塔について話していた。
魔力の偏りがどうとか、春までに補修が必要だとか。細かな技術の話だったので、アルベルト自身はほとんど覚えていない。
「セレナの記録は残っているんだろう?」
「結界局でも参照しているようです」
「なら、原因も分かるだろう」
侍従が頷いたところで、扉が叩かれた。入ってきたのはミレイユだった。
「殿下、北市場で魔獣が出たと聞きました」
「もう終わった。怪我人もいない」
「本当ですか」
「ああ。角兎が三頭だ」
ミレイユは安心した様子を見せたが、机の報告書へ視線を落とした。
「結界を越えてきたのですか」
「一時的に出力が落ちたらしい」
「王都の結界が?」
「大げさに考える必要はない。一部分だけだ」
アルベルトはそう答えたが、ミレイユの表情は晴れなかった。
「以前にもあったのでしょうか」
「何が」
「同じ場所の不調です」
「結界というものは定期的に補修するものだろう」
「セレナ様がしていたような?」
名前が出たことで、アルベルトは少しだけ顔を硬くした。
「彼女だけがやっていたわけではない」
「もちろん、そうでしょうけれど」
ミレイユはそこから先を言わなかった。最近、結界局へ話を聞きに行っていることをアルベルトも知っている。セレナが実際にはどんな仕事をしていたのか、気になるらしい。
「彼女の記録なら残っている」
「記録があれば、同じように直せるのですね」
「そのための記録だろう」
「そうですね」
言葉だけなら同意している。それでもミレイユは何か考えている様子だった。
「何だ?」
「いえ。ただ、セレナ様がいなくなってから、結界の話を聞くことが増えた気がして」
「偶然だ」
アルベルトは即答した。
「冬を越えれば設備にも負担が出る。時期が重なっただけだろう」
「そうかもしれません」
「そもそも、必要なら呼び戻せばいい」
ミレイユが顔を上げた。
「呼び戻す?」
「王都の結界に彼女の知識が必要だと分かれば、戻らせる」
「戻ってくださるでしょうか」
アルベルトは質問の意味が分からず、少し眉を寄せた。
「王都が必要としているんだぞ」
「それは分かります」
「なら問題ないだろう。セレナは昔から、必要な仕事を投げ出すような人間ではない」
むしろ、だからこそ婚約解消後も結界の仕事は続けさせてもよいと伝えたのだ。私人としての婚約と、王国のための仕事は別である。
アルベルトには、それが合理的な考え方に思えた。
「今どこにいるかは分かっているのか」
侍従へ尋ねる。
「アシュフォード公爵家からは、北方へ向かった可能性が高いとの報告がございます。ヴァレンシュタイン辺境伯領に滞在しているという話も」
「辺境伯領?」
アルベルトは少し意外に思った。セレナと北方辺境伯に接点があった記憶はない。
「何をしている」
「詳細は分かりません。北方の結界調査ではないかと」
「なら、なおさらだな」
アルベルトは報告書を閉じた。
「王都の方が優先だ」
ミレイユが何か言いかけたが、その時には侍従が次の予定を告げていた。午後には外国使節との面会がある。
北市場の一件は、王宮にとってはすでに収束した事件として扱われ始めていた。
*
夕方になっても、エドガーは北側外周の結界柱を調べていた。角兎が越えた辺りに破損はなく、石柱そのものも正常だった。
七番塔から供給される魔力が落ちた時間帯だけ、外周線が規定値を下回っている。原因の位置は、さらに上流らしい。
「今日はここまでだ」
バルドがやってきた。
「暗くなる。続きは明日にしろ」
「あと二本だけです」
「灯りを使って見落とすより、朝やれ」
エドガーは少し迷い、測定器を片づけた。
「局長には?」
「七番塔の調整で復旧したと報告した。北側の詳細調査も申請する」
「通りますか」
「さあな」
バルドは肩をすくめた。
「でも出さなきゃ始まらない」
二人で市場へ戻る。朝に倒れていた露店は、もう半分ほど修理されていた。果物屋の主人も板を打ち直している。
「手伝います」
エドガーが声をかけると、男が驚いた。
「結界の人だろ?」
「今日はもう終わりです」
「じゃあ、そっち持ってくれ」
板の片側を支える。朝は果物が散らばっていた通りも、明日になればまた人で埋まるのだろう。
「明日は大丈夫なんだろうな」
男が釘を打ちながら尋ねた。
エドガーは少し答えに迷った。
「今は結界も正常に戻っています」
「今は?」
「原因も調べています」
「そうか」
男はそれ以上聞かなかった。
大丈夫です、と言い切ることもできた。けれど、それでは嘘になる。
帰り道、エドガーは鞄の中に入れたセレナの記録を思い出した。明日、まず北側補助線を調べる。そのために、以前どこでどんな変動が出たかを今夜確認しておこう。
それだけ決めた。
セレナがいなくなったから王都が駄目になった、などという大きな話をするつもりはなかった。現に今日も、結界局の術者と衛兵だけで角兎は捕らえ、結界も復旧させている。
ただ、以前なら市場へ出る前に収まっていた異常が、今日は三頭分だけ間に合わなかった。その差がどこから生まれたのかは、調べる必要がある。
*
その夜、アルベルトは昼の報告書をもう一度開いた。
人的被害なし。物損軽微。結界復旧済み。
事件としては、それで終わっている。それでも七番塔という名前が気にかかった。
机の引き出しには、以前セレナから渡された結界関連の書類が何通か残っている。探してみると、その中の一枚に北側外周という文字があった。
内容を読み始めたものの、専門用語が多く、途中で手を止める。以前なら、その場でセレナを呼んで説明させていた。
彼女は嫌な顔をせず、必要な部分だけを簡潔に話した。
「セレナへ書状を出せ」
控えていた侍従が顔を上げた。
「どのような内容でしょうか」
「王都結界網について確認したいことがある、と」
「帰還を求めますか」
アルベルトは少し考えた。
「まだそこまではいい。ただ、所在を確認しておけ」
「承知いたしました」
侍従が下がる。
アルベルトは再び書類を見る。
王都で問題が大きくなれば、セレナを戻せばいい。長年ここで結界を見てきたのだから、彼女自身もその方がよいと考えるだろう。
少なくともアルベルトは、そう疑っていなかった。
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