第19話 手袋
手袋が届いたのは、薬草谷の調査から二日後だった。
朝食を終えて執務室へ行くと、机の上に小さな箱が置いてある。書類の山を片側へ寄せて、わざわざ空けた場所だった。
「私の?」
宛名を見る。セレナ・アシュフォード。
「開けろ」
カイルが言う。
「カイル様から?」
「そう」
箱を開けると、薄紙の下から灰色の革手袋が出てきた。
見た目は地味だ。でも、指先だけ革が薄く、掌には細い銀糸が織り込まれている。光の角度を変えると、その糸だけが細く光った。
「結界用?」
「多分」
「多分?」
「職人に聞いた」
セレナは片方をはめる。指を入れた瞬間に分かった。手に合う。驚くほど。
「サイズ、どうして」
「前の手袋を借りた」
「いつ?」
「リナに」
振り返ると、リナは何事もなかったように書類を整えていた。
「共犯ですね」
「依頼されましたので」
「言ってくれても」
「驚かせた方が面白いかと」
「誰の判断です?」
「私です」
どうやらカイルではないらしい。
セレナは指を曲げる。動きやすい。
「良いですね」
「なら使え」
「ありがとうございます」
それで話は終わると思った。仕事道具、必要な装備。そういうものだと。
昼前、手袋を作った革職人が城へ来た。小柄な中年の女性で、セレナの手を見るなり眉をしかめる。
「火傷した手に、普通の騎士革なんか使っちゃ駄目ですよ」
「そんなに違うんですか」
「剣は握る。術者は感じる。必要なのが逆です」
職人は手袋を外させ、セレナの指を一本ずつ曲げた。節を押し、爪の際まで確かめる。人の手を見慣れた者の手つきだった。
「ここ、きつくない?」
「少しだけ」
「言ってください。辺境伯様がうるさいんで」
「カイル様が?」
「一作目を見せたら『厚い』。二作目は『指先が余る』。三作目は銀糸について質問攻め」
セレナは黙った。
「結界のことをご存じだったんですか」
「まるで。だから城の術者を連れてきたんですよ」
「そこまで」
「こっちも商売ですから、金を出す人には合わせますけどね」
職人は薬指の縫い目を少しほどき、細い針を動かした。糸を引く音が三度。
「はい。これでどう」
はめると、さっきより自然だった。
「良いです」
「なら完成」
「ありがとうございます」
「礼は注文主へ」
職人は道具を片づけながら、何でもないように続ける。
「仕事道具を贈る男は珍しくないけど、使い方まで調べる男は少ないですよ」
セレナは返事に困った。
「辺境では、必要な装備を整えるのが普通なのでは?」
「さあ。私は革屋なんで」
逃げられた。最近、こういう人が多い。
午後は城外の小さな基点で、新しい手袋の感触を確かめた。
銀線へ触れると、薄い革越しでも流れが分かる。指の腹に、細かな脈がそのまま届いた。
「感度、落ちません」
指先へ魔力を通す。熱も以前より伝わりにくい。
「良いです」
カイルが隣で腕を組んでいる。
「何回目だ」
「何が」
「良いって」
「良いものは良いです」
「なら良かった」
セレナは手袋を外し、掌を見た。古い火傷の跡が、いつもより赤くない。
「これ、かなり高かったでしょう」
「必要経費」
「でも、個人用です」
「だから何だ」
「契約の支給品なら、経費処理を」
「俺が払った」
セレナの手が止まる。
「個人で?」
「ああ」
「なぜ」
聞いた瞬間、カイルが少しだけ眉を寄せた。
「君がまた手を焼くと困る」
「仕事に支障が?」
「それもある」
「それも?」
カイルは一度だけ視線を外し、基点の石へ目をやる。
「手も同じだ」
「何と?」
「橋の時と」
セレナは思い出す。君が死んだら困る。自分を勘定から外すな。
「君の手だ」
カイルはそれだけ言った。
セレナは返事ができなかった。仕事道具、必要な装備。そう整理すれば簡単だったのに、今の言い方はその枠へ綺麗に入らない。入らないものを、どこへ置けばいいのか分からない。
「……ありがとうございます」
少し遅れて言う。
「さっきも聞いた」
「今のは別です」
カイルがこちらを見る。
「何が」
「別です」
説明できない。でも、違うと思った。
夕食のあと、セレナは手袋を外して掌を眺めていた。向かいのカイルが気づく。
「合わないのか」
「いいえ。合いすぎるくらいです」
「なら何だ」
「……どうして、そこまでしたんです?」
「何を」
「革職人に三回も直させて、術者に構造まで聞いて」
カイルはスープを一口飲んだ。
「必要だったから」
予想した答えだ。なのに、少しだけ残念に思った自分がいて、セレナはその感情に驚く。
必要だと言われて落胆するのは、初めてだった。
「仕事に?」
「違う」
カイルは皿へ視線を落としたまま言う。
「君の手に必要だった」
「同じでは?」
「俺には違う」
短い言葉で、それ以上は説明しない。セレナも聞けなかった。聞けば、何かが変わる気がした。
部屋へ戻り、古い手袋を道具箱から出す。
火傷の跡、擦れ、何度も補修した縫い目。掌の中央だけ、色が抜けて白くなっている。
まだ使える。捨てる必要はない。でも、明日は新しい方を使う。自分のために用意されたものを遠慮して使わないのは、たぶんそれも少し違う。
セレナは灰色の革をもう一度指へ通した。
守るための手。直すための手。そして今は、誰かが守ろうとした手でもある。
その考えに慣れるには、もう少し時間がかかりそうだった。
廊下の向こうから、カイルの声がする。
「明日の地図、ここに置くぞ」
「はい」
セレナは手袋を外し、机ではなく枕元の椅子へ置いた。仕事はもう終わっている。それでも、今夜だけはそれでよかった。
翌朝、セレナは迷わず新しい手袋を選んだ。古い方も鞄には入れてあるが、現場で使うのは灰色の方だ。
誰かが自分のために用意したものを、ちゃんと使う。それくらいは、もう許していいのだと思った。
*
翌日、新しい手袋をつけて城下の小さな結界柱を調整した。銀線へ触れると、薄い革越しでも細かな流れが分かる。
「熱は?」
カイルが聞く。
「前よりかなり少ないです」
「指は」
「動きます」
「本当に?」
「疑いますね」
「前科がある」
「言い方が悪いです」
セレナは手袋を外し、指先を見せた。赤みはなく、火傷跡も悪化していない。
「これで満足です?」
「まあ」
「では続けます」
「休憩してから」
「今始めたばかりです」
「昨日の職人が、最初は慣らせと言ってた」
「そこまで聞いたんですか」
「必要だったから」
また、その言葉。必要。
以前なら嬉しかった。自分が必要とされることは、そのまま自分の価値だった。でも今は、カイルの言う『必要』に少し違う響きが混ざっている気がする。同じ言葉なのに、後ろについてくるものが違う。
調整を終え、セレナは手袋の指先を確かめた。熱も赤みも残っていない。
「これなら長く使えます」
「なら良かった」
それ以上、カイルは何も聞かなかった。作る時にはあれほど細かく確認したのに、使えると分かった後はセレナへ任せるらしい。
「カイル様」
「何だ」
「私が結界師ではなかったら、この手袋は必要ありませんでしたよね」
「そうだな」
当然の答えだった。それでも、ほんの少しだけ落ち込んだ自分に気づき、セレナは戸惑う。
カイルは続けた。
「でも、別の何かが必要なら、それを用意する」
「なぜ」
「君だから」
短い。説明になっているようで、なっていない。
セレナは返事ができず、灰色の手袋へ視線を落とした。
城へ戻る途中、雨が降り始めた。弱い春雨で、石畳がまだらに色を変えていく。
二人で軒下へ入る。騎士たちは先に馬を厩舎へ回したので、少しの間だけ二人になった。
セレナは手袋を外し、濡れないよう胸元へ入れる。
「大事にしてるな」
「いただいたものなので」
「使うものだぞ」
「使っています」
「汚れてもいい」
「それは分かっています」
でも、少しだけ大事にしたい。その理由を自分でも認めたくなくて、視線を雨へ移した。
「王都では」
カイルがふいに言う。
「こういう物、誰かにもらわなかった?」
「仕事道具を?」
「何でも」
セレナは考える。婚約者だったアルベルトから、宝石や衣装を贈られたことはある。王太子妃候補として必要なもの、社交の場へ出るためのもの。
「ありました」
「そうか」
「でも、選んだのは侍従や衣装係だと思います」
「本人じゃない?」
「殿下は忙しかったので」
言ってから、自分で庇ったことに気づく。庇う癖だけは、まだ残っているらしい。
カイルは雨を見たまま黙っている。
「何です?」
「いや」
「またそれ」
「比べる話じゃないと思っただけだ」
「何を?」
「何でもない」
今度は本当に教えてくれない。
雨が少し弱まった。
「行くか」
「はい」
歩き出しながら、セレナは胸元の手袋へ一度だけ触れる。
比べる話ではない。確かにそうだ。でも、自分のために誰かが何度も作り直させた物を持つのは初めてで、それは思っていた以上に重かった。革の重さではない。
その夜、リナが手袋を乾かしながら言う。
「気に入ったんですね」
「使いやすいから」
「それだけ?」
「それ以外に何が」
「さあ」
また逃げる。
「最近、皆さんそればかり」
「お嬢様が気づくまで待っているのかもしれません」
「何に?」
「さあ」
「リナ」
「おやすみなさいませ」
部屋を出ていく。セレナは一人残された。
灰色の手袋。カイルの言葉。君だから。
意味を考え始めると落ち着かないので、今日は考えないことにした。分からないものを、無理に分かったことにしない。結界では学んだのだから、人についても同じでいいはずだ。
セレナは手袋を椅子へ置き、灯りを消す。
それでも眠る直前まで、『君だから』という一言だけは、なかなか頭から消えなかった。
*
手袋を使い始めて三日目、セレナはあることに気づいた。
カイルが、手袋そのものについてはもう何も聞かない。最初の日に熱や動きを確認したあとは、いつも通り仕事の話だけをする。それが少し不思議だった。
「もっと確認するかと思っていました」
夕方、城壁を歩きながら言う。
「何を」
「手袋です」
「問題ないんだろ」
「はい」
「なら終わり」
「そういうものですか」
「道具は使えてればいい」
セレナは灰色の手を見下ろす。
「でも、作る時はあんなに細かかったのに」
「作る前は分からなかったから」
「使えると分かったら?」
「君が使う」
それだけだった。
自分で選び、自分で使う。カイルはそこへ口を出さない。贈ったからといって、使い方まで支配しない。王都で贈られた宝石には、いつ着けるかまで指定がついていた。
その距離が心地いい。
「もし、私が使わなかったら?」
「理由を聞く」
「気に入らなかったら?」
「別のを作る」
「また?」
「必要なら」
セレナは笑ってしまった。
「職人さんが嫌がります」
「金は払う」
「そういう問題では」
でも、嬉しい。今度は、その感情を否定しなかった。
仕事道具だから嬉しい。使いやすいから嬉しい。それに加えて、カイルが選んだものだから嬉しい。
そこまで認めると、少し落ち着かなくなる。
「何笑ってる」
「何でもありません」
「そうか」
追及しない。それもありがたい。
城壁の端まで行くと、夕日が北の山へ沈みかけていた。セレナが手すりへ手を置くと、灰色の革が赤い光を受け、銀糸だけが一本ずつ線になって光る。
「大事にします」
「使えと言ってる」
「使いながら大事にします」
「ならいい」
今度の「いい」は、以前より少しだけ柔らかく聞こえた。
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