第18話 薬草谷
薬草谷で五人が戻らない。
知らせが届いたのは、朝食が終わる直前だった。
「霧が出ています」
駆け込んできた薬師が言う。
「白い霧。いつもの朝霧じゃありません。喉が痛くなる」
言いながら、本人も何度か咳をした。
セレナは立ち上がる。
「人数」
「採集人五人」
「最後に見た場所」
「谷の中腹です」
カイルも同時に立っていた。
「騎士を出す」
「結界が必要です」
「分かってる」
最近、このやり取りが短くなった。最初の頃は、何が必要かを説明するところから始めていたのに。
薬草谷は、普段なら春の花が多い場所らしい。
今日は入口から白い霧が溜まっていた。風が弱く、谷底へ沈んだまま動かない。水のように、地形の低い側だけを埋めている。
「普通の霧ではないですね」
セレナは測定石をかざした。魔力を含んでいる。しかも、呼吸器を刺激する成分が混ざっていた。
「中へ入れる?」
カイルが聞く。
「通路を作ります」
大きく覆う必要はない。人が歩く幅だけでいい。
セレナは前方へ細長い結界を伸ばした。霧を完全に押し返すのではなく、左右へ流す。白い壁に、細い切れ目が奥へ伸びていった。
「一列で」
騎士たちが続き、薬師も同行する。
一人目はすぐ見つかった。倒木の脇で、意識はある。
「喉が痛いだけです」
「歩かせます」
薬師が判断する。
二人目。三人目。見つかるたびに人数が増え、結界の負荷も上がる。守る幅は同じでも、中にいる人が増えれば足並みが遅くなった。
セレナは一度止まる。
「全員で最後まで行かなくていいですね」
カイルがこちらを見た。
「どうする」
「ローデリック様、三人を入口まで連れて戻ってください。担架組も一緒に」
「残りは?」
「私、カイル様、薬師、騎士二人で」
「分かった」
以前なら、全員を自分の結界の中へ残したまま進んだかもしれない。抱えたまま進むのが、守ることだと思っていた。今は必要な人数だけにする。
ローデリックが戻ると、結界が軽くなった。
「今の、いいですね」
セレナが呟く。
「何が」
「全員で最後まで行かなくていい」
「当たり前だ」
「私には、あまり当たり前じゃなかったので」
カイルが何か言いかけた時、霧の奥で咳が聞こえた。
「左!」
走る。四人目。岩陰にいた。
薬師が脈を取る。
「この人は歩けます」
残り一人。セレナは谷奥を見た。
「十分で見つからなければ、一度戻ります」
「それでいい」
見捨てるのではない。戻って、組み直す。その線を自分から決められたことが、少しだけ嬉しい。
五人目は、古い石柱の近くで倒れていた。その周囲だけ霧が濃く、輪郭が滲むほどで、二歩離れると足元が見えなくなる。
「基点です」
セレナが言う。現行の結界石ではない。古代網のものだ。しかも、誰かが最近触っている。
「先に救助」
カイルが言う。
「はい」
セレナは結界を狭め、人一人分の通路を強くした。カイルが先に入って倒れた採集人を抱き上げ、薬師がすぐ後ろにつく。
「戻ります!」
全員で入口へ。五人目を引き渡してから、セレナたちは改めて基点へ戻った。
「触られてます」
石柱の根元で、銀線が一本だけ新しい。周囲の線が黒ずんでいる中で、そこだけ白く光っている。固定金具も最近のものだ。
ただし。
「王都式じゃない」
ローデリックが見る。
「地元品ですな」
「しかも、よくある規格です」
前回までの王都式部材を追えばよい、という話ではなくなった。
切り方も違う。自然劣化に見えるよう、わざと浅く傷を入れている。急いでいない。丁寧に、見つかりにくいように作業している。
「向こうは、私たちが何を見つけたか知っています」
セレナが言う。
「どういう意味だ」
カイルが聞く。
「手口を変えています」
王都式の金具が手掛かりになり、黒い印も見つかった。だから、今回は地元品で、印も残さない。
「情報が漏れてる?」
「可能性はあります。ただ、こちらの動きを見ているだけかもしれません」
「どっちにしても、今まで通り全部公開するのは危ないな」
「はい」
セレナは記録方法を変えることにした。
「詳細図は城内保管。村へ渡すのは必要な部分だけ。閲覧者も記録します」
「君が全部持つ?」
「いいえ」
すぐ答えた。
「私一人に集めません。写しを二系統に分けます」
ローデリックが頷く。
「一つは城の記録庫。もう一つは結界担当室」
「はい」
「閲覧者名も」
「お願いします」
情報を守るために、自分一人へ集めるのではない。そこは以前と変えない。守り方を変えるたびに元の癖へ戻るなら、変えた意味がない。
谷の霧は、基点を一時停止したことで薄くなった。輪郭が戻り、谷底の草の色が見えてくる。
「何をしていた結界なんでしょう」
薬師が聞く。
「谷へ魔力を集めていた可能性があります」
「薬草のため?」
「まだ分かりません」
古代網は、土地を守るだけではない。水、鉱脈、魔力。そして今度は霧だ。
何を目的に作られたのか、セレナはますます分からなくなる。分かるたびに、分からないものが二つ増えていく。
でも、前ほど焦らない。
「入口に警告板を立てます」
「どんな」
「異常な白い霧を見たら入らない。城へ知らせる」
「それだけ?」
「それだけでいいです」
難しいことを全員が知る必要はない。危険だと気づき、知らせられれば十分だ。
*
翌日、谷の入口には新しい板が立っていた。
『白い霧を見たら入るな。城へ知らせよ』
薬師たちが相談し、霧の濃さを三段階で記録する印まで作っている。
「これなら術者がいなくても判断できます」
セレナが言うと、昨日救助された採集人が頷いた。
「俺たちも、少しくらいなら平気だと思わないようにします」
「お願いします」
「アシュフォード様もですよ」
思わぬところから返された。
「私?」
「昨日、谷の奥へ行こうとしてたでしょう」
カイルが横で咳払いする。
「言われたな」
「……気をつけます」
採集人たちが笑い、セレナも少しだけ笑った。
危険をなくすことはできない。でも、危険に気づく人を増やすことはできる。結界を張るだけが守ることではないと、この谷でも教えられた。
谷を離れる前、セレナは警告板をもう一度見た。まだ木が新しく、字も濃い。
次に来る時、この板が役に立っていればいい。自分がいなくても。そう思えるようになったことを、少しだけ誇らしく感じた。
薬草谷の記録を整理するため、午後は薬師たちと一緒に城の作業室へ入った。
机の上に並ぶのは、魔力測定値だけではない。霧の濃さ、風向き、採集人が喉の痛みを感じた位置、咳が出始めた時間、薬草の変色。
「こういうのも結界記録に入れるんですか」
若い薬師が尋ねる。
「入れます」
「でも、薬草のことですよ」
「私には分からないからです」
セレナが答えると、薬師が少し戸惑った。
「分からないから?」
「はい。私が分かる数字だけ残すと、次に同じ霧が出た時に薬師さんが困ります」
薬師はしばらく考え、それから自分の帳面を開いた。
「では、喉の症状も三段階にします」
「お願いします」
「目の痛みも?」
「それも」
「動物は?」
「分かる範囲で」
項目が増える。でも、誰か一人の負担ではない。必要な人が必要なところを書く。その方が、ずっと強い。
ローデリックが作業室へ顔を出した。
「新しい記録帳、また増えましたか」
「一冊だけです」
「その一冊が毎週増えるのです」
「でも、役に立ちます」
「分かっています。だから止めにくい」
諦めたように笑う。
夕方、カイルが訓練から戻る途中、作業室の前を通って扉から顔を出した。
「まだやってるのか」
「もう終わります」
「その言葉、信用していい?」
セレナは時計を見る。
「十分で」
「十五分までは許す」
「増えましたね」
「今日は夕食まで時間がある」
「ありがとうございます」
「礼を言うところか?」
カイルが部屋へ入り、机上の記録を見る。
「霧の色まで書く?」
「薬師さんの担当です」
「君が全部書いてない?」
「はい」
「珍しい」
「最近、そればかり言われます」
「こういうの、誰が保管する」
「薬師側に写しを一冊。城に一冊」
「君の部屋には?」
「置きません」
カイルが一度だけ頷いた。
「それでいい」
短い返事だが、以前とは違う意味で嬉しい。仕事を抱えないことも、評価される。
その夜、セレナは自室の机に、古代結界網・人為干渉記録の新しい表紙を置いた。
机の上が急に広くなり、最初は少し落ち着かない。それでも、火事が起きても、自分が倒れても、記録は残る。
「こちらの方が合理的」
声に出してみて、少し笑ってしまう。
以前なら、自分を守る話に『合理的』という言葉を使わなかった。合理は、他人を守るための言葉だった。今は、ほんの少しだけ使える。
窓の外では、城下の灯りが一つずつ消えていく。
セレナも帳面を閉じた。今日はもう終わり。そう決めて、灯りを消す。
*
翌週、薬草谷の警告板は早くも役に立った。
朝、村の少年が白い霧を見つけ、谷へ入らずに城へ知らせたのだ。セレナたちが到着した時には、採集人は一人も中へ入っていなかった。
「今日は誰も救助しなくていいですね」
薬師が言う。
「それが一番です」
セレナは入口で数値だけ測る。前回より霧は薄く、基点の残留魔力が一時的に上がっただけらしい。
「止めますか」
「今日は止めません」
「なぜ?」
「人が入らないなら、まず観察できます」
安全を確保した上で観察する。それも、チームがいるからできることだった。
薬師が霧の色を記録し、騎士が風向きを見る。セレナは魔力値を測った。少年は少し離れたところから、得意そうに様子を見ている。
「ちゃんと知らせたよ」
「助かりました」
「僕も役に立った?」
「はい」
即答すると、少年の顔が明るくなった。
セレナはその表情を見て、少しだけ胸が詰まる。役に立つことは嬉しいし、それ自体は悪くない。ただ、それだけで人の価値が決まるわけではない。
そのことを自分へ向けるのは難しいのに、子ども相手なら簡単に分かる。
「でも、次も一人で谷へ近づかないでくださいね」
「分かってる!」
少年が走って戻る。
カイルが横で言った。
「君、子どもには普通に言えるんだな」
「何を」
「自分だけでやるな、って」
セレナは答えられなかった。
「……人には言えるんです」
「知ってる」
「嫌ですね、それ」
「そのうち自分にも言える」
「そうでしょうか」
「多分」
「八割?」
「八割」
春の巡回で聞いた数字を思い出し、セレナは笑った。
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