第17話 消える羊
羊が消え始めたのは、その三日後だった。
最初は一頭。翌日は二頭。三日目には、村の羊飼いが城へ駆け込んできた。
「柵は壊れてないんです!」
息を切らした男が、城門前で訴える。
「血も毛も残ってない。ただ、朝になると減ってる」
狼なら痕跡が残る。残らないことの方が、この男には不気味らしかった。
「狼なら?」
カイルが聞く。
「柵を越えた跡があるはずです」
「人かもしれません」
セレナが言うと、羊飼いが目を見開いた。
「盗人?」
「まだ分かりません」
「行くぞ」
カイルが剣帯を取る。
今回は魔獣討伐ではない。それでも、セレナも迷わず同行した。
羊小屋の柵は確かに壊れていなかった。門の鍵も無事だ。
地面には羊の蹄跡が多すぎて、どれが夜のものか分からない。何十頭分もの跡が重なり、泥が一面練り返されたようになっている。
「結界は?」
セレナが確認する。
「正常です」
村全体を覆う外周結界も、家畜小屋の簡易警報も動いている。
「警報が鳴らなかった?」
「はい」
羊飼いが頷く。
セレナは扉の金具を見た。鍵に細かな擦り傷がある。真新しく、金属の地が覗いていた。
「開けられていますね」
「壊さず?」
「合鍵か、細い工具で」
カイルが柵の外を歩く。
「足跡」
指した先に、人間の靴跡があった。夜露で柔らかくなった地面に、二人分。
「追えそうです」
騎士が言う。
「分かれましょう」
セレナは地図を広げた。
「足跡は旧採石道へ向かっています。道は途中で二つに分かれる」
「俺は北」
「私は西を」
カイルが一瞬だけ見る。
「一人では行くな」
「騎士二人と行きます」
「ならいい」
今は、それで話が済む。言い合いの手数が、この一月でずいぶん減った。
西の道は狭く、両側を低い岩壁に挟まれていた。朝日がまだ届かず、道の底だけが青く沈んでいる。
羊の蹄跡が途中から増えた。
「こっちですね」
セレナが言う。
少し先で、煙の匂いがした。角を曲がると、男が二人。羊を五頭まとめ、火を起こしている。
こちらに気づいた瞬間、一人が立ち上がった。
「逃げる!」
騎士が走る。男たちも左右へ分かれた。
セレナは足下の銀杭を一本抜き、前方へ投げる。
「右、止めます!」
地面へ刺さった杭を基点に、細い結界が道を横切る。一人がぶつかって速度を落とし、騎士が追いついた。
もう一人は岩壁へ登ろうとする。
「左!」
もう一人の騎士が回り込み、数分で終わった。
羊は無事だ。火の周りで、何が起きているのか分かっていない顔をしている。
「盗んだのは全部で何頭」
カイルが合流して尋ねる。
男は最初、黙っていた。だが、羊の耳印と荷袋の中身を突きつけられると観念した。
「十二だ」
「売るつもりだった?」
「違う」
「なら何のため」
「金をもらって、指定された場所へ移してただけだ」
セレナとカイルが視線を交わす。
「誰から」
「知らねえ」
「また石塚か」
「違う。旧採石場の鉄箱だ」
旧採石場は村からさらに東で、現在は使われていない。切り出しの跡が階段状に残り、白い石肌が朝日を返している。
男の靴には、この辺りでは珍しい白い石灰土がついていた。
「ここですね」
セレナがしゃがむ。
「採石場の内側にしかない土です」
男が顔を背けた。
「案内しろ」
カイルが言う。
「嫌だ」
「なら足跡を追う」
「……分かったよ」
崩れた石壁の一角に、雨を避けるように小さな鉄箱が埋め込まれていた。中は空だ。
「回収後です」
ローデリックが蝶番を見る。
「箱は新しい」
「地元品ですね」
セレナは底を触らず、紙片だけを拾った。
「粉が残っています」
魔晶石ではなく、普通の紙粉だ。
「ここへ指示書を入れる?」
カイルが男を見る。
「ああ。夜に置いて、朝に取りに来る。金も同じ」
「誰が来る」
「知らねえ。本当にだ」
「何を報告した」
「黒い印があるかどうか」
セレナの手が止まる。
「黒い印?」
「森とか石とかに、小さい黒い印。あったら消せって」
裂け谷で見つけた、本当の道を示していた黒点だ。
誰かが、こちらの調査結果を追っている。見つけたものを、見つけたそばから消しにきている。
「いつから」
「三日前」
ちょうど、春の巡回で確認印が削られていた頃だった。
カイルの表情が硬くなる。
「相手が手口を変えたな」
「はい」
セレナはすぐ結論を出さない。
「ただし、同じ相手かはまだ断定しません」
「分かった」
その返事が自然に返ってくる。
*
村へ戻ると、羊十二頭はすべて持ち主へ返された。子どもたちが柵の外で待っている。
「戻った!」
「全部いる?」
羊飼いが一頭ずつ耳印を確認する。指で耳をめくり、番号を読み上げ、次へ移る。同じ動作が十二回続いた。
セレナは、その間に小屋の警報を見直す。
「扉が開いたら鳴るだけだと、合鍵には弱いですね」
「どうする」
「人が開けた場合だけ分かる仕組みを足します」
細い魔力糸と鈴。難しい術式ではない。扉を開けると糸が一度だけ震え、家の中の小鈴が鳴る。
「これ、俺にもできる?」
昨日まで羊を探していた男の子が聞く。
「大人と一緒なら」
「やった!」
セレナはやり方を見せた。
「糸が切れたら、自分で結び直さず城へ知らせてください。結び方で感度が変わります」
「分かった!」
カイルが柵へ寄りかかっている。
「何です?」
「君、何でも自分で直さなくなったな」
「今は教えています」
「そうだな」
少し嬉しかった。
夕方、村長が大きな包みを持ってきた。
「これ、皆さんで」
開けると、羊のチーズだった。両腕で抱えるほどあり、表面に布目の跡がついている。
「こんなに?」
「羊を十二頭も戻してもらったんで」
包み紙には、雑な字で宛名が書いてあった。
『セレナ様と辺境伯様へ』
セレナは文字を見る。
「一緒ですね」
「何が」
カイルが覗く。
「宛名です」
「二人で来たからだろ」
「そうですね」
それだけなのに、村の女性たちはなぜか笑っている。
「何です?」
「いえいえ」
「何か?」
「お似合いだなと思って」
「何がです?」
今度はカイルまで黙った。セレナは本気で分からない。
「仕事の組み合わせ?」
女性たちがさらに笑う。
「そういうことにしておきましょう」
意味が分からないまま、巨大なチーズを受け取る。
帰り道、カイルが前を向いたまま言った。
「気にするな」
「何を?」
「……ならいい」
それ以上は説明してくれなかった。
セレナは少し気になったが、今日は羊が全部戻った。それで十分だと思うことにする。
羊小屋の鈴は、城へ戻る時にも小さく鳴っていた。子どもが何度も扉を開け閉めしているらしい。
昨日までなら、警報術式をもっと精密にしようと考えたかもしれない。今は、子どもが大人と一緒に扱える程度で十分だと思う。
守る仕組みは、難しいほど良いわけではない。使う人が続けられることも、強さの一つだった。
*
城へ戻った夜、回収した鉄箱を改めて調べた。新しく、地元の鍛冶仕事で、鍵はなく投入口だけがある。
「誰でも使えますね」
ローデリックが箱を回す。
「だから誰が使ったか分からない」
セレナは蝶番を見た。
「でも、同じ規格の箱が他にもあるかもしれません」
「探す?」
カイルが聞く。
「全部は無理です」
「まず、採石場の周辺だけ。村の鍛冶屋へ、この型を作ったことがあるか聞きます」
「それで十分?」
「十分かどうかは、やってみないと」
「分からない、か」
「はい」
ローデリックが記録帳を閉じる。
「最近、その言葉を堂々と言いますな」
「良いことだと思っています」
「私もそう思います」
翌朝、村の鍛冶屋は鉄箱を見るなり首を振った。
「俺のじゃない」
「分かるんですか」
「角の折り方が違う」
鍛冶屋は箱の縁を指でなぞる。
「この辺じゃ、俺と隣村の親父くらいしかこういう薄板箱は作らんが、どっちのでもない。もっと北の仕事だな」
「どこ」
「砦の向こう。鉄が安いから、こういう板物をよく作る」
セレナは地図を出した。
「この辺り?」
「そうそう」
国境に近い。ただし、それだけで隣国を疑う理由にはならない。北で作られた箱が北から来たとは限らないからだ。
「記録だけしておきます」
カイルが横で頷く。
「敵だと決めない?」
「箱一つで戦争は始めたくありません」
「俺もだ」
冗談に聞こえないところが辺境伯らしい。
*
羊たちの簡易警報は、思ったより評判がよかった。村の子どもたちが仕組みを知りたがり、セレナの周りへ集まってくる。
「これ、魔法なの?」
「少しだけ」
「僕にもできる?」
「魔力があれば」
「ない!」
「では、鈴を結ぶ係」
「それならできる!」
子どもが得意そうに糸を持ち、別の子が羊の扉を開ける。
ちりん。
皆が笑った。
その様子を、カイルは少し離れたところで見ている。
「辺境伯様もやります?」
子どもが聞く。
「何を」
「鈴」
「俺が?」
「うん」
カイルが本気で困った顔をしたので、セレナは思わず笑った。
「結界より難しいです?」
「剣の方が楽だ」
「では、練習ですね」
子どもに糸を渡される。大きな手で小さな鈴を結ぶ姿は、かなり不器用だった。糸の端を三度取り落としている。
「下手」
子どもが容赦なく言う。
「知ってる」
「セレナ様の方が上手」
「私は細かい作業が得意なので」
「じゃあ二人でやればいいね」
何気ない一言に、セレナは手を止めた。
「二人で?」
「うん。セレナ様が細かいのやって、辺境伯様が重いの持つ」
カイルが結び目を見ながら言う。
「合理的だな」
「そうですね」
それだけの話なのに、昨日の『お似合い』という言葉まで思い出してしまう。
セレナは急いで次の鈴へ手を伸ばした。
城へ戻ったあと、セレナは回収した羊小屋の警報糸を机へ広げた。単純な仕組みだからこそ、扱いやすい。
「これを村ごとに少しずつ変えたいです」
ローデリックが首を傾げる。
「統一規格ではなく?」
「扉の大きさも、家畜の種類も違います。基本だけ共通にして、現地で調整した方がいい」
「管理は面倒になります」
「でも、使われない規格を配るよりましです」
カイルが横から糸を一本持ち上げた。
「これなら騎士も覚えられる?」
「はい。むしろ騎士の方が、夜間警備と組み合わせやすいです」
「じゃあ次の巡回では、今日いた騎士に教えさせる」
「私ではなく?」
「君が全部教える必要ないだろ」
セレナは一拍置いて、それから頷いた。
「そうですね」
自分が教えた人が、次の人へ教える。守る仕組みがそうやって広がるなら、その方がずっと強い。
ローデリックが記録用紙を一枚差し出す。
「では『簡易警報・現地調整可』で項目を作ります」
「お願いします」
カイルはもう糸に興味をなくしたらしく、机の端に置いたチーズへ視線を移した。
「これ、いつ食う」
「そこですか?」
「傷むだろ」
「確かに」
結局、その日の夕食で切り分けることになった。厨房で大きなチーズを切ると、騎士たちが次々に皿を持ってくる。
「お二人への贈り物では?」
セレナが言うと、若い騎士が笑った。
「二人で全部食べるんですか」
「そういう意味ではないですね」
やっと一つ分かった。
カイルが隣で小さく笑う。
「今さらか」
「分かっていたんですか?」
「途中から」
「教えてください」
「面白かった」
「ひどいです」
周囲から笑い声が上がる。
セレナは少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、チーズを一切れ取った。
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