第16話 春の巡回
春の巡回は、戦いより忙しかった。
朝、城を出た時点では晴れていたのに、一つ目の村へ着く頃には雲が増え、二つ目へ向かう途中には風まで強くなった。山の天気は変わりやすいと聞いていたが、王都育ちのセレナにはまだ感覚が掴めない。
「雨になりますか」
馬上から空を見る。
「夕方までは持つ」
隣を進むカイルが即答した。
「分かるんです?」
「匂い」
「匂い?」
「土と風」
セレナは鼻を動かしてみた。草、土、馬、自分の外套。分けられるのはそこまでで、その先に何があるのかは分からない。
カイルがこちらを見て、少しだけ口元を緩めた。
「そのうち分かる」
「本当に?」
「多分」
「自信がなくなりましたね」
前を行くローデリックが振り返らずに言う。
「辺境伯様の『多分』は、だいたい八割ほど当たります」
「十分高いです」
「残り二割は盛大に外します」
「余計なこと言うな」
そのやり取りを聞きながら、セレナは帳面を開いた。
今日の巡回先は三村。結界石の定期点検だけでなく、誰が維持を担当しているか、何を見ているか、異常時にどこへ知らせるかも確認する。
以前なら、石の数値だけを見て終えていた。数値は誰が測っても同じだから、それで十分だと思っていたのだ。今は違う。
一つ目の村では、井戸の浄化結界が問題なく動いていた。
「何もありませんね」
若い村長が言う。
「はい。何もないのが一番です」
セレナは井戸脇の石へ触れ、流量を確認する。安定しているが、銀線の張りが少し緩い。
「ここ、冬になるともっと緩みます?」
近くで見ていた老人が答えた。
「逆だ。冬は縮む」
「縮む?」
「銀線が冷えて引っ張る。だから秋に少したるませる」
セレナは顔を上げた。王都の教本には書かれていない。書かれていないというより、王都の冬ではそこまで縮まないのだ。
「誰に教わりました?」
「先代の村長。その前は城から来た結界師だったらしい」
「名前は?」
「知らん」
また、名前の残らない仕事だ。技術だけが人から人へ渡り、渡した人の名前は途中で落ちていく。
「お名前を教えてください」
「俺の?」
「はい」
老人は少し照れたように鼻を鳴らした。
「ゲオルグだ」
「綴りは」
「書けん」
「私が書きます。あとで確認してください」
セレナは帳面へ『ゲオルグ・井戸結界・季節ごとの銀線調整』と書き込む。
「こんなことまで残すのか」
「こういうことほど、消えると困ります」
カイルが少し離れた場所で見ていた。村を出てから言う。
「王都でもああやって聞いてた?」
「いいえ。中央の記録が正しいと思っていました」
「今は?」
「現場の記録も正しいです。ただ、種類が違います」
「違う種類」
「図面に残せることと、使っている人にしか分からないこと」
セレナは帳面を閉じた。
「両方必要です」
「俺にも分かる」
「書類を全部読まないのに?」
「必要なものは読む」
「ローデリック様が選んだものを」
「それで回ってる」
前を行くローデリックが肩を落とした。
「私の仕事量だけが増えておりますな」
二つ目の村では、子羊が生まれていた。
巡回とは関係ない。けれど、村長の娘がどうしても見てほしいと言うので、セレナは羊小屋まで連れていかれた。中は暖かく、藁と乳の匂いがする。
「昨日生まれたの!」
「小さいですね」
脚がまだ折りたたまれたままで、立とうとするたびに膝から崩れる。
「名前つける?」
「私が?」
「うん!」
セレナは困った。結界石なら数値で判断できるが、羊の名前には基準がない。
「白いから、シロでは」
少女が首を横に振る。
「普通すぎる」
「では……春に生まれたから、ハル」
「それも普通」
カイルが後ろで笑った。
「何です?」
「結界より苦戦してる」
「得意分野が違います」
「その羊、額に黒い点があるぞ」
カイルが指すと、少女が目を輝かせる。
「クロテン!」
「そのままですね」
「君のよりは採用された」
「納得いきません」
羊小屋を出る頃には、セレナの袖に細い毛が何本もついていた。
村の女性が小さな紙包みを渡してくる。
「これ、さっき抜けた毛。お守りにでも」
「私に?」
「昨日まで何も起きなかったから、生まれたんですよ」
何気ない言葉だった。
結界が働いたから。道が使えたから。夜に魔獣が来なかったから。その先に、子羊が生まれる。
守ったものの数は報告書に書ける。守ったことで生まれたものの数は、どこにも書けない。
セレナは紙包みを両手で受け取った。
「ありがとうございます」
三つ目の村へ向かう途中、道が泥で塞がれていた。荷車の片輪が深い轍にはまり、村人三人が押している。押すたびに車輪が回り、泥を後ろへ跳ね上げるだけで前へは出ない。
「手伝います」
カイルが馬から降りる。
「辺境伯様が?」
村人が慌てた。
「人数が増えれば早い」
それだけ言って、車輪の横へ入る。騎士も続いた。
セレナは轍の形を見る。
「そのまま押すと、反対側まで沈みます」
「どうする」
「木板を敷きます。前輪の下へ」
石工が荷台から板を下ろした。カイルが泥の中へ片足を入れ、車体を少し持ち上げる。
「今」
板が差し込まれる。
「押してください」
全員で押すと、荷車が一度大きく揺れ、それから轍を抜けた。
「助かりました」
村人が何度も頭を下げる。
カイルの靴は泥だらけだ。膝の上まで跳ねている。
「城へ戻ったら大変ですね」
セレナが言う。
「靴は洗えばいい」
「ローデリック様が怒りません?」
「俺の靴まで管理してない」
「管理したいくらいです」
ローデリックが疲れた声で返し、セレナは笑った。
こんな巡回も悪くない。
三つ目の村では、結界そのものに異常はなかった。ただ、前回セレナが石の側面へ残した黒い確認印が削られている。
「ここ」
指でなぞる。自然に薄れたのではない。周囲の苔はそのままで、印のあった部分だけが浅く抉れている。刃物で消されていた。
「誰か触りました?」
村長が首を振る。
「うちの者は触らないです」
カイルが周囲を見た。
「前に調べたのを知ってる人間が来た?」
「可能性があります」
セレナは新しい印をつけなかった。代わりに、石の裏側の小さな欠けを記録する。
「印を残さないのか」
「相手が何を見ているか分からないので」
「じゃあ次は」
「写真術式で記録します。外から分からない形で」
手口が変わる。こちらも変える。ただし、焦らない。焦って動けば、こちらの動き方まで相手へ渡してしまう。
「今日は触りません」
「いいのか」
「異常はありませんから」
村を出る前、セレナは村長へ言った。
「次の巡回まで、誰が結界を見たかだけ記録してください」
「難しいことは?」
「いりません。朝見た、夜見た。それだけで」
「それならできます」
「お願いします」
*
城へ戻る頃、予想通り雨が降り始めた。
「当たりましたね」
セレナが言う。
「八割の方だったな」
「残り二割は?」
「明日の話だ」
カイルが外套の襟を上げる。
セレナは鞍袋から子羊の毛が入った紙包みを取り出し、濡れないよう帳面の間へ挟んだ。
「何だそれ」
「今日、何も起きなかった記念です」
「変な記念だな」
「でも、大事です」
何も起きない。その裏に、誰かの手入れがあり、誰かの暮らしが続いている。以前より、その意味がよく分かるようになった。
雨の中、城の灯りが見えてくる。
セレナは今日の巡回記録の最後に、ゲオルグの名前と子羊のことを一行だけ残した。
翌朝、ゲオルグの名前は巡回台帳の余白ではなく、正式な保守担当欄へ書き直された。次回確認日は三か月後。
その時、自分が来るかどうかは分からない。だからこそ、自分以外の誰かが読んでも動ける形にする。見えない仕事を、見えないままにしないために。
セレナは日付を囲み、帳面を閉じた。
*
翌日は、巡回で聞いた話を城の会議室へ持ち帰った。
大きな事件があったわけではない。壊れた塔も、魔獣の巣もない。それでもセレナは、昨日の三村で拾った情報を地図の上へ並べた。
井戸の銀線は冬に縮む。東の畑は春だけ地下水位が上がる。北の斜面では、雪解け後に結界杭が一度だけ傾きやすい。
どれも一つずつなら小さい。けれど、土地の癖として見ると意味がある。
「これは、全部記録するのですか」
ローデリックが尋ねる。
「全部です」
「量が増えますな」
「でも、同じことを毎年聞き直すより安いです」
「それを言われると反論しにくい」
石工の一人が地図へ身を寄せた。
「この北斜面、俺たちも春は嫌なんですよ。石が緩む」
「結界杭も?」
「基礎ごと動く」
セレナはすぐ印をつける。
「では、結界の問題ではなく地盤の問題かもしれません」
「逆もある?」
「あります。結界の流れが偏ると、地面の水分が変わる場所も」
「じゃあ両方見る」
「はい」
会議は予定より長くなった。でも、以前のようにセレナ一人が全部説明する形ではない。石工が話し、村の記録係が話し、ローデリックが費用を見て、カイルが優先順位を決める。
自分が黙っている時間が、会議の半分近くあった。
「一番危ないのは」
カイルが聞く。
「今すぐならありません」
「なら二番目」
「北斜面です」
「なぜ」
「杭そのものではなく、基礎が動くから。見た目が正常でも、下でズレている可能性があります」
「じゃあ来週」
「はい」
話が決まる。それだけだ。
王都では、こういう小さな不具合は後回しになりやすかった。壊れていない、緊急ではない、数字は許容範囲。
でも、壊れる前に見る方が安い。それを当たり前にできることが、セレナには少し嬉しかった。
昼休み、セレナは城の中庭で昨日もらった子羊の毛を取り出した。白い毛束に、ほんの少しだけ黒い毛が混じっている。
「それ、何に使うんです?」
リナが隣へ座る。
「まだ決めてない」
「お守りに、と言われたのでしょう」
「でも、私はお守りを作ったことがありません」
「何でも術式にしなくていいんですよ」
「そう?」
「袋に入れて持つだけでもお守りです」
その発想はなかった。セレナは小さな布袋を探す。
「これでいい?」
「十分です」
毛を入れる。
何も起きなかった日。結界が壊れなかった日。誰も怪我をしなかった日。そんな日を記念に残すのは、少し変かもしれない。
でも、これまでの自分は、異常が起きた日ばかり覚えていた。直した塔、止めた事故、防いだ魔獣。その間にあった何百日の平穏は、記録に残らない。数えていないのだから、当然だ。
「これ、机に置きます」
「珍しいですね」
「何が」
「仕事に使わないものを、机に置くのが」
言われて気づく。確かに、セレナの机には道具と記録しかなかった。
「邪魔ならどけます」
「そういう意味ではありません」
リナが笑う。
「いいと思います」
夕方、カイルが執務室へ入ってきた時、机の端の小袋に気づいた。
「それ、羊か」
「分かるんですか」
「昨日見た」
「記憶力いいですね」
「君が珍しく仕事以外の物を持ってたからな」
リナと同じことを言われた。
「これは仕事にも関係あります」
「どういう」
「何も起きなかった日の記録です」
カイルは一瞬だけ黙り、それから袋を触らずに眺めた。
「いいな、それ」
「変じゃないですか」
「何も起きない方がいいだろ」
「はい」
「じゃあ残せばいい」
あまりに簡単な答えに、セレナは少し笑う。
「では、残します」
カイルはそのまま机の地図へ視線を落とした。
「来週の北斜面、俺も行く」
「危険ではありませんよ」
「知ってる」
「では、なぜ」
「見たいから」
どこかで聞いた言葉だった。王都を出る前、父に同じことを言った。
セレナは返事をせず、少しだけ笑った。
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