第15話 君が守るなら
穿角獣の巣を潰した翌日、セレナは午前中だけ休むことになった。正確には、リナと医師とカイルの三人に休ませられた。
「多数決はずるいと思います」
寝台の上で言う。
「三対一です」
リナが窓を開けながら答える。
「民主的ですね」
「辺境伯領は民主制ではないでしょう」
「なら命令です」
「もっと悪いです」
それでも、午前中は机へ向かわなかった。代わりに窓辺へ座り、城下を見る。
屋根の色が場所によって違う。城に近いほど石板、遠ざかるほど木の板。境目は一本の通りで、そこを荷車が行き来している。
遠くで石工たちが荷車を動かしていた。昨日一緒に坑道へ入った二人だ。
自分が休んでいても、仕事は進んでいる。当然のことなのに、以前はそれを不安に感じていた。自分が抜けた穴が、そのまま空いたままだと思い込んでいたのだ。
「お嬢様」
リナが茶を置く。
「何を考えてます?」
「休んでいても大丈夫なんだな、と」
「今さらですか」
「今さらです」
自分でもそう思う。
午後、執務室へ行くと、カイルとローデリックが昨日の記録を整理していた。
「休んだか」
カイルが聞く。
「はい」
「本当に?」
「リナに確認してください」
「それなら信用できる」
「私より?」
「かなり」
セレナは不満そうに椅子へ座る。机の上には昨日の坑道図、古代結界網の地図、中継点の破損記録が並んでいた。
「半年の予定を作ろうと思います」
「半年」
ローデリックが紙を出す。
「正式契約の方も準備しています」
「契約?」
「昨日、辺境伯様からお話がありましたので」
セレナはカイルを見た。
「何の」
「半年いるなら、ただ働きはさせられない」
「報酬は必要ありません」
「なぜ」
「調査したいのは私ですし」
「それでも仕事だ」
セレナは言葉を止める。
王都では、正式な辞令も俸給もないまま何年も結界の補修をしていた。必要だから、自分ができるから。それで十分だと思っていた。
十分だと思っていたから、婚約が終わった日に、何一つ残らなかった。
「相場が分かりません」
「そこは私が算定しました」
ローデリックが契約書を差し出す。金額を見て、セレナは目を見開いた。
「高くないですか」
「公爵令嬢価格ではありません」
「では?」
「専門家価格です」
その言い方が、妙に嬉しかった。
「住居、食事、現場移動費、必要経費は別途。緊急補修費は先日決めた上限内で現場判断」
「かなり整っていますね」
「辺境伯様が『任せる』と」
「ローデリックに?」
「はい」
カイルは悪びれない。
「得意な人間がやればいい」
「分かりました」
署名する。インクが紙へ沈むのを、最後まで見ていた。
セレナ・アシュフォード。婚約者でも、王太子妃候補でもない。結界調査・修復顧問。自分の仕事として書かれた名前だ。
「よろしくお願いします」
セレナが言う。
「こちらこそ」
ローデリックが答え、カイルは一度だけ頷いた。
その日の夕方、騎士団の訓練場を借りて簡単な結界講習をした。森で質問してきた若い騎士たちが十人ほど集まっている。
地面は踏み固められ、草がほとんど残っていない。土の匂いと、隅に積まれた木剣の匂いがした。
「戦闘中に必要なのは、結界師が何をできるか全部覚えることではありません」
セレナは地面へ三本の杭を打つ。
「何を頼めばいいか、最低限分かれば十分です」
「例えば?」
「道を塞ぐ。矢を逸らす。時間を稼ぐ。敵を片側へ寄せる」
「倒すのは?」
「皆さんの仕事です」
笑いが起きた。カイルが訓練場の端で腕を組んでいる。
「実演します」
騎士三人に木剣を持たせた。
「私が右を塞ぎます。皆さんは左へ追ってください」
「はい!」
結界が立ち、騎士が動く。一回目は失敗した。二人が同じ方向へ入り、ぶつかる。
「止めます」
セレナはすぐ結界を切った。
「今のは私の説明が曖昧でした。『左へ』ではなく、誰がどこへ動くか決めます」
自分の側の誤りを先に言うと、騎士たちの構えが少し緩んだ。
二回目は成功する。
「こういうものです」
若い騎士が笑う。
「戦闘訓練みたいだ」
「戦闘ですから」
講習が終わる頃には、見学していた兵士まで増えていた。
セレナが道具を片づけていると、さっきの若い騎士が駆け寄ってきた。
「次もやってもらえますか」
「結界講習?」
「はい。今日だけじゃ覚えきれないので」
「もちろん」
答えてから、セレナは少し考える。
「でも、次は私だけが教えません」
「どういうことです?」
「今日参加した人に、一つずつ説明してもらいます。できなかったところだけ私が直します」
騎士は露骨に嫌そうな顔をした。
「教える側ですか」
「人に説明できれば、たぶん本当に使えます」
遠くでカイルが聞いている。
「厳しいな」
「必要です」
「そういうことにしておく」
「本当に必要なんです」
また笑われた。
役に立てた。その感覚は、今でも嬉しい。ただ、役に立てなければここにいられない、とは少し違う気もしてきた。同じ嬉しさなのに、後ろについている条件が外れている。
*
夕食後、城壁の上へ出た。
北の空はまだ明るい。春が深まり、日が長くなっている。石はまだ昼の熱を残していて、手を置くとぬるい。
カイルが後から来た。
「体調は」
「大丈夫です」
「どっちの意味」
「ちゃんと大丈夫です」
「ならいい」
二人で城下を見る。
「半年」
セレナが言う。
「ああ」
「長いですね」
「嫌か」
「いいえ」
その答えはすぐ出た。
「むしろ、短いかもしれません」
「増やすか」
「まだ決めません」
「そうか」
風が吹く。城下の結界灯が一つずつ点き始めた。奥の通りから順に、点いた場所だけ夜が遅れていくように見える。
「私」
セレナは少し迷う。
「ここにいていいんでしょうか」
カイルが眉を寄せた。
「契約しただろ」
「そういう意味ではなくて」
言葉がうまく出ない。
「私は、役に立てるなら、ここにいていいと思っていました」
カイルは黙って聞いている。
「王都でもそうでした。結界を直せるから。殿下に必要とされたから。仕事があるから」
「今も仕事はある」
「はい。でも、失敗しました」
中継点を壊した。それでも契約は続いた。
「役に立てなければ、ここにいる理由がないと思っていたんです」
「一回失敗したら、役に立たないのか」
「理屈では違うと分かります」
「なら」
「感覚が追いつきません」
カイルは城壁へ肘を預け、少し考えるように遠くの森を見た。
「この前、君は『結界師として必要か』って聞いたな」
「はい」
「今は仕事の話をしてる」
セレナは彼を見る。
「だから、仕事では必要だ」
「はい」
「失敗しても」
「はい」
「それで終わり」
あまりに簡単だ。
「カイル様は、私が攻撃魔法を使えないことを気にしませんね」
「なぜ気にする」
「戦えないからです」
「守れるだろ」
「私は、守ることしかできません」
「それでいい」
カイルは即答した。
「斬るのは俺の仕事だ」
セレナは何も言えない。
カイルが続ける。
「君が守るなら、俺が戦う」
風が城壁を抜ける。
言葉自体は、戦術の確認にも聞こえる。実際、これまでずっとそうしてきた。セレナが道を塞ぎ、カイルが前へ出る。セレナが守り、カイルが斬る。役割分担。それだけのはずだ。
なのに、胸の奥に残る。役割の話なら、主語は「結界師」と「騎士」でよかったはずだ。彼は「君」と「俺」で言った。
「全部一人でやる必要はない」
カイルが言う。
「君ができないところは俺がやる。俺に分からないところは君がやる」
「その方が強い」
セレナは城下へ目を戻した。灯りが増えている。
自分一人で守っているわけではない。騎士がいて、石工がいて、村人がいる。カイルがいる。
「分かりました」
「何が」
「半年、ちゃんと働きます」
「そこか」
「違いました?」
「いや」
カイルが少し笑い、セレナもつられて笑った。
「それと」
「何です?」
「休む時は休め」
「努力します」
「努力じゃない」
「そこは譲ってください」
「駄目だ」
いつものやり取り。でも、昨日までより少しだけ軽かった。
その夜、契約書は机の引き出しではなく、記録帳の下へ置いた。何度も確認する必要はない。それでも、自分の仕事に名前と対価がついた紙を、今夜だけは近くに置いておきたかった。
*
翌朝、ローデリックから正式な契約書の写しを受け取る。報酬、役割、権限、期間。全部書いてある。
セレナは自分の名前を指でなぞった。
王太子の婚約者としてではない。誰かの好意で無償で手伝う人としてでもない。専門家として、ここにいる。それだけでも十分大きな変化だった。
窓の外では、騎士たちが朝の訓練を始めている。
セレナは新しい記録帳を開き、最初の頁に半年間の調査項目を書き出した。古代結界網、人為的な切断、魔獣移動、北側地脈。
そして最後に、一行だけ加える。
『一人で全部やらない』
少し考えてから、その下へもう一行。
『分からない時は、分からないと言う』
どちらも技術ではない。それでも、この半年で一番忘れそうな項目だと思った。
*
正式契約の初日、セレナは城下の小さな工房へ行った。結界用の銀杭を作る職人に、今後半年分の発注量を相談するためだ。工房の中は炉の熱がこもり、鉄と油の匂いがした。
「半年もいるんですか」
職人が驚く。
「予定では」
「じゃあ、しばらく北の人だ」
「北の人?」
「半年いれば十分でしょう」
似たことを前にも言われた。セレナは笑ってごまかす。
工房を出ると、通りの向こうでカイルが騎士たちと話していた。見回りの途中らしく、こちらに気づく。
「終わったか」
「はい。銀杭の規格を二種類にします」
「増えるのか」
「減ります。今まで五種類あったので」
「それは助かる」
「カイル様が使うわけではないでしょう」
「倉庫が空く」
「なるほど」
二人で城へ戻る途中、昨日の講習に参加した騎士が走ってきた。
「アシュフォード様!」
「どうしました?」
「南門で結界杭が傾いたんですが、昨日のやり方で仮止めしていいですか」
セレナは場所と状態を聞く。
「出力が落ちていないなら、仮止めだけで。銀線には触らないでください」
「分かりました!」
騎士が走り去る。セレナはその背中を見送った。
「行かないのか」
カイルが聞く。
「今は行かなくて大丈夫です」
「珍しい」
「教えたので」
「信用してる?」
「半分くらい」
「残り半分は」
「報告を待ちます」
カイルが笑う。
「それで十分だ」
しばらく歩くと、仕事の話が途切れた。その沈黙が、以前ほど気まずくない。埋めなければいけないものだと思わなくなった。
「カイル様」
「何だ」
「昨日の言葉」
「どれ」
「『君が守るなら、俺が戦う』」
「ああ」
「覚えておきます」
「何のために」
「役割確認として」
カイルが一瞬こちらを見る。
「そうか」
「違いました?」
「いや。今はそれでいい」
今は。その言い方だけが、なぜか少し引っかかった。
けれど、意味を聞く前に城門が見えてくる。セレナは問いを飲み込んだ。
半年ある。分からないことは、急いで答えを作らなくていい。古代結界と同じように。たぶん、人の言葉も。
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