第9話「月明かりの夜会と影の狩人」
王都の貴族街は、一夜にして華やかな不夜城へと姿を変えていた。
小高い丘の上に建つバルザック家の広大な屋敷。
その正門には、絢爛な装飾が施された馬車が次々と到着している。
馬のいななきと、車輪が石畳を擦る重たい音が夜の空気を震わせた。
着飾った貴族や裕福な商人たちが、従者を連れて光のあふれるエントランスへと吸い込まれていく。
屋敷の窓からは、目を刺すようなシャンデリアの強い光が漏れ出していた。
優雅な管弦楽の調べが、夜風に乗って遠くまで運ばれていく。
王都の富と権力を一身に集めたかのような、華やかな夜会の風景だ。
しかし、光が強ければ強いほど、そこに生み出される影もまた色濃くなる。
屋敷の裏手、深い森と隣接する高い石壁の暗がり。
そこに、風景の染みのように張り付く一つの影があった。
リゼだ。
彼女は光の反射を殺した漆黒の隠密装束に身を包んでいる。
顔の下半分を黒い布で覆い、青い瞳だけが冷たい知性を宿して周囲を観察していた。
彼女の呼吸は、すでに周囲の冷たい夜の空気と深く同化している。
心拍数は通常の半分以下にまで意図的に下げられていた。
『警備の数は三十。いや、三十五か。外回りの傭兵には、猟犬も混ざっている』
リゼは石壁の表面に指先を引っかけ、木々に遮られた死角から中庭の動線を計算した。
正規の騎士団ではなく、バルザックが裏金で雇い入れた荒くれ者の傭兵たちだ。
彼らの動きには統一感がない。
しかし、その分だけ予測不可能な獣のような直感を持っている。
二人の傭兵が、巨大な猟犬を連れて壁沿いを歩いてきた。
猟犬の鼻が地面を擦り、かすかな匂いの痕跡を探っている。
人間の目はごまかせても、犬の鋭い嗅覚を欺くことは困難だ。
だが、リゼの準備に抜かりはなかった。
彼女は懐から小さな革袋を取り出す。
中に入っているのは、特殊な植物の根を乾燥させて粉末状にしたものだ。
人間の嗅覚では感知できないが、犬の嗅覚神経のみを一時的に麻痺させる効果がある。
リゼは風向きを正確に読み取り、指先で粉末を弾き飛ばした。
微細な粒子が夜風に乗り、猟犬の鼻先へと運ばれていく。
猟犬が突然歩みを止め、鼻先を前足で擦るような仕草を見せた。
くしゃみを繰り返し、方向感覚を失ったように首を振る。
「どうした、クソ犬。サボるんじゃねえ」
鎖を引く傭兵が、いら立たしげに声を荒らげる。
彼らの意識が、足元の犬に集中した。
そのコンマ一秒の隙が、リゼにとっての十分な侵入経路となる。
リゼは音もなく石壁を蹴り、宙を舞った。
重力を感じさせない滑らかな軌道を描く。
彼女の小さな体は、傭兵たちの頭上を越え、屋敷の二階にあるバルコニーの影へと着地した。
石の床に足が触れた瞬間、足首と膝の関節を柔らかく使い、衝撃を吸収する。
枯れ葉が落ちるよりも小さな音しか生じなかった。
バルコニーのガラス扉には鍵が掛かっていたが、リゼにとっては障害にすらならない。
細い鉄線を鍵穴に滑り込ませる。
内部の構造を指先の触覚だけで読み取った。
微小な金属音が鳴り、複雑な仕掛け錠が外れる。
リゼは扉を押し開け、屋敷の内部へと潜入した。
そこは、客間として使われている贅沢な作りの部屋だった。
壁には金糸のタペストリーが掛けられ、床には毛足の長い絨毯が敷き詰められている。
階下からは、夜会の人々のざわめきと音楽が床板を通して伝わってきた。
リゼは部屋の扉をわずかに開き、廊下の様子をうかがう。
一定の間隔で配置された燭台が、赤銅色の光で廊下を照らしている。
警備の男が一人、槍を手に巡回してくるのが見えた。
リゼは扉の陰に身を隠し、男が通り過ぎる瞬間を待つ。
男の背中が視界を通り過ぎた直後。
リゼは音もなく廊下へと滑り出た。
彼女の手には、睡眠薬を染み込ませた厚手の布が握られている。
背後から跳躍し、男の首に腕を巻き付けると同時に、口と鼻を布で覆い塞いだ。
男が抵抗のために声を上げようとするが、強力な薬効が瞬時に彼の意識を奪い取る。
筋肉から力が抜け、巨体が崩れ落ちようとするのを、リゼは自身の体を使って支えた。
そのまま床に静かに横たえ、武器を遠ざける。
戦闘行為ではなく、ただ淡々と作業をこなすような冷徹な手際だった。
彼女は倒れた男を一瞥することもなく、屋敷のさらに奥へと足を進めた。
廊下の曲がり角に差し掛かる。
リゼの聴覚が、前方から近づいてくる二つの足音を捉えた。
靴底が絨毯を擦る音の重さから、大柄な男が二人だと推測する。
身を隠すための部屋の扉は、すべて内側から鍵が掛けられていた。
後退する時間はない。
リゼは天井を見上げた。
そこには、明かりを取るための太い木の梁が走っている。
彼女は壁面のわずかな装飾の突起に指を掛けた。
羽毛のように軽い身のこなしで、瞬く間に梁の上へと這い上がる。
彼女が暗がりに身を沈めた直後、二人の警備兵が真下を通り過ぎていった。
彼らは上を見上げることもなく、手にした松明の火だけがリゼの足元を赤く照らして消えていく。
バルザックという男の用心深さは、これまでの調査で嫌というほど理解していた。
表向きの夜会で華やかに振る舞う一方で、裏の仕事の証拠は決して自室には残さない。
ガルドを切り捨てたように、不要になった手駒は即座に処分する冷酷さを持っている。
だが、どれほど厳重に鍵を掛けようとも、人が出入りする場所には必ず綻びが生じる。
リゼは梁の上を這い進み、屋敷の奥深くへと侵入していく。
階下から聞こえてくる貴族たちの高笑いが、彼女の冷たい殺意をさらに研ぎ澄ませていった。
私利私欲のために子供たちの命を平然と天秤にかけるような怪物を、これ以上野放しにしておくわけにはいかないのだ。




