第10話「晩餐の裏側で散る毒花」
一階の広間では、豪勢な料理の香りとワインの甘い匂いが充満していた。
楽団が奏でる優雅なワルツに合わせて、色鮮やかなドレスや礼服が渦を巻くように回っている。
権力者たちがグラスを交わし、上辺だけの賛辞と腹の探り合いを繰り広げる社交の場だ。
その煌びやかな世界の真上、三階の廊下をリゼは音もなく進んでいた。
バルザックの屋敷は、階層が上がるごとに警備の質が変化している。
一階と二階を巡回していたのは、数の多さで威圧する荒くれの傭兵たちだった。
だが、この三階を守っているのは、足音の消し方を知る熟練の殺し屋たちだ。
彼らは等間隔で配置され、互いの視界を補い合うように廊下を監視している。
『三人。いや、扉の奥にさらに二人の気配がある』
リゼは廊下の隅の暗がりに溶け込みながら、敵の配置を正確に脳内に描いた。
正面突破は下策だ。
血の匂いを立てれば、下の階にいる客たちにまで騒ぎが波及する恐れがある。
リゼは懐から数本の極細の鋼線を取り出し、指先に絡め取った。
廊下の壁には、装飾用の甲冑がいくつか並べられている。
彼女は鋼線の一端に小さな鉛の重りを結びつけ、遠く離れた甲冑の関節部分に向けて正確に投擲した。
重りは音もなく甲冑の隙間に入り込み、引っかかる。
リゼが手元の鋼線をわずかに引くと、甲冑の腕の部分が不自然な角度で動き、壁の燭台をかすかに叩いた。
乾いた金属音が廊下に響く。
「……なんだ」
見張りの一人、痩せこけた男が警戒の声を上げ、甲冑の方へと歩み寄った。
彼の意識がすべて音の出所に向いた瞬間。
リゼは残る二人の見張りの死角を縫うように跳躍した。
床を蹴る音は、自身の筋肉の収縮音すら押し殺している。
彼女は最も奥に立っていた大男の背後に着地する。
同時に、両手に持った短い針を男の首筋の経絡へと正確に突き刺した。
悲鳴を上げる間も与えない。
男の白目が剥き出しになる。
全身の筋肉から命令伝達が途絶え、操り人形のように崩れ落ちていく。
リゼは倒れる巨体を背中で受け止め、床に音を立てずに横たえた。
そのわずかな空気の乱れに、もう一人の見張りが振り返る。
彼が声を上げるよりも早く、リゼは手首の柔らかなスナップだけで黒塗りの投げナイフを放った。
ナイフは空気を切り裂く。
男の喉仏の数ミリ横、発声を司る神経の束を的確に貫いた。
男は喉を押さえて痙攣する。
声にならない空気を口から吐き出しながら、床に倒れ伏した。
甲冑を調べていた最初の男が異変に気づく。
腰の剣を引き抜こうと柄に手を掛けた。
だが、リゼの動きは彼の視覚情報を上回っている。
彼女はすでに男の懐へと踏み込んでいた。
小さな拳が、男のみぞおちへと正確に突き入れられる。
内臓を深く揺さぶる一撃だ。
男の肺から空気が強制的に排出される。
そのまま意識の深い底へと沈んでいった。
三人の熟練の殺し屋を無力化するのに要した時間は、わずか五秒に満たない。
呼吸一つ乱すことなく、リゼは廊下の突き当たりにある扉の前に立った。
そこは最も豪華な装飾が施された、重厚な両開きの扉である。
バルザックの執務室だ。
彼女は扉の隙間に耳を押し当て、中の音を探る。
「……だから、その件は来月に回せと言っているのだ。今は騎士団がうるさい」
扉の奥から、バルザックの冷たく神経質な声が聞こえてきた。
相手は一人ではない。
もう一人、低くかすれた男の声が応答する。
「そうはいきませんぜ、バルザック卿。俺たちも商売なんでね。孤児院の土地が手に入らないなら、別の見返りを用意してもらわねえと」
声の主は、王都の裏社会を牛耳る別の闇組織の幹部だろう。
バルザックはガルド商会が壊滅した後も、即座に別の組織と手を結び、新たな搾取の計画を進めているのだ。
悪の根は、一つを断ち切ったところで次々と新しい芽を吹く。
この屋敷の主を排除しなければ、孤児院の子供たちが真に安眠できる日は来ない。
リゼは懐から、一際長く鋭い暗殺用の短剣を引き抜いた。
刃の表面には、致死性の猛毒が青黒く光っている。
彼女は深く静かに息を吸い込み、冷たい空気を肺の底まで満たした。
扉の鍵は内側から掛けられているが、蝶番の構造はすでに把握している。
彼女は短剣の柄尻で扉の合わせ目を強く打ち据え、鍵の部品を物理的に破壊した。
木材が弾け飛ぶ甲高い音が、分厚い絨毯の敷かれた密室の中に響き渡る。
驚愕に目を見開くバルザック。
腰の短剣に手を掛けながら椅子から跳ね起きる闇組織の男。
砕けた扉を蹴り開け、夜風とともに室内に舞い降りたのは、黒装束に身を包んだ死神の姿だった。
青い瞳だけが、獲物を狙う猛禽類のように冷たく光を放っている。
「な、何者だ。警備の者たちはどうした」
バルザックが顔面を蒼白に引きつらせ、後ずさりしながら声を張り上げる。
だが、助けに来る者はもう誰もいない。
「あなたに、夜の終わりのご挨拶を申し上げに参りました」
リゼの感情の読めない澄んだ声が、恐怖に染まる執務室に冷たく響き渡った。




