第11話「蜘蛛の巣と奈落の罠」
執務室の分厚い絨毯の上に、重苦しい沈黙が降りた。
室内の空気は、呼吸が困難になるほど張り詰めている。
バルザックは顔面を蒼白に引きつらせ、高級な革張りの椅子から立ち上がろうとして、足をもつれさせて尻餅をついた。
彼の隣にいた闇組織の幹部が大仰に舌打ちをする。
首には太い金色の鎖を巻き、両腕には分厚い鋼の小手をつけている大柄な男だ。
男の顔には無数の古い切り傷が走り、修羅場をくぐり抜けてきた者の凄みがあった。
「なんだ、ただのガキじゃねえか。バルザックの旦那、てめえの所の警備は子供のお遊戯会か」
男は鼻で笑う。
腰に提げていた幅広の蛮刀を引き抜いた。
鋼が鞘と擦れ合う冷たい音が鳴る。
刃渡りは短いが、その分だけ極端に分厚く、肉を斬るというよりも骨を砕くための重武器だ。
「舐めるな、ボギス。そいつは普通の子供ではない。警備のプロを一瞬で全滅させてここへ来たのだぞ」
バルザックが震える指でリゼを指差す。
ボギスと呼ばれた男は、獰猛な笑みを浮かべて首の骨を鳴らした。
「プロだかなんだか知らねえが、体格の差ってのは覆らねえんだよ」
言うが早いか、ボギスは床を蹴って猛然と突進してくる。
百キロ近い巨体が、巨大な岩石のようにリゼへと迫る。
振り上げられた鋼の蛮刀が、空気を叩き割りながらリゼの小さな頭頂部へと振り下ろされた。
直撃すれば、頭蓋骨ごと両断される致死の一撃だ。
リゼは表情一つ変えない。
刃が髪の毛に触れる数ミリ手前の距離で、彼女はわずかに右足の重心をずらした。
それだけで、凄まじい風圧を伴った刃は彼女の左肩をかすめ、空しく床の絨毯を切り裂く。
ボギスは自らの武器の重さに引きずられ、わずかに前のめりに体勢を崩した。
その隙を見逃すリゼではない。
彼女は退くのではなく、男の死角となる懐の深くへと滑り込んだ。
左手の掌底を、男の右肘の関節部分へと的確に叩き込む。
骨の継ぎ目を逆方向へと鋭く押し込む打撃だ。
ボギスの口から、声にならない短い悲鳴が漏れた。
腕の感覚が麻痺し、握力を失った手から蛮刀が滑り落ちる。
さらにリゼは体を捻り、男の左膝の裏側へと低い蹴りを放った。
人体の構造上、どれほど筋肉を鍛えようとも鍛えることのできない腱の急所だ。
巨体がバランスを失い、ボギスは前のめりに床へと倒れ伏した。
ほんの数秒の出来事である。
「ば、化け物め……」
バルザックの声が恐怖に上擦る。
彼は執務机の奥へと這いずり、机の裏側に隠された小さな金属のレバーに手を掛けた。
リゼが次の一歩を踏み出そうとした瞬間。
彼女とボギスが立っていた場所の床板が、不自然な金属音とともに真ん中から真っ二つに割れた。
地下へと続く深い縦穴の隠し扉だ。
重力を失い、リゼの体が暗闇の奈落へと投げ出される。
「そのまま地下の廃棄層で飢え死にするがいい。ボギス、貴様の縄張りは私が有効に使ってやる」
頭上から、バルザックの歪んだ高笑いが降ってくる。
隠し扉が閉まる鈍い音が響き、視界は一切の光を奪われ、暗闇に閉ざされた。
落下する虚空の中で、リゼの思考は氷のように冷徹に稼働を続けている。
彼女は腰のベルトから、先端に鋭い鉤爪のついた特殊なワイヤーを引き抜いた。
壁面に向かって勢いよく腕を振るう。
鉤爪が石組みの隙間に深く食い込んだ。
リゼはワイヤーを握る手に体重を掛け、摩擦を利用して落下の速度を徐々に殺していく。
手袋の表面が熱を帯び、火花が暗闇に散る。
十メートルほどの落下を経て、彼女の足裏は音もなく冷たい石の床へと着地した。
数秒遅れて、隣に巨大な質量が叩きつけられる重い音が響いた。
ボギスだ。
彼は落下の衝撃をまともに受け、両足の骨をひどく折ってしまったらしい。
暗闇の中で、脂汗を流しながらくぐもった呻き声を上げている。
リゼは暗視能力に近い視覚で周囲を見渡した。
冷たく湿った石の壁に囲まれた、窓の一つもない牢獄。
鼻を突くのは、カビと古い血液の混ざった不快な臭気だ。
「くそっ、あの腐れ貴族め。俺ごと落としやがった……」
ボギスが痛みに顔を歪めながら、呪詛の声を吐き出す。
彼は這いずるようにして壁に背を預け、リゼの気配を探った。
「おい、ガキ。お前、まだ生きてるのか。暗くて何も見えねえ」
リゼは無言のまま、音もなく男の背後へと回り込む。
彼に同情の余地はない。
数々の犯罪に手を染めてきた悪党だ。
彼女は男の首筋の経絡を指先で的確に突いた。
ボギスの意識は瞬時に途絶え、その巨体は床へと崩れ落ちる。
これで邪魔者は消えた。
リゼは頭上のはるか高くにある、閉ざされた隠し扉の隙間を見上げる。
『私がこの程度の穴で死ぬと本気で思っているのなら、ずいぶんと幸せな思考回路ですね』
暗殺者としての前世において、これよりもはるかに絶望的な処刑場から何度も生還してきた。
彼女は隠し持っていた登攀用の鉄の鉤を両手に装着する。
湿って苔むした垂直の石壁。
常人には到底不可能なその壁に、リゼは音もなく取り付いた。
壁面のわずかな凹凸を指先の感覚だけで探し当て、体重を限界まで軽くして引き上げていく。
静かな夜の地下室で、死神の静かな反撃が始まっていた。




