第7話「殺し屋同士の夜宴」
夜更けとともに、王都に降り注ぐ雨はさらに勢いを増していった。
空を覆う厚い雲が、わずかな星の光さえも遮断している。
路地裏は深いインクをこぼしたような暗闇に沈み込んでいた。
カフェ『隠れ木』の店内には、ただ雨粒がガラス窓を打ち据える重たい音だけが響いている。
ストーブの火はとうに消え、室内の温度は外気とほぼ同じまで下がっていた。
リゼは厨房の最も奥、冷蔵用の木箱の陰に身を潜めている。
呼吸の回数を一分間に一度まで落としていた。
心拍数を意図的に遅くし、自身の体温を下げる。
周囲の冷たい空気と深く同化していく。
それは、彼女が前世の暗殺者時代に最も得意としていた潜伏術だった。
どれほど鋭い五感を持つ者であっても、今のリゼを生命体として探知することは不可能に近い。
裏口の扉の方向で、かすかな空気の揺らぎが生じた。
鍵穴に極細の金属器が差し込まれる。
内部のシリンダーが一つずつ押し上げられる微小な摩擦音が、リゼの研ぎ澄まされた鼓膜に届いた。
金属の擦れ合う音が止む。
扉が油を差された蝶番に乗って、音もなくゆっくりと押し開かれた。
外の冷たい湿気が、室内の淀んだ空気を押し流していく。
侵入者は、足音を一切立てずに床板を踏みしめた。
昼間に客として訪れた男、ゼスだ。
彼の足裏は床板の軋む場所を正確に避け、体重を羽毛のように分散させている。
『やはり、罠の配置を変えたことに気がついたか』
リゼは暗闇の中で冷ややかに目を細めた。
昼間、彼が店を出た後に、リゼはテーブルと椅子の配置をわずかに数センチずつ移動させていた。
それは、昼間に彼が眼球の動きだけで記憶した店内の構造図を無効化するための細工だ。
ゼスは暗闇の中を一歩進んだところで、わずかに足の運びを止めた。
彼の研ぎ澄まされた空間認識能力が、記憶と現実のわずかなズレを感知したのだろう。
彼は懐から短い投げナイフを取り出す。
それを足元の暗闇に向けて、手首の反動だけで無音のまま投擲した。
鋭い刃が床を滑り、リゼが張っておいた極細の鋼線を切断する。
鋼線が弾ける甲高い音が、静寂の店内に響き渡った。
その音を合図に、死闘が幕を開けた。
ゼスの体が、弓矢から放たれたように前方へ跳躍する。
彼は鋼線の罠があることを逆手に取り、音の鳴った方向から店内の防御陣形を逆算して突撃してきたのだ。
彼の両手には、細く強靭な暗殺用のワイヤーが握られている。
空気を切り裂く鋭い風切り音が鳴り、見えない刃が暗闇を走った。
ワイヤーはリゼが隠れていた木箱の表面を深くえぐり取る。
木片が宙を舞った。
だが、リゼの姿はすでにそこにはない。
ゼスが罠を切断したコンマ一秒の隙に、彼女は天井の梁へと跳び上がっていたのだ。
幼い少女の身軽さと、極限まで鍛え抜かれた筋力だけが成し得る業だ。
リゼは梁を蹴る。
ゼスの頭上から音もなく落下した。
手にした毒針を、男の頸椎の隙間へと正確に突き立てようとする。
しかし、ゼスもまた一流の暗殺者だった。
彼は頭上からの殺気に反応し、瞬時に体を横へと捻る。
毒針は彼の外套の肩口を掠め、床板に深く突き刺さった。
ゼスは即座に反撃に転じる。
反転しながら右足を跳ね上げ、リゼの鳩尾を狙って蹴りを放った。
空気を叩く重い打撃音が響く。
リゼは空中で身を丸め、交差させた両腕でその蹴りを受け止めた。
大人の男の強烈な脚力に弾き飛ばされる。
彼女の小さな体はカウンターの奥へと吹き飛んだ。
だが、リゼは空中で見事に姿勢を制御していた。
着地の衝撃を足首と膝で吸収し、音もなく床に降り立つ。
「……ただの子供ではないとは思っていたが。まさか、これほどの化け物だったとはな」
暗闇の中で、ゼスの低く冷たい声が響いた。
彼の声には隠しきれない驚きが混じっている。
十歳の少女が、本職の暗殺者の蹴りを受け止め、無傷で着地したのだ。
彼の常識は大きく揺さぶられていた。
「私の店を汚す害虫には、相応の駆除方法を用いるだけです」
リゼは暗闇から、感情の抜け落ちた声で返答する。
互いの位置を探り合い、濃密な死の気配が店内を満たしていく。
ゼスが再び動いた。
彼は両手のワイヤーを交差させ、見えない網を張るようにリゼへと迫る。
触れれば肉を骨まで断ち切られる鋭利な罠の網だ。
リゼは退くことなく、あえて前方へと踏み込んだ。
彼女の小さな手には、昼間に彼が落とした銀のスプーンが握られている。
リゼはスプーンの柄を指の間に挟み、迫り来るワイヤーの軌道を正確に弾き落としていく。
金属同士が激突し、火花が暗闇に散った。
ゼスの視線が、一瞬だけ手元の火花に吸い寄せられる。
それは、歴戦の暗殺者であっても避けられない生理的な反射だった。
そのコンマ一秒の隙を、リゼは見逃さなかった。
彼女は床を滑るように前傾姿勢でゼスの懐に潜り込む。
ゼスの防壁の内側、わずか数十センチの距離。
リゼは左手で男の右手首を掴み、関節の可動域の限界を超えて捻り上げた。
骨が悲鳴を上げる鈍い音が鳴る。
ゼスの顔が苦痛に歪むよりも早く。
リゼは右手に持った銀のスプーンの柄を、男の右肩の付け根へと正確に突き入れた。
神経の密集する急所を貫き、奥深くの神経束を直接破壊する。
ゼスの右腕から一瞬にして力が抜け、握られていたワイヤーが床に滑り落ちた。
さらにリゼは体を沈み込ませ、男の左膝の関節を外側から強く蹴り抜く。
靭帯が断裂する嫌な音が響き、ゼスは姿勢を崩して床に倒れ込んだ。
リゼは男の背中に乗りかかり、首筋に鋭い毒針を突きつける。
運動神経を麻痺させる特殊な毒だ。
「これで、あなたはもう二度と武器を握れません。暗殺者としての人生は終わりです」
氷のように冷たい宣告が、ゼスの耳元に落とされた。
彼は抵抗しようと筋肉に力を込めるが、首筋から注入された毒が瞬く間に全身を巡る。
指先一つ動かすことができなくなった。
恐怖と絶望が、彼から表情を奪い去っていく。
リゼは動けなくなったゼスの懐を探り、一つの革袋を見つけ出した。
中には多額の金貨と、バルザック家の紋章が刻まれた銀の指輪が入っている。
暗殺の依頼の証拠品だ。
『あの貴族。これほどの手練れを雇うとは』
リゼは銀の指輪を見つめ、青い瞳に冷たい怒りの炎を宿した。
このまま彼を放っておけば、次はさらに強力な刺客が孤児院やルークの元へ送り込まれるかもしれない。
脅威の根源を絶たなければ、真の平穏は訪れない。
リゼはゼスの体を太いロープで縛り上げ、店の外の雨の中に引きずり出した。
証拠の指輪とともに、明日には騎士団の巡回が彼を発見するだろう。
リゼは店内に戻り、乱れたテーブルと椅子を元の位置に戻す。
床の傷を布巾で磨き上げ、戦いの痕跡を綺麗に消し去った。
冷たい雨の音だけが、再び路地裏を支配し始めていた。




