第6話「同業者の来店と冷たい紅茶」
午後になると、王都の空は鉛色の分厚い雲にすっぽりと覆われた。
昼間だというのに、薄暗い夕暮れのように太陽の光が遮られている。
冷たい雨がシトシトと降り始め、路地裏の石畳を黒く濡らしていった。
屋根の瓦を叩く雨音が、一定のリズムで重々しく響き渡る。
カフェ『隠れ木』の店内は、悪天候のせいもあって客足がすっかり途絶え、深い静寂に包まれていた。
リゼはカウンターの奥に立つ。
真鍮製のランプのガラス覆いを外し、丁寧に煤を拭き取っていた。
芯の長さを調整し、オイルを補充する。
かすかなオイルの匂いが広がる。
外から吹き込む雨の日の独特な湿った土の匂いと混ざり合っていた。
窓ガラスには無数の水滴が張り付いている。
外の景色を水彩画のようにぼやけさせていた。
ストーブの中では薪がパチパチと燃え、店内を柔らかな暖かさで満たしている。
不意に、ドアの真鍮鈴がかすかに鳴った。
ゆっくりと扉が開き、一人の男が店内に入ってくる。
灰色の深い外套を頭から被り、雨粒を滴らせている。
リゼは手を止め、顔を上げて営業用の笑みを作った。
「いらっしゃいませ。雨の中、ありがとうございます」
言葉を発した瞬間。
リゼの背筋がゾクッとした。
彼女の脳内に構築された危険察知の警報が、最大音量で鳴り響く。
外套を脱いだ男は、全く特徴のない、地味な顔立ちをしていた。
群衆に紛れれば一秒で忘れ去られてしまうような顔だ。
行商人のような質素で実用的な衣服を身につけている。
背中には大きめの革袋を背負っていた。
雨の匂いに混じって、彼からは一切の体臭が感じられない。
匂いの強い石鹸も使わず、ただ無香料の灰汁で体を洗い清めている証拠だ。
一見すれば、雨宿りに立ち寄ったただの旅の商人である。
しかし、リゼの目は、彼の表面的な偽装の奥底にある本性を瞬時に見破っていた。
まず、歩き方だ。
彼の靴は雨に濡れているにもかかわらず、床を踏む音が極端に小さい。
つま先から着地し、足の裏の外側を使って体重を分散させている。
いかなる足場でも音を立てないための歩法そのものだった。
さらに、彼の眼球の動きだ。
店内を見渡す際、首をわずかも動かさない。
眼球の動きだけで空間の広さ、出入り口の数、窓の鍵の構造を把握している。
カウンターの中のリゼの位置と距離を計算しているのだ。
感情の揺らぎが一切ない、ガラス玉のような瞳。
それは、他者の命を刈り取ることに何の躊躇いも持たない人間の目だった。
そして何より、外套を脱ぐ際に見えた彼の手。
剣を握るためにできる指の付け根の剣だこではない。
指の側面や指先に、不自然に皮膚が硬化した部分がある。
細いワイヤーや、特殊な暗器を日常的に扱っている証拠だった。
『同業者。それも、相当な腕利きのプロだ』
リゼは思考を急冷させ、表面上の笑みをさらに深めた。
男は店内の入り口に近い、通りを見渡せる一番端の席に腰を下ろした。
入り口に背を向けない、典型的な警戒姿勢だ。
「温かいお飲み物はいかがですか。本日は、冷えた体を温めるスパイスティーがお勧めです」
リゼはメニューを差し出し、幼く無邪気な声で問いかけた。
「ああ、ではそれを頼む」
男の声は低く、感情の起伏が全く感じられない。
リゼは一礼し、厨房へと戻った。
湯を沸かしながら、背中の筋肉をいつでも動けるように緊張させる。
彼の目的は何か。
偶然の雨宿りではない。
ガルド商会を壊滅させた何者かを探るため、あの貴族が放った狩人だろう。
孤児院を守ると宣言した紙を現場に残した以上、この周辺を怪しむのは必然だ。
この男も、不審な人物がいないかシラミ潰しに調査しているに違いない。
茶葉をポットに入れ、適切な温度の湯を注ぐ。
砂時計の砂が落ちるのを見つめながら、リゼは戦術を組み立てる。
今ここで戦闘になれば、店が破壊される。
彼には、ここがただのカフェであり、自分がただの子供であると思い込ませなければならない。
紅茶の香りが立ち上る。
リゼはカップをトレイに乗せる。
わざと少しだけ幼い子供のように、すり足気味で歩いた。
「お待たせいたしました。スパイスティーです」
トレイからカップをテーブルに移す。
その瞬間。
男の手が、わずかに不自然な軌道を描いた。
テーブルの端に置かれていた銀のスプーンを、意図的に払い落としたのだ。
スプーンが空中で回転しながら、床に向かって落下していく。
リゼの反射神経ならば、それが床に到達する前に、空中で容易に掴み取ることができる。
神経が反応し、右手の筋肉が収縮しようとした。
だが、リゼは強靭な精神力でその反射を瞬時にねじ伏せた。
あえて何もしない。
硬い木床にスプーンが激突し、甲高い金属音が響き渡る。
リゼはわざとらしく肩を震わせた。
「あっ、ご、ごめんなさい。すぐに新しいものをお持ちします」
リゼは慌てた様子で目を丸くする。
おどおどと床にしゃがみ込んだ。
震える手でスプーンを拾い上げる。
見事な、怯える子供の演技だった。
男はそんなリゼを見下ろし、小さく目を細める。
「いや、構わない。少し手が滑っただけだ」
男は淡々と答え、カップを手に取った。
紅茶を一口飲み、小さく息を吐く。
「良い香りだ。こんな路地裏に、こんな店があったとはな。君が一人で切り盛りしているのか」
「は、はい。店主だったおじいさんが亡くなって、私が引き継いだんです」
リゼはあらかじめ用意しておいた架空の設定を語る。
少し緊張した声色を作った。
男は視線を窓の外に向けながら、世間話のように言葉を続けた。
「そうか。大変だろう。最近、この辺りでは物騒な事件があったと聞いた。商会が何者かに襲われたとか。君も気をつけることだ」
鎌を掛けてきている。
リゼは両手を前掛けの上で強く握りしめた。
不安そうに眉を下げる。
「はい……騎士様も、戸締まりをしっかりするようにって言っていました。怖い人たちが早く捕まるといいんですけど……」
「そうだな」
男はそれ以上追求することはなく、黙々と紅茶を飲み干した。
テーブルに銅貨を置き、静かに立ち上がる。
「ごちそうさま。体が温まった」
「あ、ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」
リゼは深々と頭を下げる。
男は外套を羽織る。
扉を開けて雨の中へと消えていった。
扉が閉まり、ドアベルの音がすっかり鳴り止む。
その瞬間、リゼの顔から怯えた子供の仮面が滑り落ちた。
青い瞳に、底知れぬ冷たさが満ちていく。
床に落ちたスプーンを見つめる。
『彼は、私を無実だと判断したわけではない。念のため、今日の夜にでも殺しに来るだろう』
プロの思考は、プロであるリゼが一番よく理解している。
わずかな疑念でもあれば、後顧の憂いを絶つためにすべてを消し去るのが鉄則だ。
彼らにとって、他人の命など道端の石ころよりも軽いのだから。
リゼは店の扉の鍵を閉め、窓のブラインドを下ろした。
今日はもう店を開ける意味はない。
彼を迎え撃つための、狩場を作らなければならない。
リゼは厨房の奥から、黒く塗られた刃物を取り出す。
さらに、致死性の猛毒が塗られた極細の針、音を立てずに燃える特殊な導火線を用意する。
椅子やテーブルの配置をわずかに数センチずつずらす。
彼が侵入した際の足運びを自分の有利なように誘導する空間を構築していく。
ただのカフェが、一歩踏み違えれば命を落とす凶悪な迷宮へと姿を変えていく。
窓を叩く雨音が、まるで戦いの始まりを告げるように、さらに激しさを増していった。




