第5話「騎士の歓喜と貴族の激昂」
東の空が白み始め、王都は新しい朝を迎えた。
分厚い雲の隙間から、黄金色の陽光が細い糸のように地上へと降り注いでいる。
昨夜の冷え込みが嘘のように、空気にはかすかな暖かさが混じっていた。
石畳の表面には夜露が結露している。
朝日を反射して、足元に無数の小さな星が散らばっているかのように見えた。
リゼは竹の枝を束ねた手製の箒を持ち、店の前の通りを静かに掃き清める。
小石や土埃が一定のリズムで掃き集められていく。
舞い上がった細かい塵が、光を受けて空中で輝いた。
遠くにある教会の尖塔から、朝を告げる鐘の音が響いてくる。
澄んだ青銅の響きが、風に乗って路地裏まで届いた。
リゼは箒の手を止め、大きく息を吸い込む。
冷たく新鮮な空気が肺を満たし、頭の中を澄み渡らせていく。
昨夜の潜入の疲労は、彼女の身体には微塵も残っていなかった。
前世で培った特殊な呼吸法と睡眠法により、短時間で肉体をすっかり回復させている。
通りから、重々しい金属の擦れ合う音が近づいてきた。
リゼが顔を向けると、路地の入り口からルークが歩いてくるのが見えた。
いつもは軽装のパトロール用の革鎧だが、今日は違う。
白銀の板金鎧は、夜露に濡れて鈍い光を放っている。
関節部分の鎖帷子が擦れ合い、かすかな金属音を立てていた。
腰に佩いた長剣の柄には、王都を守護する鷲の紋章が刻み込まれている。
彼の足元を見ると、硬い革のブーツには真新しい泥がこびりついていた。
顔には疲労の色が濃くにじんでいる。
しかし、その瞳にはかつてないほどの強い光が宿っていた。
足取りは驚くほど軽く、まるで何か重たい荷物を降ろしたかのようだ。
「おはようございます、ルーク様。今日は随分と立派なお召し物ですね」
リゼは箒を壁に立てかけ、小首を傾げてみせる。
ルークは店の前まで来ると、息を大きく吐き出し、太陽のような眩しい笑顔を向けた。
「おはよう、リゼちゃん。夜通しの事後処理で、まだ着替える暇もなくてね。でも、最高の気分だよ」
彼は本当に嬉しそうに目を細めた。
リゼは彼を店内に招き入れる。
ルークはいつものカウンター席に座るなり、身を乗り出すようにして話し始めた。
「聞いてくれ。昨夜の深夜、ガルド商会の本部に騎士団の強制捜査が入ったんだ。誰かが詰め所の前に、彼らの悪事の証拠となる決定的な帳簿を置いていってくれてね」
ルークの声は弾んでいた。
帳簿には、孤児院の土地の不法な買い上げ計画や、違法な人身売買の記録が全て記されていたという。
「しかも、我々が踏み込んだとき、商会のボスのガルドは執務室で倒れていたんだ。何者かに首の裏を正確に打たれて、手足が麻痺した状態でね。床には、これ以上孤児院に手を出すなという警告文が突き立てられていた」
ルークは身振り手振りを交えて語る。
リゼは口元に両手を当て、驚いたような表情を作った。
「まあ、怖い。でも、その帳簿のおかげで、街に平和が戻るのですね」
「ああ、その通りだ。ガルド商会はこれで終わりだよ。孤児院も、この路地裏も、もう奴らに怯える必要はない。すべては、あの正体不明の義賊のおかげだ」
ルークは感慨深げに天井を仰ぐ。
義賊。
その響きに、リゼは内心でかすかに苦笑した。
自分は決して正義の味方などではない。
ただ、自分の平穏な日常を脅かす害虫を駆除しただけだ。
だが、ルークの真っ直ぐな喜びの感情は、リゼの心を温かく満たしてくれた。
「素晴らしい朝ですね。今日はお祝いに、特別な朝食をお作りします」
リゼは厨房に向かった。
棚から取り出したのは、使い込まれて黒光りしている分厚い銅製のフライパンだ。
小麦粉は、不純物の少ない一番搾りの上質なものを使用する。
そこに新鮮な卵と、今朝届いたばかりの濃厚なミルクを手早く混ぜ合わせた。
空気をたっぷりと含ませ、滑らかで均一な生地を作り上げる。
炉の火加減を、手をかざした際の温度感覚だけで正確に調整する。
フライパンに、切り分けた新鮮なバターを落とした。
熱された銅の上でバターが黄金色に溶け出す。
甘く香ばしい匂いが、狭い店内に一気に充満した。
そこへ生地を高い位置からゆっくりと流し込む。
表面に小さな気泡が次々と浮かび上がってきた。
火の通り具合を、生地の縁の色の変化と立ち上る匂いだけで見極める。
最適な瞬間を逃さず、手首の柔らかなスナップを利かせて木べらでふわりと裏返した。
黄金色に焼き上がった美しい焼き目が姿を現す。
分厚いパンケーキを皿に重ね、森で採れた赤い木苺を煮詰めた自家製のジャムをたっぷりと添えた。
深煎りの豆を贅沢に使った、濃いめの珈琲とともにカウンターへ運ぶ。
「わあ、これはすごいな。ごちそうになるよ」
ルークは目を輝かせ、ナイフとフォークを手に取った。
ふかふかのパンケーキを切り分け、ジャムを絡めて口に運ぶ。
彼の顔が至福の表情に染まり、咀嚼する手が止まらなくなった。
平和な朝餐の風景。
リゼはカウンターを拭きながら、その光景を穏やかな眼差しで見守っていた。
◆ ◆ ◆
だが、王都の反対側。
高台に位置する貴族街の一角では、全く異なる空気が渦巻いていた。
バルザック家の広大な屋敷。
大理石が敷き詰められた贅沢な作りの執務室で、壮絶な破壊の音が響き渡る。
壁に投げつけられた高級なクリスタルグラスが砕け散った。
中に入っていた年代物の赤ワインが、まるで鮮血のように壁紙を汚し、床へと滴り落ちている。
「ガルドのばかめ。あのような三流のならず者に任せたのが間違いだった」
部屋の中心で、細身の男が腹立たしげに顔を歪めていた。
病的に白い肌。
唇は薄く、神経質そうに引き結ばれている。
金糸の刺繍が施された絹のローブを身にまとっていた。
彼がこの街の裏社会で暗躍する腐敗貴族、バルザックだ。
細い指には、目も眩むような大粒の宝石をあしらった指輪がいくつもはめられている。
壁には、彼が狩猟で仕留めた珍しい獣の剥製がいくつも飾られていた。
香りの強い香水が、部屋中にむせ返るほど充満している。
「騎士団に帳簿が渡っただと。私の名前は出ていないだろうな」
バルザックは、部屋の隅でひざまずく使いの男を睨みつけた。
「は、はい。ガルドの奴め、貴族様との裏取引は別の暗号帳簿に記していたようで。今回は無事でしたが、これ以上捜査が進めば危険かと」
使いの男は床に額を擦りつける。
顔から脂汗を滴らせ、震える声で報告する。
バルザックは舌打ちをした。
ガルド商会が潰れたこと自体はどうでもいい。
代わりの手駒などいくらでもいる。
問題は、自らの計画に泥を塗られ、この私に恥をかかせた見えざる敵の存在だ。
孤児院を守るために動いた正体不明の何者か。
その存在が、バルザックの自尊心をひどく傷つけていた。
「あの孤児院の区画は、必ず私のものにする。邪魔をする輩は、根絶やしにしなければ気が済まん」
バルザックは宝石の指輪を弄りながら、低く冷たい声で命じた。
「ゼスを呼べ」
使いの男が肩を震わせる。
ゼス。
それは、裏社会でもその名を口に出すことすら忌み嫌われる、冷酷無比な暗殺者の名前だった。
金さえ積めば、どんな標的でも確実に仕留める死神。
「孤児院の関係者、および周辺で嗅ぎ回っている鼠をすべて始末させろ。見せしめに、あの薄汚い孤児院も燃やしてしまえ。灰すら残すな」
バルザックの狂気を孕んだ命令が、大理石の部屋に冷たく響き渡った。




