第4話「微笑みの裏に隠した毒牙」
夜の帳が王都をすっぽりと覆い隠した。
空には厚い雲が立ち込めている。
月明かりすら届かない深い闇が、街の輪郭を曖昧に溶かしていた。
カフェ『隠れ木』の二階。
自室の窓辺に立ち、リゼは夜の街を見下ろしていた。
昼間の愛らしいワンピース姿から一転している。
彼女は黒一色の動きやすい衣服に身を包んでいた。
一切の装飾を排している。
闇に溶け込むことだけを目的とした特注の衣服だ。
腰のベルトには、刃の表面を黒く塗って光の反射を抑えた数本の投げナイフ。
そして、細いワイヤーと手製の麻酔薬を潜ませている。
リゼは髪を黒い布でまとめる。
静かに窓枠に足をかけた。
地上まで約五メートルの高さ。
彼女はためらうことなく、夜の虚空へと身を躍らせた。
着地の瞬間、足首と膝の関節を限界まで柔らかく使う。
衝撃を押し殺す。
枯れ葉一枚踏み砕くよりも小さな音しか立てない。
リゼは裏路地の石畳に降り立った。
王都の商業区。
石造りの立派な建物が立ち並ぶその一角に、ガルド商会の本拠地は構えられている。
高い石壁に囲まれた豪快な構えだ。
彼らが裏稼業でどれほどの暴利をむさぼっているかを如実に物語っていた。
正門には、武装した屈強な警備兵が二人立っている。
リゼは壁の死角に身を潜めた。
彼らの動きを観察する。
呼吸の間隔。
重心の偏り。
視線の巡回ルート。
三分ほど観察を続けただけで、彼らの警備の穴は正確に把握できた。
壁の表面にある、ほんの数ミリの石の凹凸。
リゼはそこに指先を引っ掛ける。
足の親指と人差し指の間の筋肉を収縮させ、石の角を掴み取った。
体重を信じられないほど軽やかに引き上げる。
まるで重力という概念が存在しないかのようだ。
彼女は音もなく高さ四メートルの石壁を登り切った。
壁の上から中庭を見下ろす。
庭を巡回している見張りが一人、松明を手にして歩いていた。
彼が建物の角を曲がって視界から消える。
そのコンマ一秒の隙を突く。
リゼは中庭の芝生へと飛び降りた。
着地音は、地面に落ちる夜露の音よりもさらに小さかった。
すぐさま建物の壁面に張り付く。
石の冷たさが衣服越しに伝わってきた。
二階の窓の一つに目をつけた。
外壁の排水管を伝い、素早く無音で登っていく。
鍵は単純な掛け金式だ。
懐から細い鉄の棒を取り出す。
窓枠の隙間に差し込んだ。
内部の構造を指先の感覚だけで把握する。
かすかな金属音とともに、掛け金が外れた。
窓をゆっくりと押し開け、隙間から滑り込むように屋内へと侵入する。
床には厚く毛足の長い絨毯が敷き詰められていた。
足音を消すには好都合だが、不用意に歩けば衣擦れの音が響いてしまう。
リゼは足の裏全体を床に密着させる。
膝を曲げ、腰を低く落とした特殊な歩法で、静かに廊下を進んだ。
高価な葉巻の甘ったるい匂いと、強い酒の匂いが漂ってくる。
壁には成金趣味の絵画がいくつも飾られていた。
匂いの出所は、廊下の突き当たりにある一際大きな両開きの扉だった。
扉の隙間から、かすかにオレンジ色の光が漏れている。
リゼは扉に背中を預ける。
聴覚を研ぎ澄ました。
心臓の鼓動を意図的に遅くし、自らの発する音を消し去る。
中からは二人の男の声が聞こえてくる。
「……バルザック様。孤児院の件ですが、あの院長がなかなか首を縦に振りませんで」
「手間を取らせるな、ガルド。あの区画の土地は、私が計画している新しい遊技場の建設に不可欠なのだ。今週末までに更地にしろ。出て行かないというなら、夜中に火でも放てばよかろう」
「ははっ、かしこまりました。孤児の何人かが焼け死のうが、誰の気にも留めないでしょう。うまく事故に見せかけます」
二人の男の醜悪な笑い声が、扉越しに響いてきた。
リゼの瞳から、最後の一滴の感情が抜け落ちる。
絶対零度の真空のような殺意が、彼女の小さな身体を満たした。
孤児たちを焼き殺す。
その言葉を聞いた瞬間、彼らはリゼにとって人間ではなく、単なる駆除対象の害虫へと変わった。
だが、今ここで二人を殺せば、騎士団の捜査が本格化し、自分や孤児院に類が及ぶ可能性がある。
あくまで証拠を残さず、彼らの権力を内部から崩壊させなければならない。
リゼは静かにその場を離れ、屋敷内の探索を開始した。
ガルドが権力を振るえるのは、バルザックという後ろ盾と、莫大な裏金があるからだ。
ならば、その根源を断ち切ればいい。
リゼは執務室に隣接する書斎へと侵入した。
机の引き出しの複雑な鍵を数秒で外す。
中から分厚い革張りの帳簿を抜き出した。
そこには、違法な人身売買の記録や、貴族への賄賂の額が克明に記されていた。
これさえあれば、ガルド商会もバルザックも一網打尽にできる。
『さて、少しだけ挨拶をしておこうか』
リゼは帳簿を布で包み、背中に縛り付けた。
そのとき、廊下から重い足音が近づいてくるのが聞こえた。
バルザックが帰り、ガルドが書斎へ戻ってきたのだ。
扉が開き、太った男が部屋に入ってくる。
豪華な指輪をいくつもはめた指で、鼻歌を歌いながらランプの火を大きくしようとした。
「……誰だ」
ガルドの言葉は、最後まで紡がれなかった。
闇の中から音もなく背後に忍び寄ったリゼ。
彼女は手にした硬い木の棒で、ガルドの延髄を正確に突いた。
肉と骨に衝撃がめり込む鈍い音が鳴る。
ガルドの巨体が、糸を切られた操り人形のように床に崩れ落ちた。
重い音が部屋に響く。
意識は深く刈り取られた。
延髄への正確な打撃により、数日間は手足がまともに動かない状態になるだろう。
リゼは倒れたガルドを見下ろす。
冷ややかに目を細めた。
彼の指にはめられた金と宝石の指輪が、ランプの光を反射して光っている。
孤児たちから搾取した金で買った、血塗られた装飾品だ。
リゼの瞳に、激しい嫌悪の色が浮かぶ。
机の上にあったペーパーナイフを手に取った。
引き出しに入っていた一枚の羊皮紙に、文字を書き殴る。
『孤児院に手を出せば、次はお前の命を奪う』
その羊皮紙を、ガルドのすぐ耳元の床板に、ペーパーナイフで深々と突き立てた。
目覚めたとき、彼が最初に目にするのはこの宣告だ。
リゼは窓へ向かう。
夜風が部屋に入り込み、羊皮紙が音を立てて揺れた。
彼女の小さな黒い影は、窓枠を越えて夜の闇へと溶けていく。
誰にも見られることなく。
一切の痕跡を残すことなく。
◆ ◆ ◆
その数時間後。
王都の治安維持を担う騎士団の詰め所の入り口に、分厚い革張りの帳簿が置かれているのを、夜警の騎士が発見した。
その帳簿が王都にどれほどの嵐を巻き起こすか、このときの騎士はまだ知る由もなかった。
リゼは自室のベッドに潜り込み、静かに目を閉じる。
明日もまた、ルークのために美味しい珈琲を淹れなければならないのだから。




