番外編「騎士の休日と見えない小石」
秋の足音が近づき、王都を囲む森の木々が赤や黄色に色づき始めていた。
休日の朝。
ルークは一人、王都の郊外にある静かな森の開けた場所で剣を振るっていた。
バルザックの一件以来、彼は非番の日であっても鍛錬を欠かしたことがない。
法で裁けない悪党を前に、力不足を痛感したからだ。
彼の振るう長剣が空気を裂く。
鋭い風切り音が、静かな森に何度も響き渡っていた。
剣筋は正確で、王都の騎士団の中でも上位に入る美しい型である。
銀色の刃が朝陽を反射し、美しい弧を描いていた。
しかし、その動きには実戦を生き抜くための泥臭さが欠けている。
命のやり取りにおいては、型の美しさなど何の役にも立たない。
必要なのは、一撃で相手の骨を砕き、肉を断つための合理的な力だ。
『これでは駄目だ。あの夜、屋敷に侵入したという義賊には到底及ばない』
ルークは額の汗を手の甲で拭い、歯を食いしばる。
彼が再び剣を上段に構えようとした時だった。
「ルーク様、おはようございます。こんな朝早くから、熱心ですね」
背後の茂みから、幼く明るい声がした。
ルークが驚いて振り返ると、そこには籠を抱えたリゼが立っていた。
彼女の足元には、森で採れたばかりの新鮮な木苺や香草がたっぷりと収まっている。
落ち葉の積もる森の中を歩いてきたはずなのに、彼女の接近にルークは気がつかなかった。
彼が剣の鍛錬に集中しすぎていたせいだろうと、ルークは自分を納得させる。
「おはよう、リゼちゃん。カフェの仕入れかい。一人で森を歩くのは危険だよ」
「ご心配なく。この辺りは浅い森ですから、野犬も出ません」
リゼは柔らかく微笑み、切り株の上に籠を置いた。
彼女はルークの乱れた呼吸と、疲労の蓄積した肩の筋肉を観察する。
剣の素振り自体は悪くない。
だが、踏み込む際の足の重心がわずかに浮いている。
足首から膝にかけての筋肉の連動が甘く、地面を蹴る力が上半身に伝わりきっていない。
それゆえに、斬撃に体重が乗り切らず、動作の移行に無駄が生じていた。
「少し休憩にしませんか。温かいお茶を持ってきたんです」
リゼは水筒から木製のカップに香草茶を注ぎ、彼に手渡した。
ルークは剣を鞘に納め、感謝の言葉とともにカップを受け取る。
湯気とともに、爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
「ありがとう。実は最近、自分の剣術に壁を感じていてね。いくら振っても、剣先が軽く感じてしまうんだ」
ルークは自嘲気味に笑い、お茶を喉の奥へと流し込む。
リゼは隣の切り株に腰掛け、足元の小さな小石を拾い上げた。
「剣のことはよくわかりませんけれど……」
リゼは小石を指先で転がしながら、無邪気な子供の表情を作ってルークを見上げた。
「お店で重い小麦粉の袋を運ぶときは、足の指先まで地面にしっかりくっつけるようにしているんです。そうしないと、力が逃げてしまって腰を痛めてしまうので。剣を振るときも、同じではないですか」
それは、暗殺術における身体操作の基礎中の基礎だった。
重心を地面に密着させ、大地の反発力を利用して筋力を何倍にも増幅させる技術だ。
ルークは目を見開き、自分の足元を見下ろした。
騎士団で教わる基本の型は、見た目の美しさを重視するあまり、実戦での重心移動を軽視する傾向がある。
「足の指先まで、地面に……」
ルークはカップを置き、再び剣を抜き放った。
リゼの言葉通り、革靴の中の足の指に意識を集中させ、地面を掴むようにして構える。
そのまま、前方へ向かって強く踏み込んだ。
空気を切り裂く音の質が、先ほどとは明確に変わった。
風切り音ではなく、重たい質量の塊が空気を叩き潰すような低い音が響く。
剣先にはルークの体重が余すことなく乗っており、振りの速度も格段に上がっていた。
ルークは自分の手の中にある剣を見つめ、信じられないというように息を吐く。
「すごい……剣が、自分の体の一部になったみたいだ」
「お役に立てたならよかったです。でも、あまり無理はしないでくださいね」
リゼは立ち上がり、籠を腕に掛けた。
彼女の顔には、優秀な弟子を見守るような穏やかな笑みが浮かんでいる。
「ありがとう、リゼちゃん。君は僕の専属の指南役になれるかもしれないな」
ルークは冗談めかして笑い、上機嫌で剣の素振りを再開する。
リゼはその背中を静かに見守りながら、森の奥へと歩き出した。
落ち葉を踏む音さえ立てない彼女の背中は、すでに凄腕の暗殺者のものではない。
ただの、少しだけ秘密を持った少女の後ろ姿だった。




