エピローグ「世界で一番美味しい珈琲」
冬の厳しい寒さが過ぎ去り、王都に色鮮やかな春が訪れていた。
路地裏の石畳にも暖かな陽射しが届き、長い冬の間は身を潜めていた小さな虫たちが顔を出し始めている。
軒先に飾られた鉢植えの花々が、一斉に赤や黄色の蕾を開いていた。
カフェ『隠れ木』の店内は、窓から吹き込む爽やかな春の風と、焙煎された珈琲の香りに満たされている。
冬の間は締め切られていた窓も半分ほど開け放たれ、外の空気をふんだんに取り込んでいた。
「リゼさん、三番テーブルのお客様からホットケーキの追加注文です」
厨房のカウンター越しに、少し声変わりを始めた少年の声が響く。
東区の孤児院から通いで手伝いに来ているレオだ。
孤児院の財政が安定してからも、彼はリゼの店で働くことを強く希望した。
今では立派な給仕として、無駄のない動きで店内を歩き回っている。
「わかりました。すぐに焼きますね。レオ君、その間にお皿を下げておいてください」
「はいっ」
リゼは銅製のフライパンにバターを落とし、手際よく生地を流し込む。
甘く香ばしい匂いが立ち上り、彼女の鼻腔をくすぐった。
この店を開いてから、もうすぐ二年が経とうとしている。
かつて暗殺者として、他人の血の匂いばかりを嗅いできた彼女の日常は、今やバターと砂糖の甘い匂いで塗り潰されていた。
入り口の真鍮鈴が甲高い音を立てて鳴り、一人の青年が店に入ってくる。
真新しい装飾の施された鎧に身を包んだルークだ。
彼は最近、騎士団の中で小隊長に昇格し、以前にも増して忙しい日々を送っている。
だが、どれほど忙しくとも、非番の日には必ずこの店に顔を出していた。
「こんにちは、リゼちゃん。今日も繁盛しているね」
「いらっしゃいませ、ルーク様。ご昇進、改めておめでとうございます」
リゼはフライパンの火を弱め、彼に向かって深くお辞儀をした。
ルークは照れくさそうに頭を掻き、いつものカウンター席に腰を下ろす。
リゼは彼のために、特製のブレンド豆を挽き始めた。
今日の豆は、深煎りのコクと浅煎りの華やかな香りを緻密な計算で混ぜ合わせたものだ。
コーヒーミルを回す硬質な音が、店内に一定のリズムを刻む。
砕かれた豆からは、香ばしいナッツのような匂いと、かすかな果実の匂いが混ざり合って漂ってきた。
ドリッパーに細く湯を注ぐ。
粉の表面が滑らかに膨らみ、内部に閉じ込められていた濃厚な香りが一気に解放される。
ガラスのサーバーに滴り落ちる液体は、光を透かして美しい琥珀色に輝いていた。
あらかじめ湯で温めておいた陶器のカップに、出来立ての珈琲を注ぐ。
ソーサーに小さな焼き菓子を添えて、ルークの前にそっと差し出した。
カップに注がれた琥珀色の液体を、ルークは目を閉じて味わうように飲む。
彼の顔から日々の任務の疲労が抜け落ち、安らぎの表情へと変わっていく。
その表情を見るのが、今のリゼにとって何よりの報酬だった。
「やっぱり、ここの珈琲が世界で一番美味しいよ」
ルークはカップを置き、心からの賛辞を口にした。
リゼは布巾でカウンターを拭きながら、静かに微笑む。
かつての彼女は、自分の淹れた珈琲が誰かの心を温めることなど想像もしていなかった。
手には刃物を握り、心には冷たい氷を抱えていた前世。
その氷を溶かしてくれたのは、孤児院の温もりであり、ルークの優しさであり、この街で出会ったすべての人々の笑顔だ。
「ありがとうございます。これからも、ずっと淹れ続けますね」
リゼの言葉に嘘はない。
彼女はもう、二度と夜の闇に紛れて戦うことはないだろう。
守るべき場所は、すでにここにある。
窓の外からは、小鳥のさえずりと街の人々の明るい声が聞こえてくる。
リゼは顔を上げ、澄み渡るような青空を眩しそうに見つめた。
十歳の少女の身体に宿った古い魂は、今度こそ本当の意味で、新しい人生の春を謳歌し始めていた。




