第13話「夜明けの炎と灰の決意」
東の空が薄紫から白へとグラデーションを描き始めた頃。
リゼは音もなく自室の窓枠を越え、ベッドの上に降り立った。
王都の空気を震わせていた馬車の音や騎士たちの怒号は、遠い幻のように消え去っている。
路地裏は、夜明け前の深く冷たい静寂に包み込まれていた。
彼女は黒い布を解き、漆黒の隠密装束を静かに脱ぎ捨てる。
極度の緊張状態から解放された肉体が、かすかに熱を帯びていた。
関節を伸ばし、深く静かな呼吸を繰り返して心拍数を平熱時のリズムへと戻していく。
興奮の波が引き、心地よい疲労感が全身の筋肉に染み渡っていった。
リゼは一階の厨房へと降りる。
石造りのストーブに新しい薪をくべ、火打ち石で小さな火種を作った。
細く乾燥した枝葉に火が移り、やがて太い薪へと燃え広がっていく。
オレンジ色の炎が、薄暗い店内を暖かく照らし出した。
リゼは壁の裏側から、昨夜使用した暗殺具の数々を取り出す。
血を吸うことのなかった毒針。
鋼鉄をも断ち切る極細のワイヤー。
そして、闇に溶け込むために仕立てた予備の黒い衣服。
これらは、自らの平穏を脅かす外敵を排除するために、前世の知識を総動員して作り上げたものだ。
『もう、これを使う夜は来ない』
バルザックという巨大な悪の根は、昨夜の騎士団の突入によって根こそぎ引き抜かれた。
彼が隠し持っていた裏帳簿や他組織との密約の証拠は、すべてルークの目に触れる場所に残してきた。
あの実直な青年ならば、どんな圧力がかかろうとも、必ず法廷でバルザックの罪をすべて暴き立てるだろう。
彼を失った裏社会の組織も、騎士団の厳しい追及を逃れるために王都から散り散りになるはずだ。
孤児院の土地を脅かす者は、もはやどこにもいない。
リゼは黒い衣服を丸め、ためらうことなくストーブの炎の中へと放り込んだ。
特殊な染料を含んだ布が、木が爆ぜるような音を立てて激しく燃え上がる。
彼女は続けて、バルザックの屋敷の構造を記した羊皮紙や、毒の調合書も炎にくべた。
過去の自分を象徴する暴力の道具たちが、次々と赤い炎に飲み込まれ、形のない灰へと変わっていく。
ストーブの前にしゃがみ込み、リゼはその炎の揺らめきを静かに見つめていた。
燃え尽きていく灰の中に、血に塗れた前世の自分の影が溶けて消えていくような気がした。
数時間後。
すっかり夜が明け、王都は珍しいほどの熱気に包まれていた。
大通りでは新聞売りの少年たちが、声を張り上げて号外を配って走っている。
裏社会を牛耳っていた大貴族バルザックの電撃的な逮捕劇は、瞬く間に街中の噂となっていた。
カフェ『隠れ木』のドアベルが鳴り、一人の青年が店内に転がり込んでくる。
ルークだ。
彼の銀色の鎧にはあちこちに煤がつき、目の下には濃い隈が落ちている。
徹夜での証拠品押収と取り調べを終え、文字通り休む間もなく駆けつけてきたのだろう。
彼の左腕には、急ごしらえの白い包帯が巻かれている。
残党の抵抗に遭ったのかもしれない。
だが、その表情はこれまでにないほど晴れやかだった。
「リゼちゃん、聞いたかい。バルザック卿を捕縛したんだ」
カウンターに身を乗り出し、ルークは興奮した面持ちで語りかける。
リゼは目を丸くして驚いたふりをし、彼に温かいおしぼりを差し出した。
「はい、表の通りがとても騒がしいので、何事かと思っていました。ルーク様、お怪我はないですか」
「ああ、僕は大丈夫だ。バルザックの執務室の暖炉から、燃え残りの書類を回収できたんだ。それに、地下の隠し牢のような場所からは、あの闇組織の幹部ボギスも発見された。彼は両足を折られて動けない状態だったが、観念したのか、バルザックとの密約をすべて自白したよ」
ルークはおしぼりで顔の煤を拭き取りながら、早口で言葉を紡ぐ。
「押収した書類の中に、孤児院の土地の権利書もあった。法務省の計らいで、あの土地は王室の保護下に入ることになったんだ。もう二度と、あそこを奪おうとする悪党は現れない」
ルークの言葉に、リゼの胸の奥底で、硬く結ばれていた最後の結び目が柔らかく解けた。
王室の保護下に入れば、どんな大貴族であっても手出しはできない。
孤児院の子供たちの未来は、これ以上ない形で守られたのだ。
「それは……本当に、よかったですね」
リゼの目から、演技ではない本物の涙がひとしずくこぼれ落ちた。
ルークは優しく微笑み、彼女の小さな頭をなでる。
粗い革手袋の感触が、心地よく髪をなでていった。
「すべては、あの正体不明の義賊のおかげだ。昨夜、バルザックの屋敷で、窓辺から逃げていく黒い影を見たんだ。きっと彼が、決定的な証拠を残して僕たちを導いてくれたんだろうね」
ルークは遠い目をして、窓の外の青空を見上げる。
「もし叶うなら、一度会って礼を言いたいよ。僕たちの街を守ってくれてありがとう、とね」
「……ええ。きっとその方は、ルーク様のお言葉だけで十分喜ばれていると思いますよ」
リゼはハンカチで目元を拭い、とびきりの笑顔を向けた。
そして、彼のために、いつもの最高の一杯を淹れる準備に取り掛かるのだった。




