第四十四話 線の向こうに立つ
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
翌朝、男はいつもより早く出社した。
誰もいないフロア。
まだ空気が仕事になりきっていない時間帯。
その静けさが、今はありがたかった。
前日に引いた線は、
まだ誰にも評価されていない。
成功とも失敗とも呼ばれていない。
ただ、存在している。
男は、自分の席に座り、
机の上を整えた。
書類の山も、
昨日のメモも、
いつもと何も変わらない。
それでも――
**立っている場所は、確実に違っていた。**
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午前中、何人かが男の席を訪れた。
質問も、相談もない。
ただ、用件とは別の一言だけが残る。
「……大変でしたね」
「覚悟、要りましたよね」
男は、深く頷かなかった。
否定もしなかった。
「仕事ですから」
それだけで済ませた。
線を引いたことを、
武勇伝にしない。
苦労話にも、しない。
**それが、線を引く人の最低限の姿勢**だと、
男は思っていた。
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昼過ぎ、山田が近づいてきた。
「……ありがとうございました」
昨日とは違う声だった。
軽く、前を向いた音。
男は、短く答える。
「次は、君が誰かを守れ」
それで、十分だった。
資格は、
自分を正しくするために取るものじゃない。
**判断が、孤立しないようにするため**にある。
誰かが線を踏み守ったとき、
一人にしないために持つものだ。
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夕方、フロアに灯りが戻る。
今日も、何かが劇的に変わったわけじゃない。
損失は消えていない。
不満も、完全にはなくなっていない。
それでも、
踏み外れなかった線がある。
その線の向こう側に、
男は逃げずに立っている。
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帰り際、
窓に映る自分を見て、男は思う。
資格を取る前より、
楽になったわけじゃない。
むしろ、
重くなった。
だが――
**戻れなくなった判断に、
一人で立たなくてよくなった。**
それで十分だ。
線を引き、
線の外にも立ち、
名前を拾い、
黙って引き受ける。
その積み重ねが、
男の仕事になった。
資格を取った男の話ではない。
**資格のあと、どう立ったか**の話だ。
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