第三十九話 線を越えない優しさ
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
その相談は、内容だけを見れば些細なものだった。
期限が一日過ぎた書類。
理由は、家庭の事情。
誰にでも起こりうる話だった。
「これ……今回は、目をつぶれませんか」
声をかけてきたのは、長く一緒に仕事をしてきた同僚だった。
遠慮と期待が、同じ重さで混ざった目をしている。
男は、すぐに首を縦に振らなかった。
「まず、確認させてほしい」
静かな声で言う。
「その“一日”を許すと、
次に同じ理由が出たとき、どうする?」
相手は一瞬、言葉を失った。
「……状況次第、ですかね」
「そうなる」
男は頷く。
「でも、それは
“人を見る判断”になる」
優しさは必要だ。
事情を汲むことも、間違っていない。
だが――
「人を見て線を動かし始めると、
線は、もう線じゃなくなる」
相手は、唇を噛んだ。
「冷たいですね」
男は否定しなかった。
「冷たいと思われるのは、構わない」
そして、続ける。
「ただ、
**線を守ることで守れる人もいる**」
今回、期限を守った人。
無理をして間に合わせた人。
黙って線の内側に留まった人。
その存在は、声を上げない。
「だから、
線は越えない」
少し間を置いて、男は付け加えた。
「でも、
次に遅れそうになったら、
その前に相談してほしい」
それは例外ではない。
**次のルール**だった。
---
相談を終えたあと、
相手は小さく頭を下げた。
「……分かりました」
納得ではない。
だが、理解はしている顔だった。
席に戻りながら、男は思う。
優しさは、
何かを許すことだけじゃない。
**同じ条件で、同じ判断ができる状態を保つこと。**
それは、一番地味で、
一番誤解されやすい優しさだ。
夕方、別の部署から同じような相談が入る。
男の答えは、揺れない。
線を越えない。
でも、置き去りにもしない。
資格を取った意味が、
また一つ、形になる。
厳しさの話ではなく、
**壊れない優しさの話**へと、静かに踏み込んでいく。
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