第三十五話 決めたのは誰か
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
返事は、翌日の午前中に来た。
鈴木からの社内メールは短く、要点だけが並んでいた。
件名に「対応結果」とある。
男はすぐには開かなかった。
先にコーヒーを一口飲み、
一呼吸置いてから画面に向き直る。
――決めたのは、彼だ。
そう自分に言い聞かせて。
メールには、経緯と結論が淡々と書かれていた。
・無償対応は行わない
・ただし、追加作業の一部を有償で切り分け
・次回以降の条件を明文化
・文面は先方の立場に配慮して調整済み
最後に、一行だけ補足があった。
> 思ったより、ちゃんと話はできました。
男は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
正解かどうかは、分からない。
もっと丸い選択もあったかもしれないし、
もっと強く出る道もあった。
それでも――
**彼自身で引いた線**だった。
昼過ぎ、鈴木が声をかけてきた。
「昨日は、ありがとうございました」
その言い方に、少しだけ違和感があった。
「礼を言うのは、まだ早いだろ」
男がそう返すと、鈴木は苦笑した。
「正直、怖かったです。
決めるって、こんなに胃が痛いんだなって」
「それが普通だ」
男はそう言って、続けた。
「俺が全部決めてたら、
今日のその感覚は残らなかった」
鈴木は、静かに頷く。
「……はい。
でも、今回のことは、覚えておこうと思います」
それで十分だった。
男にできるのは、
判断を軽くする準備をすることだけだ。
引き取らない。
代わりに、残す。
午後、別の部署からも同じような相談が舞い込む。
内容も温度も違う。
だが、流れは同じだった。
即答しない。
線を示す。
決断は返す。
その繰り返しの中で、男は気づく。
資格を取ったから、景色が変わったのではない。
**景色を誰に見せるか**が変わったのだと。
夕方、社長とすれ違ったとき、
何気ない一言が落ちてきた。
「最近、あちこちが静かだな」
男は少し考えてから答える。
「多分、みんな考えてます」
社長はそれ以上、何も聞かなかった。
仕事とは、
問題を消すことではない。
判断を渡すことでもない。
**自分で決めたと、後で言える場所を残すこと。**
そうした“成果として残らない仕事”で、
静かに輪郭を深めていく。
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