第三十六話 戻した線の、その先で
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
それは、意図的な違反ではなかった。
男がそう判断したのは、
報告書に並んだ言葉の選び方を見たときだった。
――知らなかった。
――急いでいた。
――悪気はなかった。
どれも、嘘ではない。
だが、どれも**線を越えた理由にはならない**。
「……確認、入りました?」
男がそう聞くと、担当者は少し目を泳がせた。
「いえ……前例があったので、大丈夫だと思って」
前例。
便利で、危うい言葉だ。
「その前例、
“誰が責任を持ったか”まで分かる?」
担当者は答えられなかった。
男は席を立ち、
資料を持って会議室に向かう。
叱るためではない。
正すためでもない。
**戻すため**だ。
---
会議室には、関係者が揃っていた。
空気は張りつめているが、敵意はない。
「先に言っておきます」
男は静かに口を開いた。
「今回の件、
悪意がないことは分かっています」
肩の力が少し抜ける。
「でも、だからこそ整理が必要です」
資料を机に置き、
男は線を引くように指でなぞった。
「ここまでは、想定内。
ここから先は、明確に越えています」
「でも……結果的に、問題は起きていません」
誰かが、そう言った。
男は否定しない。
「今回は、です」
その一言で、空気が変わる。
「問題が起きなかったことと、
問題がなかったことは、違います」
責める口調ではない。
ただ、淡々と。
「もし同じことが、
別の案件で、別の相手に起きたら。
誰が、説明しますか」
沈黙。
男は続ける。
「線を踏み越えたこと自体が問題なんじゃない。
**踏み越えたあとに、戻れなかったこと**が問題です」
返す言葉は、すぐには出てこなかった。
---
会議が終わり、人が散っていく。
最後に残った担当者が、男に頭を下げた。
「……戻せて、よかったです」
その言葉に、男は頷いた。
「戻せたのは、
隠さなかったからです」
正直だったこと。
報告したこと。
それだけで、致命傷は避けられた。
廊下を歩きながら、男は思う。
資格があるから、
線を引けるわけじゃない。
**線を越えたときに、
ちゃんと戻れる道を残しているか。**
それこそが、
今、自分に求められている役割なのだと。
夕方の窓に映る自分は、
少し疲れて見えた。
それでも、
投げ出す理由にはならなかった。
間違えなかった話ではなく、
**間違えたあとに戻れた話**を、
ひとつずつ積み重ねていく。
お読み頂き、ありがとうございます。




