第三十四話 判断を引き取らなかった日
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
その相談は、夕方だった。
日中の雑音が落ち着き、
誰の机にも「今日をどう終わらせるか」だけが残る時間帯。
男のもとに、少し強い足音が向かってきた。
「ちょっと、いいですか」
声の主は、若手の鈴木だった。
焦りがそのまま歩幅に出るタイプで、
トラブルの匂いは、だいたい彼の靴音で分かる。
「先方が、想定外の要求をしてきてまして」
「今日中に返事をくれって……」
机の横に立ったまま、
鈴木は資料を差し出す。
男は受け取らなかった。
視線だけで中身を追う。
追加作業。
無償対応。
“今後の関係を考えて”。
理由は理解できる。
飲み込めば、場は収まる。
だが――
「鈴木。
君は、どうしたい」
突然の問いに、鈴木は言葉を詰まらせた。
「……正直に言えば、
ここで断って、関係を悪くするのは怖いです」
男は頷いた。
「じゃあ、やるとして。
その責任は、誰が持つ」
鈴木は答えられない。
「今回だけ、って言葉は使える。
でも、“今回だけ”は必ず次を連れてくる」
少し間を置いて、男は続ける。
「俺が判断していいって思ってる?」
「……正直、決めてほしいと思ってます」
それを聞いて、男は静かに首を振った。
「今回は、俺は決めない」
鈴木の目が見開かれる。
「戻すのは、俺がやる。
線を引く材料も出す。
でも、決めるのは君だ」
「それって……」
「責任を押し返すってことだ」
冷たい言い方だったかもしれない。
だが、避けて通れない瞬間だった。
男は机の引き出しからメモを一枚出し、
要点だけを書いた。
・無償対応した場合の影響
・次回以降の先例リスク
・交渉できる余地
・断る場合の伝え方
「この材料で、
“やる”か“ここまで”か、決めてきてくれ」
鈴木は、しばらく黙ったまま紙を見つめていた。
「……分かりました」
その声には、逃げ場を失った緊張と、
覚悟が混ざっていた。
鈴木が去ったあと、
男は一人で椅子に深く座り直す。
助けなかったわけじゃない。
放り出したわけでもない。
**引き取らなかっただけだ。**
資格を持つと、
答えを出せるようになる。
だが本当に難しいのは、
**答えを出さない選択を引き受けること**だと、
男は少し遅れて理解し始めていた。
窓の外は、もう暗い。
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