第三十三話 正しさを言わなかった日
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
午後の会議室は、妙に空気が重かった。
机の上には資料が三部。
中央に置かれた一枚だけ、角が少し折れている。
何度も手に取られ、戻された跡だった。
「これ、どう思います?」
営業の中堅がそう言って、資料を男のほうへ押した。
周囲の視線が、一斉に集まる。
内容は単純だ。
クレーム案件への対応案。
返金か、継続か、それとも部分的な是正か。
法律的には――
答えは出せる。
条文も、責任の所在も、過失の有無も整理できる。
だが男は、すぐに口を開かなかった。
「先に聞いていいですか」
そう前置きして、資料から目を離す。
「この案で、一番安心するのは誰です?」
沈黙が落ちた。
営業は一瞬考え、答える。
「……会社、だと思います」
「じゃあ、相手は?」
「……納得は、しないかもしれません」
その言葉を聞いたとき、
男ははっきりと意識した。
――今日は、言わない日だな。
正しさを説明すれば、会議は終わる。
だがそれは、判断を凍らせる。
「これ、法的に間違いだとは言いません」
一同の視線がわずかに揺れる。
「ただ、このまま進むと
“正しいけど壊れる”結果になります」
「……どういうことですか」
男は、資料の端を軽く指で押さえた。
「相手が欲しいのは、
是非の判断じゃない。
“どこまでなら戻れるか”です」
返金。
継続。
中間案。
どれを選んでも、摩擦は残る。
問題は、その摩擦を**誰が引き受けるか**だった。
「ここ、まだ決めてないですよね」
そう言って、未確定の一文を指す。
「だから、ここだけ一度、白紙に戻しましょう」
驚いた顔がいくつも並ぶ。
「今から戻すんですか?」
「戻します。
全面じゃない。
判断の芯だけです」
法の話はしない。
過失の話もしない。
“現実として、どこまで引き受けるか”
それだけを、机の上に載せた。
しばらくして、営業が深く息を吐いた。
「……それなら、話せます」
会議が再開される。
意見は割れ、言葉は荒れたが、
誰も結論を押しつけなかった。
男はその様子を見ながら思う。
資格が役に立つ瞬間は、
正しさを言えるときじゃない。
**正しさを持ったまま、言わない選択ができるとき**だ。
会議が終わり、資料が片づけられる。
椅子が引かれ、人が散っていく。
最後に残った一人が、ぽつりと呟いた。
「……助かりました」
男は頷くだけで、何も言わなかった。
廊下に出ると、夕方の光が差し込んでいる。
今日も、派手な成果はない。
だが一つだけ、確かな手応えが残っていた。
**判断を前に進めるより、壊さずに戻せたこと。**
お読み頂き、ありがとうございます。




