第三十二話 合格後、最初に戻した判断
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
合格通知が届いてから一週間。
男の時間の流れは、驚くほど変わっていなかった。
出社時間は同じ。
机の位置も、仕事の量も変わらない。
封筒は引き出しの奥に入れたまま、意識の外に押しやられていた。
それでも、確実に変わったものがある。
「一回、確認してもらっていいですか」
「どう思います?」
そう言われるタイミングが増えた。
しかも決まって、判断の一歩手前で止まった顔を向けられる。
評価ではない。信頼でもない。
**責任の置き場を探す視線**だった。
昼前、コピー機の前で原稿を整えていると、
背後から控えめな声がした。
「すみません……」
振り返ると、新人の佐藤が立っている。
入社半年。誠実で、仕事は早いが、決断の瞬間に必ず一拍置くタイプだ。
「この書類なんですけど」
差し出されたのは、取引先との覚書。
付箋が三枚、慎重に貼られている。
「前任の方は、同じような条件でも押印してたって聞きました。
でも今回は、内容が少し違っていて……」
言葉を選びながら、佐藤は最後にこう聞いた。
「ダメ、なんでしょうか」
その瞬間、男の中で警鐘が鳴る。
最初に教えたくない問い方だ、と。
ダメか、ダメじゃないか。
白か黒か。
その判断は早く、楽で、だれも傷つかないように見える。
だが実際には、**もっとも雑に責任を押しつける形**でもある。
「……どこが気になった?」
そう返すと、佐藤の肩の力がわずかに抜けた。
彼は付箋の一枚を指差す。
「この免責条項です。
“一切の責任を負わない”って書いてあって……
うちの作業範囲も含まれているように見えて」
男は中身を一目通し、頷いた。
論点は整理できる。
民法の話も、判例の話もできる。
だが、それを今言う意味はない。
「この文章、誰のためのものだと思う?」
佐藤はすぐに答えられなかった。
少し考えてから、恐る恐る言う。
「……取引先、ですよね」
「じゃあ、うちは?」
「……不安になります」
「そうだね」
男はゆっくりと続けた。
「ここで重要なのは、
“法的にアウトかどうか”よりも、
“現実として引き受けられるかどうか”だ」
佐藤は黙って聞いている。
「うちがコントロールできる作業はどこまでか。
逆に、相手の判断や第三者の行動で左右される部分はどこか。
その線が、この覚書には引かれていない」
付箋を一枚ずつ指し示しながら、説明する。
「全部引き受けます、って書いてある文章は、
トラブルが起きたときに“話し合えなくなる”」
「……戻してもいいんですか?」
その問いに、男ははっきりと答えた。
「戻そう。
ただし、“拒否”じゃなくて、
“ここまでは引き受けます”という形で」
佐藤の表情が変わる。
迷いが、作業に変わる顔だった。
「分かりました。
一度整理して、先方に投げ直します」
去っていく背中を見送りながら、男は思う。
資格を取ったから、答えを出す人間になったわけじゃない。
**考え直す場所を示す役目**を引き受けただけだ。
席に戻ると、メールが一通届いていた。
別件の相談。
件名の末尾に、小さく「念のため」と添えられている。
男は深く息を吸い、画面を開いた。
合格後、最初にやるべき仕事は、
前に進むことではなかった。
**判断を、原点に戻すこと。**
第三章は、そこで静かに始まっていた。
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