幕間 煙の中の確認、道標は引き出しに
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
喫煙は演出としての一つであり、本作は喫煙を推奨するものではございません。
喫煙室の換気扇は、相変わらず甲高い音を立てていた。
白い壁に貼られた注意書きも、灰皿の置き方も、何一つ変わっていない。変わったのは、ここへ入ってくる俺の呼吸だけだった。
社長は窓際に立って、いつもの銘柄に火をつけた。
俺も一本出して、遅れて火を点ける。煙が天井へ吸い込まれていくのを見て、ようやく言葉が喉まで上がってきた。
「……合格しました」
それだけ言うと、思ったよりも早く口が軽くなるのが分かった。淡々としているつもりなのに、声の奥にわずかな熱が混じっている。
社長は、すぐに振り向かなかった。
一息吸って、ゆっくり吐く。煙と一緒に間を作ってから、短く言った。
「そうか」
それだけだ。
でも、その一言のあとに続く沈黙は、否定でも様子見でもなかった。確認が済んだ、という種類の静けさだった。
「おめでとう」
社長はそう言って、初めてこっちを見た。笑っているわけじゃない。けれど、目が少し柔らかい。
「よくやったな。ちゃんと、戻ってきた」
戻ってきた。
その言葉に、胸の奥が軽く揺れる。合格より先に、何度も往復した場所が頭に浮かんだ。会議室。机。夜のノート。条文の余白。
「正直に言うとさ」
社長は灰を落としながら続けた。
「結果より、過程を見てた。
最近の君は、“答え”を置きに行かなくなった。
まず線を引いて、残りを一つずつ片付ける。
それができてた」
俺は頷いた。
試験の点数を言わなくても、ここではもう通じる。
「でな」
社長は、もう一本に火をつける。
「次の道標の話だ」
心臓が、ゆっくり一拍打つ。
「合格した人はな、二種類に分かれる。
資格に守ってもらう人間と、
資格を使って人を守る人間だ」
煙が、俺たちの間を流れる。
「君は後者だ。
だから次は、“守る範囲”を広げろ」
広げる。
俺は、その言葉を噛みしめる。
「契約でも、個人情報でも、労務でもいい。
どれを選んでもいいが、
**迷ったら、現場に近いほうへ行け**」
社長は、まっすぐ言った。
「机の上で完結しない分野だ。
人が動く。失敗も起きる。
そのとき、君の線引きが効く」
少しだけ間を置いて、付け足す。
「次は、個人情報だろ」
決めつけじゃない。確認だった。
「事故は起きる。
起きたときに、誰をどう守るか。
それを言葉にできる人間が、まだ足りない」
俺は、小さく笑った。
「逃げ場のない分野ですね」
「だからいい」
社長は即答した。
「逃げ場がないところで、考え続けられる人間は強い。
資格は、その確認票でしかない」
換気扇の音が、少しだけ大きく聞こえた。
俺は最後の一吸いをして、灰皿に押し付ける。
「……ありがとうございます」
それは礼だったし、決意でもあった。
社長は、ドアに手をかけながら言った。
「合格はしまっとけ。
前に出すのは、必要になったときだけだ」
そして、振り返らずに続ける。
「次に必要なのは、
**正しい人間**じゃない。
**戻ってこれる人間**だ。
君は、もう知ってる」
ドアが閉まり、喫煙室に俺一人が残った。
煙は消え、音だけが続いている。
合格通知は、確かに引き出しにある。
でも道標は、今もここに立っている。
俺は、空になった灰皿を洗ってから、部屋を出た。
次の仕事が、もう待っている。
お読み頂き、ありがとうございます。




