第二十八話 「責任は、どこまで広がるのか」
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
その火種は、いつも通りの顔をして届いた。
「先方が、損害賠償を言ってきてます」
営業が、メールの画面を差し出す。
内容は短い。だが、数字だけが重かった。
- 追加人員の手配費
- 代替品の緊急調達費
- 納期遅延による違約金
- そして——「逸失利益」
男は、すぐに言葉を返せなかった。
「……まず、何が起きたかを、もう一回」
営業が説明する。
外注先が納品した部材に不具合があり、現場で再加工が発生した。
結果、納期が遅れた。
納期が遅れた結果、取引先の工事が一日ずれた。
工事がずれた結果、取引先はさらにその先の顧客から違約金を取られた。
「それも含めて、うちが払えって」
営業の声には、怒りより先に疲れがあった。
怒りたくなる。だが、怒りは判断を短くする。
男は、白紙を一枚取り出した。
その紙に、いつもの四角を描く。
- 債務不履行は何か
- 損害は何か
- 因果関係はどこまでか
- 免責はあるか
「——これ、債務不履行の話です」
男は言った。
「契約上の義務を守らなかった場合、損害賠償が問題になります」
営業がうなずく。
社長は腕を組んで黙っている。
「ただ、今回の肝は、ここです」
男は、線を二本引いた。
**どこまでが“通常”で、どこからが“特別”か。**
---
外注先の不具合。
これは、債務不履行の類型としては「不完全履行」に近い。
納期遅れが出れば、履行遅滞の顔も見せる。
形が混ざるほど、損害の話は難しくなる。
男は、取引先の請求項目を一つずつ見ていった。
「再加工にかかった費用。代替品の調達費。
これは、比較的“通常損害”の範囲に入りやすいです」
社長が、短く問う。
「じゃあ、違約金は?」
男は、そこで一度、呼吸を置いた。
この“間”が、以前の自分には作れなかった。
「違約金は……状況によります。
相手の契約に違約金条項があることを、こちらが知っていたか。
少なくとも、予見できる事情だったか」
社長の目が少し細くなる。
「逸失利益は?」
男は、紙の端に「416」と書いた。
「損害賠償の範囲は、原則として“通常生ずべき損害”。
でも、“特別の事情による損害”でも、予見できたなら対象になります」
営業が口を挟む。
「つまり、向こうが“困った”って言えば、全部来るんですか?」
「来ます。でも——通るとは限らない」
男は言い切った。
「特別損害は、“その事情を予見すべきだったか”が条件です」
---
会議室に、静かな空気が落ちる。
社長が、低い声で言った。
「君さ。
“因果関係”って言葉、前は便利に使ってたな」
男は、否定しなかった。
「はい。便利すぎました」
男は、因果関係の線を引き直した。
「今回の請求は、因果の鎖が長い。
外注の不具合 → 納期遅延 → 取引先の工事遅れ → その先の顧客の違約金」
男は、最後の箱を指で叩く。
「ここまで行くと、
“通常”の範囲から外れやすい。
外れるなら、“特別事情”として、予見可能性が必要になる」
社長が問う。
「じゃあ、予見できたかどうか、どう見る」
男は、事実の棚卸しを始めた。
- 相手が「その先に大口案件がある」と事前に言っていたか
- 納期がズレた場合の影響を、共有されていたか
- こちらが短納期を受ける時点で、その背景を知っていたか
「メールと議事録、確認します。
“知ってたか”じゃなく、“知るべきだったか”の材料が必要です」
そこで営業が、苦い顔をした。
「……でも、うちも、仕様を途中で変えてます」
男は、手を止めた。
「どのタイミングで?」
「外注が作り始めた後です。
現場都合で、寸法を……」
その瞬間、社長が小さく笑った。
責める笑いじゃない。
“見つかったな”という笑い。
男は、うなずいた。
「——過失相殺の話になります」
社長が短く言う。
「こっちにも落ち度があるなら、賠償は減る」
男は、強く頷いた。
そして、もう一つ付け足す。
「ただし、こっちの落ち度でゼロにはなりにくい。
でも、額は動く可能性が高い」
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会議が終わり、社長が男を呼び止めた。
「前なら、どうしてた?」
男は答えた。
「相手が悪い、と言ってました。
“うちは被害者です”って」
社長は言う。
「今は?」
男は、紙の四角を見た。
「誰が悪いかより、
“何が要件で、どこまで通るか”を先に見ます」
社長は、それ以上言わなかった。
だが、男には分かった。
「まだ足りない」は、
責められる言葉じゃない。
**基準のある言葉**だった。
---
その夜。
男はテキストを開く。
債務不履行。損害賠償。
要件。範囲。予見可能性。
因果関係。
ページの余白に、男は短く書いた。
> 損害は、広がる。
> でも、責任は、無限じゃない。
それは、相手を切るための言葉じゃない。
自分の会社が、誠実に引き受ける範囲を決めるための言葉だった。
合格は、ゴールじゃない。
でも、合格できる人は、
こういう時に迷わない。
男は、ペンを置いた。
——次は、
「解除」を自分の言葉で言えるようになる。
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